ポール・ニューマン
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ポール・ニューマン | |
映画『栄光への脱出』より 共演のエヴァ・マリー・セイントと |
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本名 | Paul Leonard Newman |
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生年月日 | 1925年1月26日(83歳) |
出生地 | アメリカ合衆国・オハイオ州 |
民族 | アメリカ人 |
ジャンル | 俳優(映画・テレビドラマ) |
活動期間 | 1954年-2007年 |
活動内容 | 1952年:アクターズ・スタジオへ 1954年:映画デビュー 1958年:アカデミー賞ノミネート 1985年:初のアカデミー賞 1986年:アカデミー主演男優賞 2007年:引退を宣言 |
配偶者 | ジャッキー・ウィット(1949年-1958年) ジョアン・ウッドワード(1958年-) |
主な作品 | |
『熱いトタン屋根の猫』『ハスラー』 『暴力脱獄』『脱走大作戦』 『明日に向って撃て!』 『スティング』 『タワーリング・インフェルノ』 『スラップ・ショット』『評決』 『ハスラー2』『未来は今』 『メッセージ・イン・ア・ボトル』 『ロード・トゥ・パーディション』 |
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受賞 | |
アカデミー賞 ゴールデン・グローブ賞 英国アカデミー賞 エミー賞 |
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備考 | |
ハリウッド名声の歩道 | |
ポール・ニューマン(Paul Newman,本名:Paul Leonard Newman, 1925年1月26日 - )は、アメリカ合衆国の俳優。3度のアカデミー賞受賞を初めとして数多くの受賞歴を持つ。また、食品製造会社「ニューマンズ・オウン」の設立者であり、1982年の設立以降挙げた純利益2億2千万ドルを全額寄付。その他レーサー、政治運動家としても多くの功績を残す。1950年代以降半世紀以上にわたり第一線で活躍する人物。
目次 |
[編集] 来歴・人物
[編集] 生誕から終戦まで
オハイオ州クリーブランドで、スポーツ用品店を経営するユダヤ人の父・アーサーと、カトリックの母・テレサとの間に生まれる。幼い頃は脆弱で学校でいじめを受けていた。7歳の時、演劇好きの母の勧めで児童演劇団に入団。『ロビン・フッド』の道化師役で舞台に立つもポールは演劇に関心を示さなかった。12歳の時、クリーブランドの児童演劇部に入部。高校卒業後は定職に就かず百科事典の訪問販売などで生計を立てていた。その後、家業を継ぐためにアセンズのオハイオ大学経済学部で学ぶが、第二次世界大戦が勃発し海軍に入隊。爆撃機の通信兵として従軍したが、色盲であったため、実際に戦争を体験する前に除隊となった。
[編集] 紆余曲折を経て演劇の道へ
終戦後にオハイオ大学を経て進学したケニヨン・カレッジではフットボールに打ち込むも、チーム内の喧嘩が原因で除名処分を受けたため、子供の頃に学んだ演劇の道を志す。卒業後、地方の劇団を渡り歩き演劇の修行に励む傍ら1949年に結婚。翌年に父親が他界すると一旦家業を継いだが、演劇講師になるための学費を工面するために父の代から続いた店を売却。進学先であるイェール大学大学院で披露した演技がエージェントの目に留まり、ニューヨークに招かれた。テレビドラマや舞台における演技が認められ、1952年にジェームズ・ディーンやマーロン・ブランドと共にアクターズ・スタジオに入学。
[編集] 賞賛と挫折
初の大役となったブロードウェイの舞台『ピクニック』での演技が映画関係者から高い評価を受け、ワーナー・ブラザースと5年間の専属契約を交わす。アクターズ・スタジオに同期で入学したディーンが主役を演じた『エデンの東』では、当初主人公の兄を演じる予定でスクリーン・テストまで行ったものの、監督のエリア・カザンがニューマンの出演を却下。1954年に『銀の盃』でスクリーンデビューを果たすものの、作品自体が映画評論家から失敗作の烙印を押されるという不本意なデビューとなった。ディーンとブランドがそれぞれ『エデンの東』『波止場』でトップスターへと上り詰める一方で、ニューマンは満足のいく作品に出演できないうえ、スタジオや批評家から「第2のマーロン・ブランド」と称されることに失望し映画界を離れ、活動の拠点を舞台とテレビドラマへ移した。
[編集] 俳優としての成功と再婚
