集団自決
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集団自決(しゅうだんじけつ)とは、第二次世界大戦(太平洋戦争)時において主に極東地域で発生した集団的な自殺的行為でのことをいう。サイパン島や沖縄戦での事例は特に有名。戦陣訓の中の「生きて虜囚の辱を受けず」という一節や、国が国民や軍人に対して降伏の方法を教えなかったことなどが、多くの軍人や民間人に影響を及ぼし、おびただしい数の戦死や自殺へとつながった原因ではないかと言われている。
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[編集] 沖縄戦における集団自決
[編集] 概要
沖縄戦では、本島、諸島で多くの「集団自決」の例が知られている。日本軍の強制による死であることが戦後早期(1950年の『鉄の暴風』など)から言われ出した。1983年以降2007年現在までの高校教科書には「日本軍により(集団自決を)させられた」と書かれている。この教科書への記載経緯は、教科書検定における文部省の指示によるものであり、当初日本軍による住民虐殺を記載した執筆者に対して、「集団自決」を先に書けと指示したものである(出典:『沖縄戦と教科書』安仁屋政昭・徳武敏夫、2000年)。現在までの沖縄戦に関する歴史書のほとんどは、集団自決は日本軍に強いられたものと主張している(例えば、『沖縄県の歴史』山川出版、2004年など)。
集団自決がその実態としては日本軍の強制であるという研究者の見解は、1984年の家永教科書裁判第3次訴訟時に研究者により明確に示され、その後成書として出版されている(安仁屋政昭、『裁かれた沖縄戦』1989年、石原昌家、『争点沖縄戦の記憶』2002年ほか)。これらの成果はその後の教科書検定撤回運動の際などに新聞で読むことができる(沖縄タイムズ、2005年7月「集団自決」を考える(18)識者に聞く(1)~(2)[1]あるいは[2]など)。この経緯を研究者である大城将保は「これ以後集団自決が日本軍の強制であることは、研究者の間でも定説となり多くの教科書にもそのように書かれてきた」と主張している(『沖縄戦の真実と歪曲』高文研、2007年)。また研究者林博史は「日本軍の強制を否定する研究はない」と主張した(2007年10月1日、テレビ朝日、報道ステーション)。(なお家永教科書裁判では沖縄戦については検定は合憲とされたが、裁判所は判決文の中で、集団自決は日本軍に強いられたものという認識を示している)
一方で、曽野綾子『ある神話の背景』をはじめとして、軍命を疑問視する著書や否定する証言も出ている。
- チビチリガマの「集団自決」:
沖縄戦でもっともよく知られている集団自決事件はチビチリガマでの事件であろう。 3月末から激しい爆撃があり読谷村の住民は近隣の者、多くはいくつかの親類で集まってガマで寝起きするようになり、チビチリガマには140人近くがいた。4/1読谷村に上陸した米軍はチビチリガマに迫った、ガマの入り口で米兵を見た住民は自決をはかった。南方帰りの在郷軍人(満期除隊した高齢の男性)がサイパンではこうして死んだといって、布団に火をつけて窒息死しようとした。だが4人の女が止め火を消した。ガマの中は騒然となった。4月2日再び米兵がガマに現れ投降を呼びかけた、住民に動揺が走り「だから昨日死んでおけばよかった」と言って再び在郷軍人が火をつけたが、また4人の女が消した。従軍看護婦であった25才の女性が、中国戦線で中国人住民がいかにむごく殺されたかを語り、死のうと言った。彼女は毒薬を持っており注射器でそれを家族親戚15人ほどに注射して人々は死んでいった。周囲の人はうらやましがった。