羽生善治
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
羽生善治(はぶ よしはる、1970年9月27日 - )は、将棋棋士。通算タイトル獲得数は歴代2位で、6つの永世称号(永世名人(十九世名人資格保持者)・永世棋聖・永世王位・名誉王座・永世棋王・永世王将)を保持している。二上達也九段門下であり、棋士番号175である。数々の実績から将棋史上最強格の棋士の一人に挙げられる。羽生と同世代の棋士には強豪が多く、「羽生世代」と称されている。埼玉県所沢市生まれ、東京都八王子市育ち。
目次 |
[編集] プロデビューまでの来歴
小学校1年生で将棋を覚える。その後八王子の将棋道場に通うようになり、めきめきと上達。(羽生の親が買い物をするとき、託児所的に将棋道場を利用したということもある。) 子供の頃から将棋が家族内であまりにも強すぎたために、家族が不利な展開になったときは将棋盤を180度回転して、それまで家族が指していた劣勢な側を善治が、それまで善治が指していた優勢な側を家族が指し継ぐという家族内ルールが存在したという[1]。
5年生の頃から、関東各地の子供将棋大会を総なめにする。母親が我が子を見つけ易くするため、いつも広島東洋カープの赤い野球帽を被らされていて、周囲からは「恐怖の赤ヘル」と恐れられていた(羽生自身は読売ジャイアンツファンであった)[2]。
関東各地の子供将棋大会で森内俊之と知り合い、この頃からライバル関係となる。将棋大会で、先手・森内の初手▲5八飛に対して後手の羽生が▽5二飛という出だしの将棋があった[3]。
1982年の小学生名人戦で優勝。このとき森内が3位、NHKテレビ解説者は当時19歳の谷川浩司だった。
小学生名人戦で優勝後、奨励会入り。1年余で6級から初段に昇段するなど驚異的な速度で昇級・昇段を重ね、1985年12月18日に三段において13勝4敗を記録。この成績をもって、当時の規定[4]により四段に昇段し、加藤一二三、谷川浩司に続く史上3人目の中学生棋士となる。
[編集] 戦績
[編集] デビュー、そしてスターダムへ
「中学生棋士」としてデビューしたのは1985年12月であったが、実質の初年度である1986年度に、全棋士中で1位となる勝率(0.741)を記録し、将棋大賞の新人賞を受賞する。翌1987年度は、勝率1位(0.820)に加えて最多勝(50勝)も記録。
羽生に追随してデビューしてきた同年代の強豪棋士達とともに、いわゆる「チャイルドブランド」[5]と呼ばれる新世代のグループを形成し、羽生は、その代表的存在として勝ち進む。特に、先手番での勝率が9割という時期があった[6]。
羽生を一気にスターダムへ押し上げることになったのは、五段時代の1988年度のNHK杯戦である。大山康晴、加藤一二三、谷川浩司(準決勝)、中原誠(決勝)と、4人の名人経験者を立て続けに下して優勝。まるで作ったかのような舞台設定で、これは多くの将棋ファンに対して羽生という棋士の存在を強烈に印象付けた。特に対加藤戦で放った▲5二銀は非常に有名であり、解説役で出演していた米長邦雄も驚嘆していた。
同年度は対局数、勝利数、勝率、連勝の記録4部門を独占。(80局、64勝、0.800、18連勝) 4部門独占は、その後も他の棋士が達成していない大記録である。新人王戦、オールスター勝ち抜き戦でも優勝し、将棋大賞の最優秀棋士賞を史上最年少(18歳)で受賞した。無冠の棋士が受賞したのも、史上初である。