舞台とテレビドラマにおける演技が賞賛されたニューマンは、ディーンの急逝により主演のポストが空白となっていた映画『傷だらけの栄光』に、監督のロバート・ワイズの依頼を受け出演。実在のプロボクサー、ロッキー・グラジアノの話し方や癖を模倣するなど、徹底した役作りを敢行した末に臨んだ同作は高く評価され、一躍注目を浴びる存在となった。1956年に最初の妻と離婚。1958年、先述の舞台『ピクニック』で知り合った女優、ジョアン・ウッドワードと、映画『熱く長い夜』での再共演を機に再婚。6人の子を儲ける鴛鴦夫婦となる。さらに同年の映画『熱いトタン屋根の猫』で初めてアカデミー主演男優賞にノミネートされるなど、公私共に充実した時期を迎えた。
[編集] No.1スターから監督業進出
1960年代はニューマンにとって順風満帆そのものであった。1961年の『ハスラー』で英国アカデミー賞の男優賞を受賞すると、1963年の『ハッド』での受賞を機に1965年と1967年の3度、ゴールデングローブ賞の「世界で最も好かれた男優」に選出された。さらに、妻のウッドワードを主演に起用した初監督作品『レーチェル レーチェル』では、同年度のアカデミー賞で作品賞を初めとした4部門にノミネートされたほか、ゴールデングローブ賞とニューヨーク映画批評家協会賞では監督賞受賞に加えて妻に女優賞を齎した。
1969年にロバート・レッドフォードと共演したアメリカン・ニューシネマの西部劇『明日に向って撃て!』は生涯最高のヒットを記録。マネー・メイキングスターの1位に選出され、トップスターとしての地位を不動のものにした。さらに製作者としての飛躍を求めてシドニー・ポワチエ、バーブラ・ストライサンドと共に映画製作会社「ファースト・アーティスツ」を設立した。
[編集] レーサー・政治運動家・父子共演
「ファースト・アーティスツ」設立後初めて製作を担当した映画『レーサー』でのレーシング・スクールへの参加を機にカーレースに熱中するようになり、44歳にしてレーサーとしてプロデビューを果たした。俳優業でも成功は続き、1973年の『スティング』ではレッドフォードとの競演の末、同年度のアカデミー作品賞を受賞。翌1974年の『タワーリング・インフェルノ』での報酬は100万$に達し、息子のスコット・ニューマンとの共演も実現した。
ベトナム戦争の敗北を目の当たりにしたニューマンは、積極的な公民権運動ならびに反戦運動を展開。活発な運動と過激な発言は、当時のアメリカ大統領であるリチャード・ニクソンを敵に回す結果になり、1973年にホワイトハウスが公表したブラックリストにその氏名が記載された。
[編集] 出演作品の不発と愛息の死
1975年にカール・ハースとともにニューマン・ハース・レーシングを結成し、CARTに参戦した。1977年のデイトナ24時間レースで5位を記録すると、1979年のル・マン24時間レースでは2位を記録。レーサーとしても華やかな成功を記録した。その一方で、俳優業は不振が続き『タワーリング・インフェルノ』のアーウィン・アレンと再びタッグを組んだパニック映画『世界崩壊の序曲』は興行的に大失敗したうえ批評家からは「史上最低のパニック映画」と酷評され、ニューマン自身も同作への出演を後悔する旨の発言をする始末であった。さらに1978年には、大スターの息子である重圧に耐えかねたスコットが酒とドラッグに溺れ命を落とした。愛息の死を嘆いたニューマンは、麻薬撲滅運動の展開を決意。ドラッグで命を絶たれた息子の名を冠した「スコット・ニューマン基金」を設立し、ドラッグの弊害を描いた映画やテレビ番組に対する資金提供を行っている。
[編集] ニューマンズ・オウン設立とアカデミー賞受賞
1970年代後半は不振続きであった俳優業も、1980年代に入ると1981年の『スクープ・悪意の不在』から『アパッチ砦・ブロンクス』『評決』と立て続けに出演した社会派作品でリアリティのある演技を披露し新境地を開拓した。また、自家製のサラダを自慢していたニューマンは1982年、冗談半分で食品会社「ニューマンズ・オウン」を設立。極力食品添加物を排除したフレンチ・ドレッシングは好評を博し、スパゲッティーのソースやポップコーンの販売にも着手。日本では日本アムウェイが商品の販売に参入するなど、ニューマンの知名度も相乗効果を齎し、瞬く間に世界規模での事業拡大に成功。純利益を全額、貧困に喘ぐ子供たちに寄付している。
俳優としても1983年にゴールデングローブ賞の生涯功労賞に相当するセシル・B・デミル賞を受賞。さらに1985年、長年の功績を称えられ、アカデミー名誉賞を受賞。翌1986年には『ハスラー2』での演技が認められアカデミー主演男優賞を受賞。2年連続でオスカー像が授与され、アメリカ映画界にその名を残す俳優となった。
