長崎県立長崎西高等学校
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国公私立の別 | 公立学校 |
設置者 | 長崎県 |
設立年月日 | 1948年 |
共学・別学 | 男女共学 |
課程 | 全日制課程 |
所在地 | 〒852-8014 |
長崎県長崎市竹の久保町12-9 北緯32度45分58秒東経129度51分33.8秒 |
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電話番号 | 095-861-5106 |
FAX番号 | 095-861-3432 |
外部リンク | 公式サイト |
長崎県立長崎西高等学校(ながさきけんりつながさきにしこうとうがっこう)は、長崎県長崎市竹の久保町にある県立高等学校である。男女共学であり、全日制の課程に普通科を設置している。
目次 |
[編集] 概要
長崎県内で、長崎市内および西彼杵郡の、かつて合同選抜制度をとっていた長崎県立の全日制普通科の5高校を長崎五校と呼んでいる。長崎西高校と長崎東高、長崎南高、長崎北高、長崎北陽台高の五つ(通称長崎五校という)が該当していた。現在は合同選抜廃止により直接の繋がりは薄れている。
校訓は『自律』であり、長崎県において合同選抜制度が実施されていた時代においても、新設校が補習授業を行って大学進学実績を伸ばす中、西高ではこの校訓の下に補習授業を行わない時期もあった。平成17年度に文部科学省よりスーパーサイエンスハイスクール (SSH) の指定を受けた。
この他、『自律』の校風のもと生徒主体の運動会・西高祭等のイベントや部活動等さまざまな活動も行われ、県下唯一の水球部を有している。全国高等学校野球選手権大会(夏の甲子園)に、1951年には西九州代表として、1981年には長崎県代表として出場している。1981年の大会では、名古屋電気高校(当時)の工藤公康(現・横浜ベイスターズ)にノーヒットノーランを記録されている。
[編集] 沿革
- 1884年6月4日 県立長崎中学校開校
- 1902年5月 県立長崎高等女学校開校
- 1922年4月 県立瓊浦中学校と市立高等女学校が開校
- 1948年4月 上記の4校は廃校となり、それぞれ新制高校に改称された。
- 長崎市内の新制高校は、旧制中学校の伝統は引き継がなかった。旧制中学校(旧制県立長崎中学、旧制県立長崎高女、旧制県立瓊浦中学校、旧制市立高女)と長崎東、長崎西との合同同窓会は、過去59年間一度も開催されていない。また、創立行事も同時に開催されたことがない。
- 1948年11月1日 上記の4校はそれぞれ長崎西高と長崎東高に統廃合。西高は長崎市鳴滝(旧県立長崎中学校校舎)に開校
- 1950年 長崎市竹の久保に移転
- 1951年 校歌制定
- 2000年 通信制課程が長崎県立鳴滝高等学校に移管・統合
- 2005年 スーパーサイエンスハイスクール(SSH)指定
[編集] 著名な卒業生
- 草野仁 - 司会者、タレント
- 伊藤一長 - 前長崎市長
- 麻生祐未 - 女優
- 東由多加 - 演出家
- 池端雪浦 - 東京外国語大学名誉教授、前学長
- 田浦直 - 元参議院議員
- 橘周太 - 旧日本軍陸軍中佐
- 青来有一 - 芥川賞作家、長崎市職員
- 坂上洋子 - バルセロナオリンピック・柔道女子72キロ超級・銅メダリスト
- 柴田亜美 - 漫画家
- 竹田頼正 - 三菱総合研究所常務取締役
- 小田一生 - 映画監督
- 古森重隆 - 富士写真フイルム社長、NHK経営委員長
- 釡和明 - 株式会社IHI代表取締役社長(兼)最高経営執行責任者
- 三谷浩 - 元建設事務次官
- 堀浩一 - 東京大学教授、人工知能学会副会長
- 久富玄理 - 神戸学院大学教授
- 釘宮敏定 - 長崎医療技術専門学校校長、長崎大学名誉教授、長崎労災病院名誉院長、国際外科学会名誉会員
- 山口義人 - セネット取締役会長、活水学院理事長、千歳科学技術大学評議員、元三菱電機顧問
- 吉村宏和 - 東京大学准教授、天文学者
- 松本澄秀 - 慶應義塾大学ラグビー部元監督
- 奥野俊一 - 元全日本バスケットボール男子チームコーチ
- 寺井一弘 - 弁護士、独立行政法人日本司法支援センター理事、元日本弁護士連合会事務総長
- 山口和彦 - 映画監督
- 渡部新次郎 - リニアモーターカー開発者
- 高木保昌 - 長崎大学水産学部教授
- 山口祐弘 - 東京理科大学理学部教授
- 宮崎大 - 映画プロデューサー
- 都筑興 - アビスパ福岡株式会社代表取締役社長
- 川岡栄一 - 大阪府議会議員
- 谷口博史 - 中央大学准教授
- 柳川平助 - 陸軍中将、司法大臣(旧制長崎中学)
- 馬場元治 - 建設大臣(旧制長崎中学)