尻矢 (給油艦)
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艦歴 | |
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計画 | 1918年度(八六艦隊案) |
建造所 | 横浜船渠 |
起工 | 1921年4月7日 |
進水 | 1921年11月12日 |
竣工 | 1922年2月8日 |
喪失 | 1943年9月22日[1] |
除籍 | 1943年10月10日 |
要目 | |
排水量 | 常備:15,400トン |
全長 | 垂線間長:138.68m |
全幅 | 17.68m |
吃水 | 8.08m |
機関 | 円缶4基 直立3気筒3段膨張レシプロ1基 1軸 3,750馬力 |
速力 | 12.0ノット |
航続距離 | 不明 |
燃料搭載量 | 石炭1,350トン |
乗員 | 142名 |
兵装 (戦時のみ搭載) |
45口径3年式14cm単装砲 2基 40口径三年式8cm単装高角砲 2基 |
その他 | 石油積載量:8,000トン |
尻矢(しりや)は日本海軍の給油艦、知床型給油艦の1艦で艦名は青森県・下北半島北東の尻矢埼による。
目次 |
[編集] 艦歴
1918年(大正7年)度の八六艦隊案で計画され、横浜船渠で1922年(大正11年)2月8日に竣工、横須賀鎮守府籍となる。当初の予定艦名は「野母(のも)」であったという[2]。平時は海外からの重油輸送に従事した。
1941年(昭和16年)10月15日に聯合艦隊付属に編入される。11月22日に館山を出港し、太平洋戦争緒戦はミッドウェー島に砲撃を行った「曙」「潮」に給油を行い12月22日に柱島泊地に入港、呉で整備を行った。整備完了後は1942年(昭和17年)1月20日に横須賀港を出港し北方に進出、大湊、釧路、厚岸で補給任務に従事した。6月30日から8月10日まで函館で入渠、修理を行い、9月にかけてトラックへの輸送任務に当たった。更に10月からはシンガポールへの輸送任務に2回従事した。
1943年(昭和18年)1月16日に呉を出港、7月までバリックパパン、スラバヤ方面で輸送任務に従事した。横浜で入渠修理後の8月9日に横浜港を出港、途中に各港に寄りながら9月2日にシンガポール着、5日に出港し日本に向かった。
同年9月18日に馬公に入港、20日に出港したが翌21日に米潜水艦「トリガー」の雷撃を受け台湾北方で22日に沈没した[1]。
[編集] 同型艦
[編集] 参考文献
- 海軍歴史保存会『日本海軍史 第7巻』(第一法規出版、1995年)
- 片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝』(光人社、1993年) ISBN 4-7698-0386-9
- 雑誌「丸」編集部『写真 日本の軍艦 第13巻 小艦艇I』(光人社、1990年) ISBN 4-7698-0463-6
- 『世界の艦船 増刊第47集 日本海軍特務艦船史』(海人社、1997年3月号増刊、第522集)
[編集] 脚注
- ^ a b 『日本海軍軍艦銘銘伝』p587による。『写真 日本の軍艦 第13巻』の行動年表では1944年9月21日に沈没とあるが、直前の項目の日付から誤記と判断した。
- ^ 『聯合艦隊軍艦銘銘伝』p586。