ヨハネス・グーテンベルク
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ヨハネス・グーテンベルク(Johannes Gensfleisch zur Laden zum Gutenberg、1398年ごろ-1468年2月3日)はドイツ出身の金属加工職人で、1447年にヨーロッパにおいて総合的な活版印刷技術(具体的には活字合金製の金属活字と油性インクの使用技術)を実用化し、初めて旧約・新約聖書(ラテン語版)を印刷したことで知られる。これが『グーテンベルク聖書』である。
グーテンベルクの最初期の印刷物については、彼自身がぶどうの絞り器を改良して作った印刷機で印刷したという説と、すでに存在していた印刷機を利用したという説の両方がある。グーテンベルクは一般的に「活版印刷技術の発明者」と呼ばれているが、詳細に関しては議論がある。ただグーテンベルクが印刷に関するすべての技術を発明したわけではないにしろ、彼が種々の印刷技術を改良し、統合した最初の人物であることに関しては疑いがない。グーテンベルクの偉大さは、先行する技術を統合し、活字合金の製造と活字の製作を行い、油性インクと新型の印刷機を用いることで総合的な印刷システムを完成させたことにある。彼の開発した印刷システムは急速に普及して、大量の印刷物を生み出し、ルネサンス期における情報伝播の速度を飛躍的に向上させることになる。東洋において数世紀前に実用化されていた金属活字印刷の技術はヨーロッパでグーテンベルクが社会へもたらしたような強烈な影響は与えなかった。
印刷技術は羅針盤、火薬とともに「ルネサンス三大発明」の一つにあげられる。「活版印刷の発明者」としてグーテンベルクは現在でも人気があり、1999年にA&E ネットワークが選定した「紀元1000年代の人」ランキングで一位に選ばれているほどである。
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[編集] 生涯
グーテンベルクはドイツのマインツの貴族の家系に生まれた。父はフリーレ・ゲンスフライシュ・ツア・ラーデン、母はエルゼ・ヴューリヒであった。父フリーレが1427年ごろにグーテンベルク屋敷と呼ばれた住居を手にいれて、そこで暮らしたことから、一族は以降「ツム・グーテンベルク」という名前も名乗るようになる。13世紀以降、グーテンベルク一族は冶金業と商業に従事していた。父母の間には長男フリーレ(後に市参事会員)、長女エルゼが生まれ、次男として生まれたのがヨハネスであった。(グーテンベルクの人生についてはほとんど知られていなかったが、19世紀にアロイス・キュッペル(Aloys Küppel)博士が初めて本格的な研究を行い、以降、教会や市の記録をもとにしてグーテンベルク一族の研究が進められた。)
当時のマインツでは市民と貴族の間で争いが繰り返されていた。そのあおりでグーテンベルク一家は1411年以降、他の貴族たちと同じように、何度もマインツを離れてエルトヴィル・アム・ラインへ逃れることを余儀なくされた。そのころ、ヨハネスがエルフルト大学に学んだ可能性もある。1419年に父フリーレが世を去り、一家がマインツに戻ることができたのはようやく1430年になってからであった。成人したヨハネスは金属加工の腕を磨き、貨幣鋳造職人としてその手腕を高く評価されていたが、母方の祖父が貴族でないという理由で貨幣鋳造業ギルドへの加入が認められなかった。ヨハネス(以下グーテンベルク)は1433年に母がなくなってから、兄姉との関係がうまくいっていなかったようで、それが原因なのか1434年以降ストラスブールに移り住んでいる。
家族とも生まれ故郷とも訣別した孤独なグーテンベルクはストラスブールで金属活字の研究に打ち込んだ。1439年ごろのストラスブールの裁判記録からグーテンベルクがすでに出資者をつのって印刷事業を行っていたころがわかる。1444年、再びマインツに戻ったグーテンベルクは手に入れた屋敷を自宅兼印刷所として商業印刷事業を開始した。当初はドイツ語の詩や贖宥状などいわゆる「端物印刷」で生活費を稼いでいたようである。