[編集] 俳優・実業家としての成果、引退
還暦を超えても第一線での映画出演を続けたニューマンは、1994年の『ノーバディーズ・フール』でベルリン国際映画祭などで数多くの男優賞を受賞。2002年の『ロード・トゥ・パーディション』で9度目となるアカデミー賞ノミネート(初の助演男優賞部門)を果たすと、傘寿を迎えた2005年にはテレビドラマ『追憶の街 エンパイア・フォールズ』でゴールデングローブ賞とエミー賞を受賞。2006年には、ピクサーのアニメーション映画『カーズ』でメインキャストのドック・ハドソン役で声の出演を担当。止め処無く活躍を続けるニューマンに対し、一部映画関係者からロバート・レッドフォードとの最後の共演作品が企画されるなどさらなる活躍が期待されていたが、2007年5月25日、出演したABCテレビの番組において、加齢による演技力・記憶力の衰退から自分の納得する演技が不可能になったと語り、俳優としての活動を引退することを正式に発表した。
ニューマンにとってプライベートでの著名な活動の一つである「ニューマンズ・オウン」は4半世紀に及ぶ運営で挙げた2億2千万$の純利益を全額恵まれない子供たちに寄付。1993年にはその功績に対しアカデミー賞のジーン・ハーショルト友愛賞が贈られた。俳優としての活動に終止符を打った後は、これらの事業や家族とのコミュニケーションに専念する意向を示している。
2007年6月、中西部オハイオ州ガンビアの母校ケニヨン大に対し、奨学基金の設立資金として1000万ドル(約12億2000万円)の寄付を申し出た。今回の寄付について「母校への個人的愛情や恩義」と説明。奨学金は家庭の事情で学費が払えない非白人のマイノリティー(少数派)の学生らに支給されるという。
[編集] エピソード・トリヴィア
- 日本では、日産自動車の6代目R30型スカイライン(1981年-1985年)のTVCMに出演しており、「ニューマン・スカイライン」の名で広告展開されていた事で、6代目R30型スカイラインの生産販売が終了してから20年以上経った現在も「ニューマン」の愛称で自動車ファンからも広く親しまれている。
- 50年の長きにわたり連れ添っているウッドワードとの鴛鴦夫婦ぶりについてニューマンは「家でステーキを食べられるのに、わざわざ外でハンバーガーを食べる必要はないさ。」と語っている。
- 政治的にはレフティーを自認し、ブッシュ政権が進めようとしている富裕層の相続税減税について「私のような金持ちから税金を取らないのは馬鹿げている。」と語っている。
- ロレックスのデイトナを愛用していたことがきっかけで、ロレックス・デイトナに「ポール・ニューマン・モデル」と正式に名づけられたモデルが存在する。
[編集] 主な出演作
- 傷だらけの栄光 Somebody Up There Likes Me (1956)
- 熱いトタン屋根の猫 Cat on a Hot Tin Roof (1958)
- 栄光への脱出 Exodus (1960)
- ハスラー The Hustler (1961)
- 動く標的 The Moving Target (1966)
- 引き裂かれたカーテン Torn Curtain (1966)
- 暴力脱獄 Cool Hand Luke (1967)
- レーチェル レーチェル Rachel, Rachel (1968) 監督のみ
- 明日に向って撃て! Butch Cassidy and the Sundance Kid (1969)
- オレゴン大森林/わが緑の大地 Sometimes a Great Notion (1971) 監督、主演
- スティング The Sting (1973)
- タワーリング・インフェルノ The Towering Inferno (1974)
- スラップショット Slap Shot (1977)
- 世界崩壊の序曲 The Day World Ended (1980)
- アパッチ砦ブロンクス Fort Apache: The Bronx (1981)
- 評決 The Verdict (1982)
- ハスラー2 The Color of Money (1986)
- ガラスの動物園 The Glass Menagerie (1987) 監督のみ
- ミスター&ミセス・ブリッジ Mr. & Mrs. Bridge (1990)
- 未来は今 The Hudsucker Proxy (1994)
- ノーバディーズ・フール Nobody's Fool (1994)
- ザ・シンプソンズ The Simpsons (2001) 声の出演
- ロード・トゥ・パーディション Road to Perdition (2002)
- カーズ Cars (2006) 声の出演