ウクライナ・コサック
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ウクライナ・コサック(ウクライナ語:Українські козакиウクライィーンスィキ・コザークィ、またはУкраїнське козацтвоウクライィーンスィケ・コザーツトヴォ;ロシア語:Украинские казакиウクライーンスキイェ・カザーキ、またはУкраинское казацтвоウクライーンスキイェ・カザーツトヴァ;ポーランド語:Kozacy ukraińscyコザーツィ・ウクライーィンスツィ)とは、かつて現代のウクライナに当たる地域に生活したコサックのことである。当初はポーランド王国へ従属したが、ヘーチマーン国家の編成を経て次第にロシアへの従属を強めていった。
目次 |
[編集] 概要
[編集] 歴史
「コサック」という言葉は「群(社会)を離れた者」という意味のトルコ語から来た言葉である。14世紀~15世紀には、ポーランド王国の王から貴族としての権利が認められなかったキエフ・ルーシ(キエフ大公国)の士・豪族の子孫を中心とするコサック団隊がウクライナのステップ地帯で出現したとされる。領主への隷属を嫌って、「リトアニア・モスクワ両公国の南部の辺境」へ逃亡してきた農民たちという起源説はあるが、文献等による証拠が不足している。コサックは漁業や海賊行為を営むため、ドニエプル川・ドン川の辺に住みついた。
この内、ドン川に生活の拠点を置いたコサックはドン・コサック(ドン地方のコサック)と呼ばれ、南ロシアから東ウクライナの一部に勢力圏を敷いた。ドン・コサックは、のちにロシアへの従属を強め、ロシア・コサックの代表格となっていった。一方、ドニエプル川下流にはドムィトロー・ヴィシュネヴェーツキーによってザポロージエ・シーチが建設された。ここに居住したコサックはザポロージエ・コサック(ザポロージエのコサック)と呼ばれ、ポーランド・リトアニア連合との関係を強めていった。このザポロージエ・コサックが次第に勢力を強め、ウクライナ・コサックの代表的存在となっていった。
ウクライナ・コサックではロシアのコサックとは異なる階級や秩序が敷かれた。特に、ラーダによって選出される最高職としてヘーチマーンを置いたことは特筆に値した。ウクライナ・コサック第一のポリシーは「自由と平等」で、これに反する者はその身分に拘らず社会から追放された。
16世紀~17世紀には、コサックが神聖ローマ帝国とフランス王国の軍隊の傭兵としてヨーロッパでの戦争に活躍し、有力な軍事力となった。一方、ポーランド王国支配下のウクライナでは登録コサックが貴族と同様な権利を認められたが、反ポーランド戦士「ハイダマーク」を中心にしばしばその領地で反乱を起こすようになった。1625年に起こったポーランド・コサック戦争(ポーランド・ウクライナ戦争とも)、1630年のヘーチマーン・タラース・フェドローヴィチ=トリャシロ率いるフェドローヴィチの蜂起などである。
1648年にはヘーチマーン・ボフダン・フメリニツキーの先導によりウクライナ・コサックがポーランドに対する大規模な反乱(フメリツキーの蜂起)をおこしたが、その反乱はロシアを巻き込んでウクライナ解放戦争となった。しかしながら、彼はウクライナのポーランドからの独立を勝ち取ったものの、その際にモスクワ大公国(ロシア帝国)に援助を申し出たため、それを逆手に取られその後長年にわたるロシアによるウクライナ支配を招いてしまった。それでも彼は現在ウクライナでひとりの英雄として扱われており、首都キエフには彼の銅像の立つ広場があり、道を走るバスにも「ボフダン」のブランド名を持つものがある。また、彼の肖像は5フルィーヴニャ紙幣にも用いられている。
マゼパ時代の大砲隊のコサック |
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1708年には大北方戦争中にスウェーデンと同盟を結んだヘーチマーン・イヴァーン・マゼーパがロシア帝国に対し反乱を起こしたが、ザポロージエ・コサックを除く多くのウクライナ・コサックはマゼーパに背き、ロシア側に加担した。マゼーパはポルタヴァの戦いで致命的な敗北を喫し、戦いに敗れた多くのコサックが辿ったのと同じ道、トルコ領への逃亡を余儀なくされた。これが、ウクライナでコサックの起こした最後の大反乱となった。現在、マゼッパの肖像はウクライナの紙幣の肖像画のひとつになっている(10フルィーヴニャ紙幣)。
その後、ウクライナは徐々にロシアに同化されていき、エカチェリーナ2世の時代までにはウクライナ・コサックの伝統は崩壊状態となった。特に、プガチョフの反乱にザポロージエ・シーチが関係したことは致命的であった。ロシア・コサックがロシア帝国の軍事組織として残り、現代でも存在しているのに対し、ウクライナ・コサックは完全に解体され、その多くは農民に戻ったといわれる。一部は南ブーフ川やドニエストル川、のちに黒海方面へ逃れ、その地で新しいシーチを開いた。コサック逃亡の伝統に則り、トルコ領へ逃れたものもあった。また、カフカース方面へ逃れたものの一部は、のちにクバン・コサックと合流した。