1450年ごろ、グーテンベルクはヨハン・フスト(Johann Fust)なる人物から事業資金をえることに成功した。フストは設備費として800グルデンを貸し付け、二人は共同事業者として新規事業を立ち上げた。彼らが新技術をアピールするために選んだプロジェクトがラテン語聖書の印刷・販売であった。このころ、グーテンベルクは自宅附属の印刷所だけでなく、フストの資金で設立した新しい印刷所の二ヶ所で印刷を行っていたことがわかっている。(このことを明らかにしたのは19世紀の研究者カール・ジアツコ(Karl Dziatzko)である。)またその頃フストがペーター・シェッファー(Peter Shöffer von Gernsheim、1430年ごろ-1467年)という青年をグーテンベルクのもとに連れてきた。シェッファーはパリ大学の卒業生で写字生の経験があり、グーテンベルクのもとで印刷術を学んだ。(シェッファーはフストの娘クリスティーナと結婚して婿になり、印刷業をビジネスとして成功させることになる。)
後に「グーテンベルク聖書」(「四十二行聖書」)と呼ばれる最初の印刷聖書は1455年に完成した。これと前後してフストがグーテンベルクを訴えるという事態が起きた。ゲッティンゲン大学に保管されている『ヘルマスペルガー文書』によれば、フストは以下のように主張している。すなわち、フストが印刷所の設備のためにグーテンベルクに二回にわけて1600グルデンの資金を貸与したが、グーテンベルクは聖書の印刷事業のために貸し付けた資金を別の用途に使っていて、返済の意志がない。であるため貸与金額に利子をつけて2026グルデンの返済を要求するというものであった。裁判所はフストの訴えを認め、グーテンベルクに借金の返済を命じた。しかしグーテンベルクは十分な所持金を持っていなかったため、グーテンベルクの印刷機と活字、印刷中の聖書などがすべて抵当としてフストの手に渡った。
グーテンベルクはこの決定にも落胆することなく、再び資金を集めて自宅の印刷所で書籍の印刷を続け、『カトリコン』(1460年ごろ)などの印刷を行っている。ただ、グーテンベルクには印刷日時や印刷者の名前を書物に入れるという発想がなかったため、直接的な年代の確定が困難であった。一方でグーテンベルクを追い出す形になったフストとシェッファーは事業を順調に発展させ、1457年8月15日に出版した『マインツ詩篇』は世界で初めて奥付(コロフォン)に印刷日と印刷者名(フストとシェッファー)を入れた書籍として歴史に残ることになる。
- ちなみにかつてグーテンベルクの印刷とされていた『三十六行聖書』については、現代の研究者はグーテンベルクから活字セットをもらいうけたバンベルクのアルブレヒト・プフィスター(Albrecht Pfister)の工房で1460年ごろ製作されたと考えている。
1462年、マインツは対立する司教同士の争いに巻き込まれた。一方のアドルフ2世大司教に従う軍勢がマインツの略奪を行い、グーテンベルクは自宅と印刷所を失った。すべてを失ったかに見えたグーテンベルクであったが、印刷術考案の功績を讃えて1465年にアドルフ大司教の宮廷に従者として召し抱えられる栄誉を得た。グーテンベルクがひっそりと世を去ったのは三年後の1468年のことであった。
[編集] 印刷技術の発明者をめぐって
グーテンベルクの生存中のもので彼の名前に言及した資料はまだ見つかっていない。彼の名前が印刷技術と結びついて初めて現れるのは1472年の書簡でソルボンヌ大学教授ギョーム・フィシェ(Guillaume Fichet)がロベール・ガギャン(Robert Gaugin)にあてた個人的なものであった。そこには「マインツ市の近くに住むBuonemontano(ラテン語で「良き山」の意味でグーテンベルクという言葉をラテン語にしたもの)という姓を持つヨハンなる男が印刷術を発明した」とある。(折田洋晴、「インキュナブラの世界」、p15および富田修二、「グーテンベルク聖書の行方」、p80)