そして、ついにタイトル戦に登場したのが、初代竜王島朗への挑戦権を得た1989年の第2期竜王戦である。その七番勝負を4勝3敗1持将棋のフルセットの末に制し、史上最年少タイトル記録(当時)となる19歳2ヶ月で竜王位に就く[7]。この年度は、2年連続2度目の記録4部門独占も果たす(71局、53勝、0.757、15連勝)。
翌年11月に谷川に1-4で敗れ、無冠の「前竜王」という肩書きになるが、3か月後の1991年2月の棋王戦で南芳一から3-0でタイトルを奪取し、それ以降は無冠となったことがない(2008年5月現在)。また肩書きとして段位を名乗ったのは竜王戦挑戦時の六段が最後であり、その後の肩書きはすべてタイトル名(前竜王が3ヶ月あるが)か○冠という呼称である。最後に名乗った六段も、竜王戦挑戦者になったことで得た特例昇段であり、六段を名乗ったのは竜王位奪取までの3ヶ月程度である。この点からも羽生が如何に特別な棋士であるかが分かる。
なお、 1991年9月20日に第4期竜王戦1組残留決定戦で加藤一二三に敗れて2組へ降級した。竜王戦の歴史が浅いから、ということはあるが、現役のタイトルホルダー(棋王)として、また、最年少での降級という珍記録となった。
[編集] 七冠独占への道
1992年度、王座を福崎文吾から奪取[8]して、自身初の二冠となる。さらに、同年の竜王戦では、1組への即復帰だけに留まらず、谷川浩司竜王への挑戦権を得、4勝3敗1千日手で奪取して竜王に復位し、自身初の三冠となる。棋王戦でも、谷川を下して防衛する。
1993年度、棋聖と王位をそれぞれ谷川と郷田真隆から奪取して、五冠となる。しかし、竜王を佐藤康光に奪われ四冠に後退する。年度末のタイトル戦である棋王戦では南の挑戦を退けて防衛する。
1994年度には、前年に史上最年長名人の記録を達成した米長邦雄から、名人位を奪取。そして、竜王を佐藤から奪還した時点で史上初の六冠王となる。なお、防衛戦の方は、前期棋聖戦、後期棋聖戦、王位戦、王座戦で、それぞれ谷川、島、郷田、谷川を下して、全て防衛に成功する。
残るタイトルは、いよいよ王将ただ1つとなった。王将リーグは5勝1敗で郷田と並んで終え、プレーオフに勝利して自身初の王将挑戦権を獲得。ついに、1995年1月からの第44期王将戦で、全冠制覇をかけて谷川王将に挑むことになる。
この王将戦七番勝負はフルセットの戦いになったが、同時進行していた棋王戦五番勝負では森下卓をストレートで下して、早々と防衛を決めていた。
そして迎えた王将戦第7局では、千日手指し直し[9]の末、敗退。谷川によって、史上初の全冠制覇を目前で阻止された[10]。この第7局の2日目当日(1995年3月24日)、対局場である青森県・奥入瀬のホテルには、将棋界の取材としては異例の数の報道陣が大挙して詰めかけていた。対局終了後、カメラや質問が主に敗者に向けられたというのも、異例のことであった。
このチャンスを逃したとき、プロ間でも将棋ファンの間でも、「いくら羽生とはいえ、もう七冠独占は無理であろう」と予測する向きが多かった。
しかし、それから1年間、羽生は全てのタイトルを防衛する。挑戦者は、森下卓(名人戦)、三浦弘行(棋聖戦)、郷田真隆(王位戦)、森雞二(王座戦)、佐藤康光(竜王戦)であった。なお、これらの防衛戦の間に通算タイトル獲得数が谷川の20期(当時)を超え、大山、中原に次ぐ歴代3位となっている。
さらに、第45期王将リーグも5勝1敗の1位で抜けて、谷川王将に2年連続挑戦する。
そして、ついに1996年2月14日、4-0のストレートで王将を奪取し、七冠独占の偉業を成し遂げた。
