官報
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国としての作用にかかわる事柄の広報および公告をその使命とする。慣例として、法令の公布は官報によりなされる。
編集及び発行は、独立行政法人国立印刷局が、行政機関の休日を除く毎日行っている[1]。
官報は、日本主要都市にある「政府刊行物サービス・センター」や県庁所在地にある「官報販売所」で販売され、発行日には国立印刷局の掲示板や官報販売所の掲示板に掲示される。また、過去1週間の官報は、インターネットのウェブサイトで閲覧することもできる。
目次 |
[編集] 概説
- 公報される事項としては、次のようなものがある。
- 公告される事項としては、次のようなものがある。
官報は、1883年(明治16年)7月2日に創刊された[2]。これは、前年に出された参議・山県有朋の建議による。
法令の公布方法などを定めた公文式(明治19年勅令第1号)では「凡ソ法律命令ハ官報ヲ以テ布告シ・・・」(10条)と定め、これを受け継いだ「公式令(こうしきれい、明治40年勅令第6号)」も「前数条ノ公文ヲ公布スルハ官報ヲ以テス」(12条)と、法令の公布は官報によって行うことを定めた。日本国憲法の施行に伴い、公式令は「内閣官制の廃止等に関する政令」(昭和22年政令第4号)により廃止され、その後法令の公布方法を定める法令は定められなかった。
しかし、以後も慣例的に法令の公布は官報によってなされるものと解されている。最高裁判所も「(公式令廃止後も)特に国家がこれに代わる他の適当な方法をもつて法令の公布を行うものであることが明らかな場合でない限りは、法令の公布は従前通り、官報をもつてせられるものと解するのが相当」とし、「たとえ事実上法令の内容が一般国民の知りうる状態に置かれえたとしても、いまだ法令の公布があつたとすることはできない。」と判示している(最高裁判所大法廷判決・昭和32年12月28日・刑集11巻14号3461頁)。
なお、公布の時期については、「一般希望者において右官報を閲覧し、または購読し得る」最初の時点とされ(最高裁判所大法廷判決・昭和33年10月15日・刑集12巻14号3313頁)、それは、国立印刷局本局及び東京都官報販売所に掲示される発行日の午前8時30分と考えられている。
また、法令上、官報に掲載する事項については、官報及び法令全書に関する内閣府令(昭和24年総理府・大蔵省令第1号)に定められている。
なお、 官報の編集について(昭和四八年三月一二日付け事務次官等会議申合せ)では、次のように定められている。
- 掲載の形式
- 形式は次のとおりとする。
- 掲載する事項及びその内容は、
- 憲法改正
- 詔書
- 法律
- 政令
- 条約 外国文の併載
- 最高裁規則
- 府令・省令
- 内閣府令
- 内閣府と各省との共同命令
- 各省の省令
- 各省の共同省令
- 規則
- 会計検査院規則
- 人事院規則
- 各委員会等の規則
- 庁令
- 海上保安庁令
- 訓令
- 内閣訓令
- 内閣府訓令
- 各省の訓令 [4]
- 各庁の訓令
- 各委員会の訓令
- 告示
- 内閣告示
- 内閣府告示
- 各省の告示
- 各庁の告示
- 各委員会の告示
- 裁判所の告示
- その他の告示
- 国会事項
- 規則
- 議事日程
- 議案関係事項
- 各委員会関係事項
- 議長、副議長及び議員関係事項
- 国会事務局職員の叙任及び辞令
- 弾劾裁判所関係事項
- 国立国会図書館関係事項
- その他
- 人事異動
- 叙位・叙勲
- 褒章
- 褒章条例によるもの
- 皇室事項
- 官庁報告
- 官庁事項
- 声明類
- 報告事項
- その他
- 法務
- 財政
- 文教
- 産業
- 通運
- 労働
- 国家試験
- 公聴会
- その他
- 資料
- 閣議決定及び閣議了解事項
- 法律案、政令の件名
- 一般案件のうち掲載を適当とするものの件名及び特別な場合にはその内容、各省庁の各種報告及び資料(白書類を除く。) [5]
- 閣議決定及び閣議了解事項
- 公共企業体事項(現在は該当なし)
- 地方自治事項