1499年に印刷された『ケルン年代記』(Cronica van der hilliger Stat Coellen)は「印刷術はマインツで発明され、1444年頃ケルンに伝えられた。印刷術の発明者はヨハン・グーテンベルクと呼ばれた」と書いているが、『ケルン年代記』が「印刷技術の原型はオランダからドイツに伝えられた」とも書いていることから、一時期印刷技術はオランダから始まったという説がさかんに唱えられた。グーテンベルクは印刷事業では成功しなかったことから彼の名前が忘れられ、ヨハン・フストとペーター・シェッファーが印刷術の創始者と考えられたこともあったが、ペーター・シェッファーの息子ヨハンは自ら印刷したリヴィウスの『ローマ史』の献呈の辞に印刷術の発明者はシェッファーではなくグーテンベルクであることを明記している。
印刷技術の発明者が誰であるかということをめぐってはさまざまな説が流布してきた。特に16世紀から18世紀までに書かれた多くの「歴史書」は歴史的真実よりも自国のプライドや著者の主張が優先されることが多かったため、研究者の視点から見ればお粗末なものであっても、印刷術の発明者をめぐる問題を混乱させることになった。
たとえば1568年に出たオランダのハールレムの医師アドリアン・ユニウス(Adriaan de Jonghe Hardrianus Junius)の著作『オランダ年代記』(Batavia)は、グーテンベルクの活版印刷術はもともとオランダ人ラウレンス・コスター(Laurence Koster)が1442年に発明したものであり、マインツのヨハン・ファウストス(グーテンベルクとフストの名前が混合したもの)なる人物がコスターからその技術を盗み出したと記した。この記述からある時期、オランダが活版印刷発明の地であると信じられたこともあったが、コスターによる最古の印刷物といわれるものが1460年代以降のものであることが科学的に証明されたたため現在ではこの説は受け入れられていない。
他にも多くの印刷物が「グーテンベルクより古い」と主張されてきたが、どれもグーテンベルクの印刷事業より古いものであることを示されるには至っていない。
[編集] グーテンベルクの印刷物
1455年、フストとグーテンベルクは二巻本のラテン語聖書(Biblia Sacra)を完成させた。15世紀の記録にはその値段は「二冊で100グルデン」であるという。(「グーテンベルク聖書の行方」、p83)当時の物価で平均的な労働者の二年分の賃金にあたるほど高価なものだったが、それでも写本に比べれば安価であり、写本が一冊をつくるのに一年近くかかることを考えれば大量生産につながる画期的な事業といえた。
1455年に印刷された『グーテンベルク聖書』(行組から『四十二行聖書』と呼ばれる)は完全な形で世界に48セット残っており、ドイツ、イギリス、アメリカ合衆国などに保管されている。日本では慶應義塾大学が所蔵しているが、これはアジアで唯一のものである。グーテンベルク聖書は写本を模して作られたため、後の印刷物のスタンダードである要素を多く欠いている。たとえばページ番号、語間の空白、インデント、段落間の空白などがまだ見られない。2003年の時点で、羊皮紙に印刷された旧約・新約聖書が完全なものが4部、不完全なものが8部ある。紙に印刷されたもので完全なものが17部、不完全なものが19部で合計48部になる。
グーテンベルクがフストと共同で印刷したものは以下のようなものが知られている。
- 『ドナトゥス文法書』(1454年) 中世から近代に至るまでもっともよく用いられたラテン語文法書。4世紀のローマ人でヒエロニムスの師であったアエリウス・ドナトゥス(Aelius Donatus)の著作。
- 『贖宥状』(1454年) 三十行。ニコラウス5世がトルコへの戦いに功あるものに示したもの。
- 『四十二行聖書』(1455年) いわゆる『グーテンベルク聖書』。180部ほど印刷された。
- 『マインツ詩篇』(1457年) コロフォンにはグーテンベルクの名前はないが、計画の途中までかかわっていたと考えられている。
他にグーテンベルクが自らの工房で印刷していたものとして以下のものがあげられる。
- 『贖宥状』(1454年) 三十一行。ニコラウス5世によるもの。
- 『トルコ暦』(1454年) トルコに対する戦いへの協力をよびかける教皇ニコラウス5世の書簡。
- 『トルコ教書』(1456年) トルコに対する戦いへの協力をよびかける教皇カリストゥス3世の書簡。
- 『医事暦』(1456年) 一種のカレンダー。