タイトルが7つになってからの全冠制覇は史上初の快挙で、翌日の新聞の一面を飾ったり、終局直後に生中継によるニュース速報が行われるなど、棋界にとどまらず社会全体で大々的に採り上げられた。直後に棋王戦防衛にも成功(相手は高橋道雄)したので、年度の全7タイトル制覇も達成したことになる。この年度は、テレビ棋戦のNHK杯、早指し将棋選手権でも優勝したので「九冠」とも言われた。しかも、年度勝率は、タイトル戦続きで強豪との対局がほとんどであったにもかかわらず0.8364(歴代2位)という驚異的な数字であった[11]。
さて、七冠王として迎えた新年度(1996年度)の最初のタイトル戦は、小学生時代からのライバル・森内俊之との初のタイトル戦となる名人戦であった。この七番勝負は4-1で防衛に成功し、内容的にも、両者、力を出し合った名局揃いという評価を受ける。
次の防衛戦は、2年連続で三浦弘行[12]を挑戦者に迎えた第67期棋聖戦であった。フルセットの戦いの末、三浦に2-3で敗れ、全冠独占はわずか167日(1996年2月14日-7月30日)で幕を降ろした[13]。
[編集] 七冠以後
三浦から棋聖位を奪われたのと同年の第9期竜王戦と、翌1997年第55期名人戦の2つのビッグタイトル戦で、いずれも谷川にタイトルを奪われ、四冠に後退[14]。
この年度は、NHK杯決勝で村山聖に勝って4度目の優勝をしたが、これが二人の最後の対局となった(約5ヵ月後の1998年8月8日に村山が死去)。
名人位失冠後は、1999年度末まで保持していたタイトルの防衛に成功し続け、四冠を3年間堅持。2000年には谷川浩司から棋聖を奪取して再び五冠王になる。
2001年度のタイトル戦は、奪取1(竜王)、防衛3(王位、王座、棋王)、失冠2(棋聖、王将)と、目まぐるしい1年であったが、年度末時点で四冠。
2002年度のタイトル戦は、奪取1(王将)、防衛2(王座、竜王)、失冠2(王位、棋王)で、年度末時点で三冠。このうち、竜王の獲得は通算6期となり、史上初の永世竜王にあと一期と迫った。
2003年の名人戦で森内俊之から奪取して四冠になるとともに、名人位通算4期で永世名人資格にもあと一期と迫った。
ところが、同年度(2003年度)の竜王戦、王将戦、そして2004年の名人戦で、いずれも森内に立て続けにタイトルを奪われ、永世竜王・永世名人資格獲得を逸する[15]ばかりか、羽生のタイトルは王座の一冠のみとなった。
この時点で、棋界の構図は、森内竜王名人(王将と合わせて三冠)、谷川王位棋王(=二冠)、佐藤(康)棋聖、羽生王座となり、この瞬間、羽生は棋界最強の座を奪われただけでなく無冠の危機さえ迎えたかに見えた。
しかし、その2004年度中に王位、王将、棋王を奪還。その間、王座も防衛して、あっという間に再び七大タイトルの過半数を占める。
2005年度のタイトル戦は、森内へのリターンマッチとなる名人戦で始まったが、3-4で惜しくも敗れ、またしても永世名人資格獲得のチャンスを逃す。この年度は、そのほか、防衛3(王位、王座、王将[16])、失冠1(棋王=相手は森内)で三冠に後退。
同年度(2005年度)の順位戦では8勝1敗の成績だったにもかかわらず谷川とのプレーオフとなり、結果敗れて名人挑戦を逃した。8勝して名人挑戦できなかったのは唯一のケースである。なお、このプレーオフの一局は結果的に「詰ましにいって詰まなかった」ものだったが、内容は高く評価され、第34回将棋大賞で創設されたばかりの「名局賞」を、谷川とともに受賞している。(翌年度も名局賞を連続受賞するが、いずれも負けた対局での受賞である。)
2006年度、王位、王座、王将を防衛して三冠を堅持(奪取と失冠はなし)。王座防衛の時点で通算タイトル獲得数を65期とし、中原誠(通算64期)を抜いて歴代単独2位となった。