再び布団に火がつけられ、ガマの中はパニックになった、数十人はガマを出て米軍に捕まったが、それでも殺されると信じていた。ガマでは84人が死んだがその半数は12歳以下の子どもである。また同じ読谷村内でもチビチリガマがら600m離れたシムクガマに避難した約1000人は英語の喋れる男性の誘導で1人も死ぬことなく投降した。こうした経緯は1983年ころまでまったく明らかにされなかった、それは率先して死のうと言った者も、その結果死にたくないのに死んだ者も、またその恨みを持つ者それぞれが同じ集落内の隣人や近親者であり、この「集団自決」の忌まわしい記憶を呼び覚ます事に強い抵抗があったからである。(沖縄・チビチリガマの“集団自決" 岩波ブックレット 1992)
- 沖縄戦での集団自決の人数
沖縄戦でおきた主な「集団自決」は、1伊江村のアハシャガマなど約100人、2恩納村11人、3読谷村のチビチリガマなど121人以上、4沖縄市美里33人、5うるま市具志川14人、6八重瀬町玉城7人、7糸満市、カミントウ壕など80人、8座間味島234人、9慶留間島53人、10渡嘉敷島329人(琉球新報2007年6月22日)などである。読谷村の「集団自決」については読谷村史がWEB上で公開されている[3]。
[編集] 言葉について
「集団自決」という言葉は戦後、沖縄タイムズ記者により使われ広まった言葉であり、当時の人々は「玉砕」と言っていた。沖縄では戦後「集団自決」という言葉がおく使われてきたが、それは軍により強いられた事件全体を意味しており戦争中軍隊が使用した本来の意味の自決ではない。また援護法でも救護対象者の中で自決者に相当する区分があるが、ここでの意味あいも正確な事実を反映したものではない[要出典]。
沖国大教授の石原昌家は「”集団自決”という言葉をたとえカギカッコ付きであっても使うべきではない。自決というのは自らの意思によって死んだという意味。したがって、軍人が自らの責任をとって死ぬことに使うことはできても、語句本来の意味から、住民に対しては集団自決という用語は使用できない。集団で命を絶った実態は、日本軍の作戦による強制や誘導、命令によるものだったので「強制集団死」「強制死」として本質をとらえ直さなければ、真実を見誤ってしまう」と主張している[1]。
[編集] 軍の強制によるものとする意見・証言等
当時沖縄では、根こそぎ動員により全ての住民が軍に協力し、軍の支配下にあった。特に諸島では、行政組織の上に軍が指揮・命令する形で住民を完全に統制し、天皇崇拝思想によりお国のために死ぬことは尊いという考え方と共に、米軍上陸により捕虜が確実ならば住民は死ぬべきであるという命令・訓示があらかじめ行われている。また実際に上陸直前に軍管理下の手榴弾を住民に配ることが行われた例もある。こうした状況から安仁屋政昭 は軍による直接の命令がなくても軍により死に追い込まれたものであり強制されたものだとしている(『裁かれた沖縄戦』1989年)。林博史は同様な状況の2つの壕において、日本軍が同居した壕では「集団自決」がおこり、日本軍の存在しない壕では「集団自決」がおきなかった例を具体的に指摘し、多くの例を検討した上で直接の命令がなくても軍による強制と考えるべきとしている(『沖縄戦と民衆』林博史、大月書店、2001)。
こうした研究者の論考に加えて、慶良間諸島の場合は直接的に「集団自決」の命令が日本軍からきたという事が軍からの命令を受ける兵事主任(あるいは助役)の言った内容として明確になっている。渡嘉敷島では兵事主任富山真順(戦後死去)が、戦後「軍から命令された」と証言しているし、金城重明が兵事主任からその話を聞いたことを現在も証言している[4]。また慶良間島では、兵事主任宮里盛秀(玉砕)の父親(宮里盛永)および妹(宮平春子、宮村トキ)が、その晩彼が「軍から命令が出ている」と喋ったことを手記に書いたり、証言(沖縄タイムズ、2007年7月6日、[5]および「集団自決」訴訟の陳述書)したりしている。
