第五艦隊 (日本海軍)
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第五艦隊(だいごかんたい)は、旧帝国海軍の部隊の1つ。日華事変で増援のために編制され、華南方面に進出した部隊と、太平洋戦争時に本土東方警備・アリューシャン列島攻略を目的に編制した部隊の二つがある。
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[編集] 初代の第五艦隊
1938年2月1日、支那方面艦隊の増援部隊として編制し、同艦隊の3番目の艦隊として華南方面に進出した。1939年11月15日に支那方面艦隊に属する第三・第四・第五艦隊は「~遣支艦隊」に改名した。このとき、第五艦隊は第四艦隊と順序を入れ替え「第二遣支艦隊」に改名した。改名の前後にバイアス湾上陸作戦・海南島攻略作戦に参加している。後に第一・第三遣支艦隊は規模を縮小して根拠地隊へ降格したが、第二遣支艦隊だけは敗戦まで艦隊を維持している。
[編集] 編成
[編集] 歴代司令長官(第二遣支艦隊改名まで)
[編集] 歴代参謀長(第二遣支艦隊改名まで)
[編集] 二代の第五艦隊
1941年7月25日、連合艦隊の北方部隊として「多摩」・「木曽」・「鷺」・「鳩」の4隻で編制し、千島列島~本土東海上~小笠原諸島に展開した。ドーリットル部隊の奇襲を察知した特設監視艇多数が被害を受けた。アリューシャン作戦にともなってキスカ島への進出を図る一方、南方攻略の完了に伴い、危機が去った小笠原諸島の警備を横須賀鎮守府に委譲している。
アリューシャン方面でアメリカ軍の反攻が始まり、艦隊の出動機会が多くなる。アッツ島沖海戦での完勝が果たせなかった責任を問われ、細萱戊子郎司令長官が更迭されている。木村昌福司令官が指揮する第1水雷戦隊は、キスカ島からの陸上部隊撤退(キスカ島撤退作戦)に成功した。1943年8月5日に第十二航空艦隊と合同で北東方面艦隊を編制し、その隷下に収まる。
1944年10月に、北東方面艦隊に在籍したまま南方部隊に転進し、いわゆる「志摩艦隊」としてフィリピン沖海戦に参加し、旗艦那智が戦没する。のちに礼号作戦にも参加。12月15日に正式に南西方面艦隊に移籍したが、1945年2月5日に第十方面艦隊新設とともに解散し、所属艦艇その隷下に組み込まれた。
[編集] 編成
(太平洋戦争開戦時)
[編集] 歴代司令長官
[編集] 歴代参謀長
- 中沢佑少将(1941年7月25日~)
- 一宮義之少将(1942年11月6日~)
- 大和田昇少将(1943年3月19日~)
- 松本毅少将(1943年1月17日~解隊)