王座戦で16連覇しており(2007年現在継続中)、1959年~1971年にかけて大山康晴が名人戦で樹立した同一タイトル連覇記録13連覇を抜いている[17]。
2007年12月20日、第66期A級順位戦6回戦で久保利明を破り、史上8人目、最年少、最速、最高勝率で通算1000勝を達成。
2008年2月28日、第57期王将戦第5局で久保利明を破り、史上2人目の棋戦優勝100回(タイトル獲得68期、一般棋戦優勝32回)を達成。
2008年6月17日、第66期名人戦第6局で森内俊之名人を破り、名人位と三冠に復帰、また十九世名人の資格を得る。さらに、史上初の永世六冠(永世名人、永世棋聖、永世王位、名誉王座、永世棋王、永世王将)となった。
[編集] 棋風
- 居飛車、振り飛車、相振り飛車のいずれも指しこなすオールラウンドプレイヤーで、幅広い序盤戦型、各局面で先入観にとらわれない柔軟な発想と決断力、豊富な戦術に定評がある。そのため対策が立てにくく、今に至るまで高い勝率を維持していると言われる。[要出典]
- 終盤での絶妙の勝負手、他の棋士が思いつかないような独特な寄せ手順から逆転することから「羽生マジック」と称される。
- 棋風は「泰然流」「無双流」などと名づけられているが定着していない。
- 好きな駒は銀将。2008年5-6月の永世名人資格を獲得した名人戦でも銀の動きに異彩を放った。
- 金銀を、2三(後手なら8七)や8三(後手なら2七)に打った対局の勝率が高いと言われている。ここに金銀を打つのは、通常は勝ちづらいと考えられている手法である。このため、棋界の一部では、これらのマス目は「羽生ゾーン」と呼ばれている[18]。
[編集] エピソード・人物
[編集] 対局に関するエピソード
- 得意なタイトル(王位・王座・棋王・王将)と得意ではないタイトル(竜王・名人・棋聖)との獲得数の差が顕著である。永世名人は小学生時代以来のライバルである森内俊之に先を越された。ただし、それでも永世名人・永世棋聖はすでに達成、永世竜王(通算7期/連続5期)にもリーチをかけている(竜王を通算6期獲得しているのは羽生だけであるが、連続5期の条件の方で現竜王の渡辺もリーチをかけている)。
- プロデビューして間もない低段時代には、上目で相手をにらみつける(ように見える)「ハブ睨み」が相手を恐れさせたとされる。
- 初手を指すとき、歩を持った手を若干左斜めに上げてから下ろす。それはあたかも、将棋漫画の登場人物の様な動作である。
- 対局中、勝ちを確信したときに、無意識に打ち下ろした駒をさらに指で盤に押し付ける仕草(通称「グリグリ」)をすることがある。
- 初めて竜王位に就いた1989年頃は、先輩棋士(自分より段位や実績が上の棋士)と対局する際、上座に座るべきか下座に座るべきか、毎局悩んでいたが、1990年に一期で竜王位を失って以降は、席次に関しては、タイトル保持者としてふさわしい行動をとるよう努め、それで反感を買っても仕方がない、という考えをとるようになった[19]。その後1994年に、A級順位戦8回戦で中原誠(当時の肩書きは前名人)と対戦した際、羽生(当時王位・王座・棋王・棋聖の四冠)が上座についたことで物議をかもした。この件は「上座事件」と呼ばれることもある。これについて羽生は、それまでのリーグ戦の成績が、自分の方がよかったので勘違いした、と語っている[20]。
- 若手時代、NHK杯戦で先手番となったとき、▲2六歩▽8四歩▲2五歩▽8五歩という相掛かりの出だしの後、常識とされる5手目▲7八金を指すまでに若干の時間を使って考慮をし、観戦している人々をドキリとさせたことがある[21]。