集団自決を命じたと言われている元軍人が「命令はしていない」と主張し、大江健三郎と岩波書店を相手に2005年8月大阪地裁に提訴した。原告側は宮城晴美(軍の「集団自決」命令を聞いたと証言した宮城初枝の娘)の著書「母の遺したもの」や曽野綾子の「ある神話の背景」などをあげて2007年現在、裁判中である。また、2008年度分の教科用図書検定(教科書検定)で、軍の関与という件に対し検定意見がつき軍による強制を意味する部分は削除された。この検定の際に参考とした資料として文科省は21の図書と共に前記裁判を「沖縄集団自決えん罪訴訟」としてメディアに公表した。これにより沖縄県では、県議会、市町村議会で前記教科書検定の撤回意見が可決(「強制あり」でなく「関与あり」として可決)され、反対する運動が2007年に起き、2007年9月29日には戦後最大規模の11万人(主催者発表)を集めた反対集会が開催された。しかしこの参加人数については、異論も出ている[2]。
[編集] 軍の強制を否定・疑問視する意見・証言等
曽野綾子は『ある神話の背景』の中で、それまでの軍命説の根拠が疑わしいことを示し、年金受給のために多くの虚偽証言が生まれたと主張したが、その真相は神のみぞ知るであると述べており明確な態度を示していない。
この著書について仲程昌徳琉球大学法文学部教授は「この著書は公平な視点でルポタージュされた「本土の作家の沖縄戦記」である。曽野の調査が進んでいくにしたがって集団自決は疑わしくなっていくばかりではなく、ほとんど完膚なきまでにつき崩されて、「命令説」はよりどころを失ってしまう。これまで集団自決のあらゆる著書で引用された『鉄の暴風』の集団自決を記載した箇所は、重大な改定をせまられた。」と評価した(『沖縄の戦記』仲程昌徳 / 『戦争への反省』太田良博)。
また、沖縄史料編集所の専門員である嶋津与志(大城将保)は『沖縄戦を考える』(1983)の中で「曽野綾子氏は、それまで流布してきた従来の説をくつがえした。『鉄の暴風』や『戦闘概要』などの記述の誤記や矛盾点などを丹念に指摘し、赤松隊長以下元隊員たちの証言をつき合わせて、自決命令はなかったこと、集団自決の実態がかなり誇大化されている点などを立証した。事実関係については今のところ曽野説をくつがえすだけの反証は出ていない」と述べた。(彼は2007年の著書では、沖縄戦の調査がまだ途上にあるという趣旨で述べたものであり、集団自決は軍の強制であると述べている)。
大城将保は2007年6月21日『クローズアップ現代』にて、インタビュアーの「軍命令が正式にあったかどうか、そうしたものが文書としては残っていない、非常に乏しいと言われてますが?」との質問に、「命令は口頭ですることになっていたと考えているので文書ははじめからない。だから結局、唯一の証拠は証言だけとなる」と述べている。
1985年7月30日付神戸新聞では「絶望の島民悲劇の決断」「日本軍の命令はなかった。」という大見出しの下、軍命令はなかったとする島民の証言を掲載し、座間味島の集団自決は「米軍上陸後、絶望した島民たちが、追い詰められて集団自決の道を選んだものとわかった」と報道した。そこには宮城初枝が「梅澤少佐に自決を求めたが、「最後まで生き残って軍とともに戦おう」と武器提供を断られた」という証言が掲載されている。
