鶴見 (給油艦)
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艦歴 | |
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計画 | 1918年度(八六艦隊案) |
建造所 | 大阪鉄工所 |
起工 | 1921年3月10日 |
進水 | 1921年9月29日 |
竣工 | 1922年3月14日 |
喪失 | 1944年8月5日 |
除籍 | 1944年10月10日 |
要目 | |
排水量 | 常備:15,400トン |
全長 | 垂線間長:138.68m |
全幅 | 17.68m |
吃水 | 8.08m |
機関 | 円缶4基 直立3気筒3段膨張レシプロ1基 1軸 3,750馬力 |
速力 | 12.0ノット |
航続距離 | 不明 |
燃料搭載量 | 石炭1,350トン |
乗員 | 142名 |
兵装 (戦時のみ搭載) |
45口径3年式14cm単装砲 2基 40口径三年式8cm単装高角砲 2基 |
その他 | 石油積載量:8,000トン |
鶴見(つるみ)は日本海軍の給油艦、知床型給油艦の1艦で艦名は大分県・鶴見半島先端の鶴見埼による。
目次 |
[編集] 艦歴
1918年(大正7年)度の八六艦隊案で計画され、大阪鉄工所で1922年(大正11年)3月4日に竣工、舞鶴鎮守府籍となる。当初の予定艦名は「関西」とされていた。後に「鶴舞(つるもう)」(対馬にある岬名)に変更され更に「鶴見」になったという[1]。
平時は海外からの重油輸送に従事した。また1924年(大正13年)から1931年(昭和6年)の間には増備されたヘビーデリックを使い航空機の運搬にも使用された。
1931年(昭和6年)の満州事変、翌年の上海事変で中国に進出、1937年(昭和12年)からの日中戦争には中国各地への輸送任務に当たった。
太平洋戦争開戦直後は日本近海で燃料補給や輸送任務に当たった。1942年(昭和17年)2月にカムラン湾に進出しジャワ攻略作戦などを支援した。3月12日にシンガポールに入港し修理を実施。5月19日に呉港に帰港した。ミッドウェー海戦ではミッドウェー攻略部隊の補給隊として「佐多」とともに参加、10月よりトラックからショートランドへ進出、ソロモン方面での給油任務に従事した。
1943年(昭和18年)以降は南方資源地帯とトラックなどとの間での輸送任務に従事、1944年(昭和19年)5月にはタウイタウイで第一機動艦隊の各艦に燃料を補給した。同年8月5日にダバオを出港、バリックパパンに向かうが米潜水艦「セロ」の雷撃を受け、ミンダナオ島南方で沈没した。
[編集] 同型艦
[編集] 参考文献
- 海軍歴史保存会『日本海軍史 第7巻』(第一法規出版、1995年)
- 片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝』(光人社、1993年) ISBN 4-7698-0386-9
- 雑誌「丸」編集部『写真 日本の軍艦 第13巻 小艦艇I』(光人社、1990年) ISBN 4-7698-0463-6
- 『世界の艦船 増刊第47集 日本海軍特務艦船史』(海人社、1997年3月号増刊、第522集)
[編集] 脚注
- ^ 『聯合艦隊軍艦銘銘伝』p393。