誤植
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誤植(ごしょく)は、印刷物における文字や数字、記号などの誤りのこと。ミスプリント(ミスプリと略することもある)、タイポ(typo, typographical errorの略)、タイプミスとも言う。
もとは活版印刷の組版で間違った活字を植字してしまうことを指したが、活字以外にも広く用いられる。
タイポ、タイプミスと言った場合は、主にキーボードでの打ち間違いを指し、印刷物に限らず、各種テキストに用いられる。
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[編集] 概要
誤植とは、本来意図した表現の一部が別の字に置き換わってしまう誤りである。大抵は気付けば元の表現に復元できるが、場合によっては深刻な誤解を生むこともある。例えば薬学の本で薬の量の桁や単位を誤れば命に関わる。
本来誤植は編集作業の過程で「校正」によって正されるべきものである。校正は軽んじられがちだが、誤植の有無は出版物の質を計る指針にもなりうる。校正が不十分だと刊行後にも誤植が残ることが多い。このため、論語子罕第九の「後生可畏」の句をもじって「校正畏るべし」の警句がしばしば言われる。校正者の思い込みによって正しい表現に間違った修正がなされることもある。
刊行後に誤植が大量に判明した場合や緊急の場合には、修正箇所をまとめた正誤表が改版前に出されることもある。その正誤表にもさらに誤植が発見されるケースもある。
「誤植」はあくまでも表記の誤りをいい、内容の間違いを指すものではない。たとえば「日本はアメリカ合衆国より面積が広大である」という文は事実に反するが、誤謬であって誤植にはあたらない。そのような誤りを正す作業は「校閲」という。しかし今日では内容の間違いも「誤植」と呼ばれることがある。手書きの文書の誤りは「誤記」とよぶ。「誤植」は主に活版や写植などの大量印刷物の表記の誤りを指す言葉であり、文書処理ソフトにおける誤りは「ミスタイプ」「誤変換」ともいう。
一般に誤植は避けるべきものだが、自分の著作が盗作されてもすぐわかるよう、誤植や誤記を忍び込ませる著作者もいる。このような手法はソフトウエアの世界にもある。
[編集] 誤植の歴史
誤植の歴史は出版の歴史と同時に始まった。ヨハネス・グーテンベルクの印刷した『グーテンベルク聖書』は西洋ではじめての本格的な活版印刷物とみなされ、出版史における金字塔であるが、その中にも多数の誤植がある。42行聖書はたびたび紙数の都合で行数を変更しており、組版の組み替えなどによる多数の混乱が生じていた。そのため、この聖書の研究では、誤植と訂正の状況を追う研究が一分野をなしている。
聖書の誤植は、後述するように厳しい措置が取られていたが、戦前の日本でも、皇室がらみの記事で誤植があると厳しく処罰された。1942年、富田常雄作『軍神杉本中佐』で「天皇陛下」を「天皇階下」と誤植した童話春秋社はこのために出版停止の憂き目に遭った。その対策として、ある新聞社では「天皇陛下」の四字を一つにまとめた特注の活字も製作されたという。
誤植の形態も、時代によって変化がある。出版物が活版印刷中心の時代には、似た字の取り違えが多かったが、20世紀後半に文章執筆がワードプロセッサもしくはワープロソフトなどによるものが主流になってからは、かな・漢字変換の際の誤変換などにより、同音異義語や似た読みの取り違えが増加した。OCRスキャナによる文書読み取りでは、しばしば形状が似た字の読み違えが生じる。
[編集] 誤植の例
[編集] 聖書の誤植
グーテンベルク聖書から始まった近代出版史は、誤植の歴史でもある。聖書には誤植史上記念碑的なものが多々ある。
- 姦淫聖書
- 1631年に英国で印刷業者ロバート・バーカー(Robert Barker)によって印刷された欽定訳聖書は、のちに The Wicked Bible 、すなわち「姦淫聖書(邪悪聖書)」と呼ばれた。それは出エジプト記におけるモーセの十戒の第七条、"Thou shalt not commit adultery" (汝姦淫するなかれ)から否定のnotが抜け落ちたために、「汝姦淫すべし」となり、神が人々に姦淫を勧める聖書となってしまったからである。このためバーカーは高額の罰金を科されるも、支払えずに投獄されて獄死し、聖書は回収された。しかし密かに隠して取っておいた者が何人もいて、現在も世界に11部残されているそうである。聖書の誤植には必ず引き合いに出されるほど有名。
- 馬鹿者聖書