1986年6月6日付神戸新聞では、「『沖縄県史』訂正へ」「部隊長の命令なかった」との見出しを掲げ、『沖縄県史』の解説文で梅澤命令説を記述した沖縄史料編集所の大城将保主任専門員は、「紀要」に梅澤隊長の手記を掲載したうえ、梅澤命令説の根拠となった手記「血塗られた座間味島」を書いた宮城初枝自身が「真相は梅澤の手記のとおりであると言明している」と記述し、実質的に県史を修正したと報じた。大城将保主任専門員の「宮城初枝さんからも何度か話を聞いているが、『隊長命令説』はなかったというのが真相のようだ」というコメントを掲載した。ただし、大城将保は自著『沖縄戦の歪曲と真実』(高文研)のなかで、「私は『神戸新聞』からインタビューを受けたこともないし、掲載紙が私や史料編集所へ送られてきた形跡もまったくないし、最近までこのような記事の存在さえ知らなかった。念のため複数の当時の同僚にも確かめてみたが誰も知らないという返答だった。」と否定しているが、実際に上記の通り彼が編纂する『沖縄県史』を発行する県立沖縄史料編集所の紀要には、梅澤隊長の主張が掲載され、根拠となった人物(宮城初枝)が否定していることを書いている。
宮城晴美は「厚生省の職員が年金受給者を調査するのため座間味島を訪れたときに、生き証人である母(宮城初枝)は島の長老に呼び出されて命令があったと言って欲しいと頼まれ、隊長命令は聞いていないが、命令があったと偽証した」(『母の遺したもの』)と記した。なお宮城晴美は、この部分は米軍上陸前夜のその時点の出来事を直接述べたのであり、集団自決自体は軍の強制であると新聞などに答えている。
桜井よしこは、週刊新潮2007年1月4日・11日号掲載の自身のコラム『日本ルネッサンス』において、宮城初枝は、上記の告白後、「国の補償金がとまったら、弁償しろ」などと村民等から非難を浴びることとなったが、彼女が再び発言を変えることはなく、数人の住民も真実を語り始め、自決命令は宮里盛秀助役が下した、と書いている。
座間味島の宮里盛秀助役の弟の宮村幸延は、「兄の宮里盛秀(当時の助役・兵事係)は軍から自決命令を受けていない、梅澤少佐命令説は援護法の適用を受けるために創り出されたものであった」(神戸新聞1987年4月18日)と証言したと報道されている。2007年の裁判(大江岩波沖縄戦裁判)で被告側は、宮村幸延が沖縄戦当時県外に出征していたこと、「軍命はなかった」という証文に謀略的な手段で捺印させたことなどを根拠に、この証言は有り得ないものと主張している。
戦後の琉球政府で軍人・軍属や遺族の援護業務に携わった照屋昇雄は、「遺族たちに援護法を適用するため、軍による命令ということにし、自分たちで書類を作った。当時、軍命令とする住民は1人もいなかった」「戦後、島の村長らが赤松嘉次元大尉に連絡し、命令を出したことにしてほしいと依頼し、赤松元大尉から同意を得て(本当は命令してないが)命令があった事となった」と証言している(2006年8月27日産経新聞)。このような経緯から家永三郎『太平洋戦争』では、赤松命令説を削除している。
赤松元大尉の弟と梅澤元少佐は、上記のような証言・著書等を証拠として、命令をしたと断言してきた大江健三郎の『沖縄ノート』(1970年、岩波書店)、家永三郎の『太平洋戦争』(1968年、岩波書店)に対し、名誉毀損による損害賠償、出版差し止め、謝罪広告の掲載をもとめ、大江健三郎と岩波書店を訴えるに至った(「集団自決」訴訟)。
2007年11月9日、大阪地裁にて『沖縄ノート』の著者である大江健三郎の本人尋問が行われ、大江は「現地調査はしなかったが参考資料を読み、集団自決は軍隊の命令という結論に至った」とし、座間味、渡嘉敷両島の元守備隊長2人が直接自決を命じなかったことは認めたうえで、住民に手榴弾が配布されたケースがあり、これが軍の強制となると主張した。一方、大江に先立ち尋問があった原告の一人で元座間味島守備隊長、梅沢裕は軍命令を強く否定。もう一人の原告の元渡嘉敷島守備隊長、故赤松嘉次元大尉の弟、赤松秀一は「大江さんは直接取材したこともないのに、いい加減なことを書き、憤りを感じた」と批判している(2007年11月9日産経新聞) 。