- 『キシアヌス』(1456年)ドイツにおけるカトリック教会の祝祭日を記した暦。
- 『カトリコン』(1460年) 1286年のヨハネス・バルブスの著作。ラテン語文法書とラテン語辞書を組み合わせたもの。
- 『信仰大全』(1460年) トマス・アクィナスの著作。
- 『贖宥状』(1461年) ピウス2世のもの。十五行および十八行。
『四十二行聖書』はユネスコの推進する歴史的記録遺産のデジタル化計画『世界の記憶』プロジェクトに加えられた。
[編集] グーテンベルクの影響
グーテンベルク自身は成功した人生を送ったとはいいがたいが、彼の完成させた印刷技術は急速に普及し、ニュースや書籍の流通速度を劇的に速めた。印刷技術はルネサンスの拡大につながり、ひいては科学革命の土台を作ったとみなされる。またギリシャやローマの古典書が大量に出版され出回った。もっとも多かったのはギリシャ語、ラテン語聖書であった。これらの書物が研究されたことが宗教改革にいたる地下水脈の一つになっていく。15世紀中に金属活字を用いて印刷された書物は現存数も少ない大変貴重なもので「インキュナブラ」と呼ばれている。
ドイツ国内には多数のグーテンベルク像が建っているが、特に有名なものはマインツのグーテンベルク博物館にある像である。またマインツには彼を記念したグーテンベルク大学がある。版権のきれた著作物を収集するプロジェクト・グーテンベルクや『グーテンベルグの銀河系』(マーシャル・マクルーハン著)などの名称も彼にちなんだ名前である。
[編集] 東アジアの印刷技法との関係
ヨーロッパで活版印刷の技術が確立されるはるか以前に東アジアにおいて金属活字の技術が確立されていた。 このため、多くの研究者がこれらの先行技術が何らかのかたちでヨーロッパに伝わったのではないかと考えてきた。
木版印刷および活字印刷が史上初めて行われたのは中国であると考えられている。現存する印刷物で年代が確定している最古のものは日本の法隆寺に保管されていた『百万塔陀羅尼』(8世紀)である。これは称徳天皇が発願して770年に完成させたと伝えられている。中国のものでは1800年に敦煌で発見された経典『金剛般若波羅蜜経』(868年頃)がある。中国では9世紀以降、大量の印刷物が作成された。韓国では1966年に慶州の仏国寺で発見された『無垢浄光大陀羅尼経』の印刷が同寺の創建年である751年のものであるとされた。もし、これが間違いでなければ世界最古の印刷物ということになるが、年代を確定する傍証がないこと、韓国でその次に古いものが11世紀の経典で250年もの空白があることなどから一般的に承認されるまでには至っていない。
14世紀にヨーロッパで初めて作成された木版は中国のものとほとんど同じである。このことからある研究者たちは「初期の旅行者や宣教師が中国からヨーロッパへ印刷の技術をもたらしたのではないか」と考えている。研究家ジョセフ・ニーダムは著作『中国の科学と文明』第1章の中で「ヨーロッパ人たちは中国の印刷物の実物を見ただけでなく、おそらく中国に滞在した宣教師などから具体的な印刷の技術を学び取ったと考えられる」と書いている。
一回限りの木版から何度でも利用できる金属活字への進化は14世紀の朝鮮半島で起こった。1377年、荘宗時代の高麗で『仏祖直指心体要節』が銅活字で印刷されたとされる。慶暦年間(1041年~1048年)に北宋の庶民であった畢昇が陶器で活字を作成したのが、世界初の活字であるといわれている。(畢昇の名は北宋の沈括の著『夢渓筆談』十八巻であげられている。)
先行する東洋の印刷技術がヨーロッパに伝わった確証はないが、グーテンベルクの時代まですでに二世紀にわたって東西の交流が行われていたことを考えれば、これらの技術が伝わったと考えることも無理ではない。ただ、ヨーロッパでは大量印刷の技術が宗教改革などの大規模な文化革新に直結したことに大きな特徴がある。
[編集] 関連項目
[編集] 参考書籍
- 高宮利行、『グーテンベルクの謎』、岩波書店、1998
- 富田修二、『グーテンベルク聖書の行方』、図書出版社、1992
- 折田洋晴、『インキュナブラの世界』、研修教材シリーズ13、日本図書館協会、2000
- 米山寅太郎、『図説中国印刷史』、汲古書院、2005