近藤信竹
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近藤信竹 | |
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1886年9月25日 - 1953年2月19日 | |
海軍大将 近藤信竹 |
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生誕地 | 大阪府 |
所属組織 | 大日本帝国海軍 |
軍歴 | 1907 - 1945 |
最終階級 | 海軍大将 |
指揮 | 第五艦隊司令長官 軍令部次長 第二艦隊司令長官 支那方面艦隊司令長官 |
戦闘 | 太平洋戦争 |
近藤 信竹(こんどう のぶたけ、1886年(明治19年)9月25日 - 1953年(昭和28年)2月19日)は、大日本帝国海軍の軍人。最終階級は海軍大将。大阪府出身。
目次 |
[編集] 経歴
天王寺中学を経て、海兵35期。入学当初は114席と低かったものの、2年次には6席、3,4年次は同期のクラスヘッド(首席)になっている。同期に高須四郎、野村直邦らがいる。経歴をたどると、中佐時代に侍従武官を務めて以降、海上勤務と軍令部関係の職務が多く、特に大佐以降は軍令部の課長、部長、次長と要職を次々とこなし典型的な軍令部系統のエリートといえる。転じて、太平洋戦争では緒戦から中盤に掛けて最前線で艦隊長官を務め、弾雨の中で過ごしている。その為、闘将との評価がある一方で酷評する関係者も多い。
海上勤務においては、聯合艦隊先任参謀に任じられた時の参謀長、参謀長を務めた時の司令長官はともに高橋三吉であった。軍令部の権限強化に尽力して条約派提督の粛清を招いた高橋ではあるが、漸減邀撃作戦に積極的な航空兵力の導入を図ったことは高く評価されている。しかし近藤は大艦巨砲主義に固執しており、高橋から学ぶことはなかったという。
太平洋戦争時は第二艦隊司令長官を務め、南方攻略に当たった海軍部隊の総指揮を執る。指揮下には第二艦隊の他小沢治三郎の馬来部隊、塚原二四三の基地航空隊などがあり、これらをよく連携させて緒戦の成功を収めている。
南太平洋海戦では南雲忠一率いる空母機動部隊(第三艦隊)の前衛としてその前方に展開し、敵の攻撃を効果的に引きつけて味方機動部隊の損害を抑える役割を果たした。
第三次ソロモン海戦でも自ら旗艦愛宕に座乗して前線で指揮を執っており、指揮官先頭を実践した統率は評価が高い。
軍令部第一部長時代には、課長からの提出書類に目を通さずに押印して次長に届ける癖があった。当時の次長だった嶋田繁太郎は遠慮なく朱筆を入れてリジェクトしたが、近藤はまた目を通さず課長に再考を促すだけで、課長からは案を却下した嶋田ではなく、指導力のない近藤に批判の目が向けられた。海軍省と軍令部の連絡会議においても同様の措置を取り、あらかじめ軍令部課長と雑談していた豊田副武軍務局長は、近藤が持ち込んだ資料と課長たちの談話が寸分たがわぬことを見抜き、近藤を叱責する羽目になった。近藤の成長を願って渾身の添削を重ねてきた嶋田の苦労を、近藤はまったく意に介さなかったことになる。
ただ、後に軍令部次長時代には書類の決裁に非常に慎重になり、部下の中には次長である近藤を飛ばして総長に直接決裁を求める者もいたという。近藤が仕えた軍令部総長は伏見宮博恭王及び永野修身と二人とも問題のある人物であり、いきおい自分が慎重にならなければならないと考えたらしい。
[編集] 太平洋戦争
開戦時は重巡洋艦中心の第二艦隊司令長官。聯合艦隊内では聯合艦隊司令長官山本五十六海軍大将に次ぐ次席指揮官であり、マレー、フィリピン攻略の南方部隊の総指揮官であった。ミッドウェー海戦においては第二艦隊を主力とする攻略部隊を指揮するが、彼は作戦には批判的だったと伝えられる。続くガダルカナル島をめぐるソロモン方面の海戦を指揮。1943年(昭和18年)4月18日、山本五十六聯合艦隊司令長官が海軍甲事件で戦死した際には、後任の古賀峯一大将が着任するまで聯合艦隊の指揮をとった。
1943年(昭和18年)8月、軍事参議官として内地へ帰還。12月、支那方面艦隊司令長官となったが、1945年(昭和20年)5月、小沢治三郎中将が海軍総隊司令長官兼聯合艦隊司令長官に着任すると、小沢より先任であった近藤は軍事参議官に転補となった。
[編集] 人物評
大学校教官時代に、図上演習の審判学生が戦況を把握するために立ち位置を変えて演習を見守っていたが、近藤は「審判たる者、腰を据えて全体を見通せ」と助言した。助言された学生は「棒立ちの行司やアンパイアがいるものか。局面を見逃すまいと最も見える立ち位置を確保してこその審判だ」と内心あきれながら面従背腹の態度で演習に臨んだと回顧する。
残念ながら、近藤はエリートではあったが、エリートの座に腰掛けてしまい、創造性が欠落した、悪しきエリートに過ぎなかったと、直接関係した提督たちは評している。
[編集] 年譜
- 1907年(明治40年)11月20日 - 海軍兵学校を172人中首席で卒業(35期)
- 1908年(明治41年)12月25日 - 任 海軍少尉
- 1917年(大正6年)12月1日 - 海軍大学校に入校(17期)
- 1919年(大正8年)11月 - 海軍大学校卒業
- 1920年(大正9年)12月7日 - ドイツ駐在
- 1923年(大正12年)12月1日 - 任 海軍中佐
- 1924年(大正13年)2月5日 - 東宮武官兼侍従武官
- 1926年(大正15年)12月1日 - 聯合艦隊兼第一艦隊参謀
- 1927年(昭和2年)12月1日 - 任 海軍大佐、海軍大学校教官
- 1929年(昭和4年)11月30日 - 重巡洋艦加古艦長
- 1930年(昭和5年)6月18日 - 軍令部第一課長
- 1932年(昭和7年)12月1日 - 戦艦金剛艦長
- 1933年(昭和8年)11月15日 - 任 海軍少将、海軍大学校教頭
- 1935年(昭和10年)3月15日 - 聯合艦隊兼第一艦隊参謀長
- 1937年(昭和12年)12月1日 - 任 海軍中将
- 1938年(昭和13年)12月15日 - 第五艦隊司令長官
- 1939年(昭和14年)10月21日 - 軍令部次長
- 1941年(昭和16年)9月1日 - 第二艦隊司令長官
- 1943年(昭和18年)4月29日 - 任 海軍大将
- 1945年(昭和20年)5月15日 - 軍事参議官