梅澤元少佐は2007年11月9日大阪地裁での上記訴訟での本人尋問において集団自決は村の助役が「行政側の上司の那覇あたりからの指令」で行ったと証言し、同日夕刻の記者会見では、集団自決の指示は「軍ではなく県なんだ。みんなぼかしてるけど、重大な問題だ」と発言し、当時の島田叡沖縄県知事が命令者であるとした(2007年11月10日沖縄タイムス)。
2008年度教科書の検定で文科省は、これまで事実とされてきた上記の内容が裁判係争中であることを理由の一つとして、日本軍の「強制」記述を削除する検定意見を付けた(2007年10月4日産経新聞)。
秦郁彦は、証言の裏づけも見つからない状況の中で「関与」というあいまいな言葉にすり替えて軍の強制性を語る人間が増えており、これは慰安婦問題と同じことが繰り返されていると批判している(2007年10月3日産経新聞朝刊正論)。また、日本軍の手榴弾が自決用に使われた事を指して「軍の関与があった」としている人間がいるが、兵器不足であり、兵士に竹槍まで持たせていた日本軍にとって、手榴弾は貴重な武器だった。それを現地召集の防衛隊員に持たせていたものが、家族の自決に流用されただけなのに「手榴弾は自決命令を現実化したものだ」と語るのは問題だとも批判している(2007年7月6日産経新聞朝刊正論)。
現地の関係者から聞き取り調査をした中村粲は、「命令がなかったことが明らかであり、年金支給のために軍命令があったという証言が発生した」という調査結果を出している(2007年10月3日産経新聞)。
日本最大の保守系団体日本会議は、「日本軍の強制性を強める修正を行うことは教科書への国民の信頼を傷つける」として記述の再訂正に反対する決議を採択した[3]。
[編集] 参考文献
- 『帝国陸海軍の光と影』・大原康男・日本教文社
- 『図説・玉砕の戦場』・森山康平・河出書房新社
- 『日本軍の捕虜政策』・内海愛子・青木書店
- 沖縄集団自決、梅澤隊長の濡れ衣・櫻井よしこ
- 沖縄タイムズ「集団自決」問題特集ページ
(2007年文科省が集団自決の教科書検定で参考としたと発表した図書)
- 鉄の暴風、沖縄タイムス社、朝日新聞社(沖縄タイムス社) 1950
- 太平洋戦争 / 家永三郎. -- 岩波書店(日本歴史叢書) 1968
- 沖縄ノート、大江健三郎、岩波書店(岩波新書) 1970
- 沖縄県史. 第8巻、各論編7、琉球政府、琉球政府, 1971
- ある神話の背景 ― 沖縄・渡嘉敷島の集団自決・曽野綾子・文藝春秋, 1973
- 写真記録・これが沖縄戦だ(改訂版) / 大田昌秀 -- 琉球新報社, 1977
- 隠された沖縄戦記 / 富村順一他著 -- JCA出版, 1979
- 沖縄の戦記 / 仲程昌徳著 -- 朝日新聞社(朝日選書), 1982
- 総史沖縄戦:写真記録、大田昌秀編著、岩波書店 1982
- 沖縄戦を考える / 嶋津与志著 -- ひるぎ社(おきなわ文庫), 1983
- 証言・沖縄戦:戦場の光景 / 石原昌家著. -- 青木書店, 1984
- 沖縄戦とは何か / 大田昌秀著 -- 久米書房, 1985
- 沖縄戦:民衆の眼でとらえる「戦争」 / 大城将保著 -- 高文研, 1985
- 沖縄資料編集所紀要、第11号、沖縄県沖縄史料編集所、1986
- 太平洋戦争 第2版 / 家永三郎 岩波書店(日本歴史叢書), 1986
- 沖縄戦-国土が戦場になったとき / 藤原彰編著 -- 青木書店, 1987