- 公告
- 各省庁の公告
- 裁判所の公告
- 公共企業体等の公告
- 地方公共団体の公告
- 会社その他の公告
[編集] 特定の版・官報
- 物価版 - 戦後の物価統制を要する時期に発行
- 官報資料版 - 政府の広報事項をまとめたもの。昭和28年から各週水曜発行されてきたが、平成19年3月28日発行分をもって終刊した(ホームページでもその旨発表)。
- 政府調達公告版 - 昭和56年以降、政府機関等の一定額以上の調達物品に関する入札公告を官報に掲載。平成6年6月以降、版を分離して発行。
- 英文官報 - 占領軍の命令により昭和21年から発行
[編集] 日本における官報の成立
1868年の明治政府成立直後に出された「太政官日報」(-1877年)がその嚆矢とされているが、本格的に官報が刊行されるようになったのは、1883年7月1日(ただし、この日は日曜日のため、実際の第1号刊行日は翌日の2日である)であった。
明治以前においては、高札が法令周知の役目を果たしていたが、新しい法令が次々と整備されていく中で、板に墨で書き記す高札では製作・維持ともにコストがかかるために1873年に廃止された。それに変わる手段として太政官より府県に対して法令を配布してそれを更に印刷にかけて町村の役所に配布・掲示させる方式を取ったが、町村までの到達日数との関係で公布から施行までに最低でも2ヶ月以上間隔を空けなければならないために、緊急の法令制定に対応できなかった。
そこで大隈重信は「ロンドン・ガゼット」(London Gazette)や「モニトオール」(Le Moniteur universel)のような公報の役目を果たす新聞を発行する新聞社を政府自らが創設する構想を唱えた。大隈は福沢諭吉の協力を得て構想の具体化を図ったが、明治14年の政変で失脚すると中止された(その後、福沢は独自の新聞発行に方針に変更して、政府と距離を置いた時事新報を創刊する)。
また、井上毅も大隈・福沢に対抗して福地源一郎[6]や丸山作楽と同様の新聞の創刊を計画したり、政府補助金を与えて新聞社を政府傘下に加える構想を立てる(立憲帝政党機関紙の大東日報などがその対象となった)が、失敗に終わった。
そこで井上は山縣有朋の協力を得て久保田貫一・小松原英太郎とともにプロシアやロシアの政府発行の官報をモデルとしたものを太政官で編纂・発行する計画に変更して準備を進めた。その結果、1883年の太政官布告17号及び太政官達22・23号によって官報発行が正式に決定され、編集は太政官に新設(5月10日)の太政官文書局(初代局長平田東助・幹事小松原英太郎)が、印刷は大蔵省印刷局が、配送は農商務省駅逓局が担当することになった。なお、当時の文書局には官報編纂とともに外国文献の翻訳という職務も担っており、原敬・陸実・中根重一ら多彩な人材を揃えていた。
[編集] 補注
- ^ 行政機関の休日に関する法律(昭和63年法律第91号)を参照。なお、同法に定める休日に該当する日であっても、年度末や緊急時等には官報の発行が行われる場合もある。
- ^ 明治十六年太政官達第二十七号(官報の発行)を参照
- ^ 最高裁判所規程は、裁判所時報に掲載される。
- ^ 防衛省訓令は、防衛省公報に掲載される。なお、同公報には陸上自衛隊訓令、海上自衛隊訓令及び航空自衛隊訓令も掲載されている。
- ^ 資料の要約及び解説等は、原則として官報資料版で取り扱っていた。
- ^ 福地の「東京日日新聞」は1874年以来、太政官御用となっていたが、明治14年の政変による政府批判と同時に御用返上を行った。
[編集] 参考文献
- 鈴木栄樹「『官報』創刊過程の史的分析 日本における近代国家の形成と法・情報」(山本四郎 編『日本近代国家の形成と展開』(吉川弘文館、1996年 ISBN 4642036644))
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- 官報バックナンバー - 首相官邸
- 官報 - 独立行政法人国立印刷局
- 『政府刊行物・官報・官報公告』 - 全国官報販売協同組合
- 『かんぽう』 - 株式会社かんぽう(大阪府官報販売所)