20世紀に入り、ウクライナ・コサックは再び歴史の表舞台に立った。1917年にウクライナ中央ラーダがウクライナの政府として成立すると、ウクライナ・コサックの代表者も政府に参加し、また軍事部門も一部でウクライナ・コサック部隊が担った。パーヴェル・スコロパーツキイやシモン・ペトリューラらに率いられたウクライナ・コサック部隊は、ボリシェヴィキとのウクライナ・ソヴィエト戦争において主要な役割を果たした。パーヴェル・スコロパーツキイは、1918年4月末にクーデターを起こし、自ら「ヘーチマーン」を名乗って新政権を打ち立てた。しかし、ウクライナの独立勢力はロシアのボリシェヴィキに敗れ、ウクライナ・コサックはまたもや辛酸を嘗める結果となった。1932年から1933年にかけては、ソヴィエト政府によって内戦期に反ソヴィエト勢力が根強かったウクライナや南ロシアを中心に大飢饉が推進され、多くのウクライナ人・ウクライナ・コサックがその犠牲となった。第二次世界大戦ではウクライナ人勢力による反ソ連・反ポーランド運動が盛んに行われたが、その際にもかつてのようにウクライナ・コサック色が前面に出されることがあった。
ソ連時代には、アニメや映画など文芸部門でウクライナ・コサックはしばしば取り上げられ、ウクライナ共和国国民から愛されるキャラクターとなっていった。ウクライナ独立後もその傾向は強まり、多くのウクライナ人にとってウクライナ・コサックの記憶は大切なものとなっている。
[編集] 軍事
一般に、コサックはタタール人やトルコ人などの襲撃から国を守る役割を果たした。宗主国となった国は、平時にはコサックを主として南部の守りにつかせていた。
ウクライナ・コサックの軍隊(コサック軍)の中心となったのは、対タタール戦を重視した軽武装の騎兵隊であった。ザポロージエ・コサックでは、シーチ銃兵隊が軍の中核をなした。
16~18世紀、ウクライナ・コサックは何種類にも分類され、まずヘーチマーンが指揮する軍があり、次にザポロージエの軍(シーチ銃兵隊)があり、地域ごとのコサック連隊(スームィ、ハルキウ、オクチィルおよびオストログ)が多数存在した。さらにウクライナ右岸(ポーランドに所属)のコサック連隊(クリーニ)があった。
ヘーチマーンが指揮する軍隊は主にキエフ、ムィールホロド、プルィルークィ、ペレヤースラウ、ニズヒュン、ハドヤッチ、ルブヤン、ストラダブ、チェルニーヒフの登録コサックの連隊で構成され、さらに傭兵連隊もあった。各連隊の兵力は一定ではなく(400名から700名)、連隊は百人単位で分割され、百人を支配する長とスタルシナー(長老、そのスタッフはオサヴル1名、オボズヌィイ1名、コルネット奏者1名など)による指揮を受けた。100人はいつかのクリーニを構成し、各クリーニはクリーニの長が指揮を取った。コサックは、えん月刀、マスケット銃、ピストル、弓、ダガー、棍棒、6つの刃の付いた棍棒など、さまざまな武器で武装していた。彼らは東方の武器とヨーロッパの武器の両方を使ったが、通常、鎧は着用しなかった。そのため、軽騎兵で構成されたタタール軍相手の戦闘では互角の戦闘を行えたが、西欧列強の重歩兵部隊との戦闘が増えるようになると、次第にその存在意義は薄れていった。このことが、ロシア帝国下でのウクライナにおけるコサック不要論のひとつの根拠となった。
[編集] 後年への影響
ウクライナ・コサックの存在は、その伝統が廃れたのちもウクライナ人の心の拠り所となった。多くの文学作品や詩などで積極的にウクライナ・コサックが題材にされ、それは帝政・ソ連時代を通じて続いた。また、軽乗用車ザポロージェツィのように商品でもウクライナ・コサックのイメージが利用された。
また、ウクライナが独立を目指す時代にはウクライナ・コサックのイメージが必ずといってよいほど用いられた。ロシア革命後のウクライナ内戦期には、ウクライナの反ボリシェヴィキ革命戦士は「ハイダマーク」を名乗った。また、ウクライナ中央ラーダの精鋭部隊はシーチ銃兵隊を名乗り、オーストリア・ハンガリー帝国下の西ウクライナで編成された軍隊もウクライナ・シーチ銃兵隊を称した。ドイツ帝国の傀儡国家として成立したウクライナ国でも、ウクライナ国民への懐柔策としてウクライナ・コサックのイメージが大いに利用された。また、その首領は「ヘーチマーン」を名乗った。
独立後のウクライナでも、到るところでウクライナ・コサックがキャラクターとして用いられているのを目にすることができる。紙幣にも、ウクライナの「初代」大統領ミハイール・フルシェーフスキーや国民的詩人レースャ・ウクライーンカに並んで2人のウクライナ・コサックが選ばれている。
[編集] 外部リンク
- енциклопедія українського козацтва(ウクライナ語)
- Українське Козацтво(ウクライナ語)
(画像リンク)
ウクライナの歴史 | ||
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