- 1763年の欽定訳聖書では、詩編の"the fool hath said in his heart there is no God"(愚かな者は心のうちに神はないと言う)という一節を、"there is a God"(神はある)と誤植し、信仰のある者こそが悪である、という趣旨になってしまった。印刷者にはやはり高額の罰金が科され、問題の聖書は回収された。
- 1580年にドイツで刊行された聖書では、出版屋の妻がひそかに印刷所に忍び入り、創世記の"Und er soll dein Herr sein."(彼は爾の主たるべし)とあるところを、勝手に活字を組み替えて"Und er soll dein Narr sein."(「彼は爾の馬鹿者たるべし」)とした。妻は処刑されたらしい。この聖書は、ヴォルフェンビュッテルのアウグスト大公図書館に所蔵されている。
- 酢の聖書
- 1717年刊行のクラレンドン・プレス版の聖書は、ルカ福音書第20章の表題を、"the Parable of the Vineyard"(葡萄畑の寓話)とすべきところを、"the Parable of the Vinegar"(酢の寓話)と誤植したため、「酢の聖書」と呼ばれている。
[編集] 法律の誤植
法律の公布は官報によってなされることになっているが、官報にも誤植がある。判明した誤植は後日に官報の正誤欄で訂正される。
[編集] 地図の誤植
地図にもしばしば誤植が見られる。例えば存在しない郵便局等や道路が書いてあったり、バス停の名前が間違っていたり、以前は正しかった表記も最新版にもかかわらず古い情報が残ってしまうため、結果的に誤植となってしまうケースもある。
[編集] バス停によって発生した誤植
三浦市に剱崎という京浜急行バスのバス停留所がある。この停留所は設置当初、誤って「剣崎」と名付けられ、後に「剱崎」に改められた。しかし、三浦市立剣崎小学校には、当時のバス停留所の影響を受けた名称が残っている。
[編集] バス停の誤植
[編集] 辞書の誤植
- 『岩波国語辞典』第3版
- 岩波書店の代表的な国語辞典、『岩波国語辞典』第3版の第1刷では、「ごびゅう」を引くと、「【説謬】あやまり。「―を犯す」」という誤植があった(本来は誤謬)。刊行当時「自らが率先して誤謬を実践してくれるとは親切な辞書だ」と皮肉られた。
- 『生物学語彙』
- ゴキブリは、かつては「御器囓り(ゴキカブリ)」等と呼ばれていた。しかし、1884年(明治17年)に岩川友太郎が書いた日本初の生物学用語集『生物學語彙』では、最初の記述には「ゴキカブリ」とルビが振られていたものの、2ヵ所目には「ゴキブリ」と書かれ、一文字抜けていた。この本は初版しか発行されず、間違いを訂正することができなかった。その後1889年(明治22年)に作られた『中等教育動物学教科書』にも「ゴキブリ」と記述されてしまい、この間違いは以降の教科書や図鑑にも引き継がれてほとんど全ての文献に「ゴキブリ」と書かれ、和名として定着してしまった(→そのまま定着した誤植)。
[編集] 教科書の誤植
- 雪国はつらいよ条例
- 1988年(昭和63年)に新潟県中魚沼郡中里村 (現・新潟県十日町市)が制定した「雪国はつらつ条例」(現在は失効)が、2002年(平成14年)2月に発行された中学公民教科書『新しい社会 公民』(東京書籍刊)で「雪国はつらいよ条例」と誤って紹介され、報道などで取り上げられ一時話題となった。自治体名の「中里村」も「中里町」と同時に誤植されていた。
[編集] その他書籍等の誤植
- いい親を演じなさい
- 三重県が11月の子ども虐待防止啓発月間に合わせ、県の「子どもを虐待から守る条例」を紹介するパンフレットの「子育てのヒント」の欄で「いい親を演じない」とすべきところを「いい親を演じなさい」としてしまい、三重県は急遽パンフレットの回収を行った。なお、このパンフレットは2004年から連続して発行しており、2007年11月になって誤植に気付いたという。
- スタソド、ヶーブル、カ夕カナ
- パソコンメーカーのDELLのモニター接続解説書には「スタソドに取り付ける」や「ヶーブル」などの誤植が見られる。また、キートップ上の「カタカナ」が「カ夕カナ」(カタカナの「タ」ではなく漢字の「夕(ゆう)」)との誤りが見られた。
[編集] 雑誌の誤植
- 「女性セブン」-幻の皇大子
- 「女性セブン」(2004年12月23日号)は2004年(平成16年)12月9日発売予定だったが、皇室記事の見出しで「皇太子」の「太」が「大」となっていたことに印刷作業の途中で気付き、急遽刷り直すことになったため、発売が12月13日に延期された。