- 沖縄・チビチリガマの“集団自決" 下嶋哲朗 岩波書店(岩波ブックレット) 1992
- 母の遺したもの-沖縄・座間味島「集団自決」の新しい証言・宮城晴美・高文研, 2000
- 沖縄戦と民衆 / 林博史著 -- 大月書店, 2001
- 争点・沖縄戦の記憶 石原昌家 [ほか]著 -- 社会評論社, 2002
[編集] 注釈
- ^ 沖縄タイムズ2005年7月3日 朝刊26面
- ^ >世界日報が10月2日付の記事で参加者は4万2千人であると報道したのをはじめ、産経新聞が10月3日付産経抄において関係者から聞いた数字として4万3千人と載せた。つくる会の藤岡信勝は、「実数はおよそ2万人だ、政治的なキャンペーンに政府や文科省が動かされてはいけない」と批判している(10/4 報道ステーション)。日本経済新聞では10月9日に「県警調べ約4万2千人」と載せた。西日本新聞は10月10日付けの記事で、政府関係筋の数字として4万人程度であると指摘した上で、主催者発表の参加者数は虚偽であると主張して問題視する人間が出てきており、特に本土では、そういった人間の沖縄に対しての嫌悪感が広がっており、抗議メールが殺到していると報じた。また同紙は、沖縄の「異論を許さない雰囲気」には芥川賞作家、大城立裕(沖縄出身)が懸念を示していることを報じた。週刊新潮は10月18日号の記事で在沖縄ジャーナリストの恵隆之介の、「反対集会が開催された会場の最大収容人数は5万人で11万人を収容するには肩車の上に肩車をしなければ不可能な事、当日の会場には日傘を差したり、敷物の上に座っている人がいるなど、相当な空きスペースがあった事、主催者は明らかに嘘を言っているとし、自身が調査したところ参加者は最大で3万5千人程度だ」との意見を掲載し、主催者発表の11万人のみを報道することについて他社を批判した産経新聞の報道について「例えば北朝鮮による拉致集会の参加者だったら産経は主催者発表を参加者数として報じるでしょう」との田島泰彦のコメントを掲載した。また同号では、沖縄県警が、参加者人数は公開しないと言明していることや、屋山太郎の数は問題ではないとの主張も掲載している。熊本大学の2人の学生が琉球新報一面に掲載された県民大会の空中写真に写った人数を計測した調査によれば、参加者の数はそれを更に下回る1万3千人にとどまったとつくる会の藤岡信勝は発表した。日本会議熊本やつくる会は、それを根拠として主催者発表の参加者数を誇大発表と断じ「政治的キャンペーンをするな」等の批判を行った。テイケイが、同じ琉球新報が一面掲載した県民大会の空中写真を拡大して細かく分割して1人ずつカウントして集計した視認可能の合計が1万8千人程度であり、建物、木陰、写真外などを推定で加えても総数1.9万~2万人と算出し発表し、各政党や各新聞社、出版社に送付し、これを受けて産経新聞は10月28日朝刊に掲載した。また週刊新潮は11月01日号において同じくテイケイの数字を使い『本当は<1万8179人>だった11万沖縄県民大会』との記事を掲載し、沖縄タイムスが「22万の瞳に答えよ」との記事を人数を11万からさらに倍加したと勘違いして非難した。福田康夫総理大臣は国会で参加者は11万人であると答弁しており、また、2007年11月20日付産経新聞によると保守系団体日本会議傘下の全日本学生文化会議の学生達が9月29日の沖縄県民集会について沖縄県民を対象にアンケートをおこなった結果、「参加した」が11.2%だったと報じ(これを単純に沖縄県の人口と掛け合わせると集会参加者は約15万3966人という数字が算出される)、高校のサッカーやバスケットボールなどの部活動単位で集会に動員されたという生徒も多数いるというその調査結果を掲載した
- ^ 「議員懇」教科書修正に反対