- 「週刊SPA!」-大正洗脳事件
- 1989年(平成元年)2月2日発売の週刊誌「週刊SPA!」2月9日号の記事中、「大正天皇」を「大正洗脳」と誤植した箇所があると判明。発行元の扶桑社は同号を発売中止とし、併せて既に発送した分を回収した。
菊タブーも参照。
[編集] 新聞の誤植
新聞は誤植が多く、後日に訂正欄もしくは訂正記事によって訂正されることが多いが、中には不可解な誤植もよく見られる。
- 無能無智ロシア皇帝事件
- 1899年(明治32年)5月24日、読売新聞がロシア皇帝について書いた社説の中に「全能全智と称せられる露国皇帝」とすべきところを「無能無智」としてしまった。同新聞社は、即日「謹んで天下に謝す」と題した訂正の号外を配布し、ロシア公使館に単なる誤植である旨を説明して事なきを得た。
- 「老人死ね」事件
- 上毛新聞の見出しが「殴られ重体の老人死ぬ」と出そうとしたところ、「殴られ重体の老人死ね」となってしまったことで問い合わせや抗議が殺到した。この誤植はVOWにも収録され、バラエティ番組の誤植特集で取り上げられるなどしたために相当に有名になっている。これと似たようなケースに「はねられてお年寄り」、「期待と不安を脳に」、「市が冷たい熊度」、「ビッグマックの愛称で開場した東京ドーム」、「英臭太子」、「中国大便館」「バカチン市国」「電気自動軍」「ボタンひとつでトイレが飛び出す」などがある。
- 「観光客を拉致せよ」事件
- 2005年(平成17年)11月2日宮崎日日新聞の朝刊のテレビ欄でMRTイブニング・ニュースの内容を「観光客誘致を!韓国でトップセールス」としようとしたところ、「観光客拉致を!~」となってしまい、後日訂正がなされた。
- 「ローソン」-「はみちつ」
- 「ローソン」春のリラックマフェア(2008年)に発売された「リラックマミルクホットケーキ(はちみつ&マーガリン)」は「リラックマミルクホットケーキ(はみちつ&マーガリン)」となっていた。
[編集] そのまま定着した誤植
誤植がそのまま定着するケースもある。上記の「ゴキブリ」は、もはや日本語として定着してしまっている。
- 小説家吉川英治は、本名の「英次」(ひでつぐ)で作品を書いていたが、出版社が誤って「英治」としたのを本人が気に入り、筆名とした。
- コラムニストの押切伸一はある雑誌で「伸切伸一」とされたことで「のびきりのびいち」を一時期名乗っていた。
- 四方田犬彦も本来の筆名の「丈彦」を「犬彦」とされたものをそのままペンネームとして使うようになった。
- 大相撲力士(元関脇)の海乃山は、「海力山」と改名届を出した途端に番付表の誤植に遭い、そのまま意味の通らない四股名で現役を通した。
- 漫画家の矢野健太郎は、数学者の矢野健太郎をもじって「矢野建太郎」というペンネームを名乗ったが、デビュー作の掲載時に「矢野健太郎」と誤植されてしまい、そのまま現在のペンネームを使い続けている。
- 「ルパン三世」の銭形警部の本名「平一」が、「幸一」と誤植されてしまって定着した。
- もじら組はイベント「関西オープンソース+フリーウェア2003」のパンフレットで「もぐら組」とされたことで一時期自ら「もぐら組」を名乗っていたことがある。
- 「魔人探偵脳噛ネウロ」において、登場人物の一人、「石垣筍」は、本来の名前の読みは「いしがき しゅん」だったが、誤植によって「じゅん」が正式な名前になったことが単行本2巻において明かされた。また、「魔界777ツ能力(どうぐ)」の一つ「生まない女王様(イビルバジャー)」は、本来は「産まない女王蟻」であったことが、単行本第5巻において明かされた。
- アメリカ合衆国のアラスカ州にノームという町があるが、地図を作成する際、地名がかかれていなかったため、校正者が"name"(名前を入れろ)といれたところ何故か"nome"になってしまい、そのまま町の名前になってしまった。
- 新日本プロレス所属レスラーの裕次郎は、本名の(高橋)裕二郎があらゆる書類で「裕次郎」と誤植されたため、「石原裕次郎にあやかる」意味も合わせてリングネームにした。
2ちゃんねる用語などのインターネットスラングには誤植・タイポから生まれたものも多く、そのまぬけな語感が好んで用いられる。例えば金泳鎭の「日本は反省しる!」など。また、誤植ではないが近い雰囲気を持つものにAYBなどがある。
[編集] 脚注
[編集] 出典
- 聖書の誤植
- S. Freud, "Psychopathology of Everyday Life" 1901 (tr. A. A. Brill, 1914) pp.127f.
- 小酒井不木 「誤謬の値段」