- 最初の五冠王となったころは「振り駒も強い」といわれた。実際、1992年度と1993年度のタイトル戦における振り駒(第1局および最終局)は12回行われたが、すべて羽生が先手となった。
- 1993年12月24日の対谷川戦(棋聖戦)において、序盤で4四の歩のタダ取りを許す▽4二角、さらには、いったん敵玉に迫っていた7九の と金を、香車を取るだけのために2手をかけて▽8九~▽9九へ「退却」させるという、将棋の常識からかけ離れた奇手を指した。売られた喧嘩に谷川が応じる展開の乱戦となり、さらに終盤だけで80手ほどもある激戦となったが、結果、羽生が勝利している。
- 1994年、初めて名人位を獲得した直後のNHK杯戦・対畠山鎮戦で、先手・畠山の初手▲2六歩に対して2手目▽6二銀と指したことがある。そして、10手目で▽3四歩とするまで羽生の歩が1つも動かないという、極めて珍しい出だしとなった。まさに「名人に定跡なし」といったところであろうか。
結果、勝利したものの、自陣を整備するのに神経をすり減らす展開であった。
なお、羽生は、これについて後に「▽6二銀は損だが、どれぐらい損であるかを見極めるために指した。どれだけ損であるかがわかったので、もう指すことはない。」という旨を語っている[22]。
- 2003年の第51期王座戦では、タイトル戦初登場で19歳の渡辺明五段(当時)の挑戦を受け3-2で防衛したが、最終の第5局の終盤で羽生の手が震えて駒をまともに持てなかったということは有名である[23]。ただし、このときに限ったことではなく、一手のミスも許されない終盤で羽生の手が震えるというのは、比較的よく見られることのようである[24]。
- 2007年10月14日放送のNHK杯戦、対中川大輔戦で奇跡的な逆転勝利(中川の玉がトン死)を挙げ、当時の解説でNHK杯現役最多優勝記録保持者の加藤一二三をして「NHK杯戦史上に残る大逆転」と言わしめる対局となった。[25]
- 2008年の第66期名人戦第3局(2008年5月8日~9日)において、控え室[26]の棋士達が森内俊之の勝ちと判断して検討を打ち切った後の敗勢から驚異的な粘りを見せて、最後の最後で森内のミス[27]を誘い、大逆転勝利を挙げる。その凄まじさは副立会人の深浦康市が「50年に1度の大逆転」と評したほどであった。
- 史上初のネット公式棋戦である大和証券杯ネット将棋最強戦の第2回、1回戦・渡辺明竜王との対局(2008年5月11日)において、マウス操作の関係のミス[28]によって、痛恨の時間切れ負けをする[29]。時間切れとなった局面は68手目、中盤から終盤への入り口で一番面白くなるところであり、しかも羽生優勢[30]の局面であった。[31]。なお、これは羽生にとってデビュー以来初めての反則負けとしてマスコミに注目され、翌日の朝刊では一般紙や地方紙でも取り上げられた[32]。
[編集] その他
- 血液型はAB型である[33]。
- 東京都立富士森高等学校に通っていたが、将棋に専念するため中退。後に東京都立上野高等学校通信科を卒業する。
- 寝癖がトレードマークであったが、結婚後はあまり見られなくなった(扶桑社から発刊された「新しい単位」という本では、羽生の寝癖がついているというイメージから、「だらしなさ」の単位として「hb(ハブ)」が採用されている)。演歌歌手・長山洋子の歌「たてがみ」は、羽生に対するオマージュソングである(「たてがみ」は羽生の寝癖になぞらえたタイトル)。
- 妻は元女優の畠田理恵。婚約発表は1995年7月。1996年2月19日に畠田が駅で暴漢に襲われる事件が発生。この事件は七冠達成から僅か5日後であったため、マスコミで大きく取り上げられた。
挙式は1996年3月28日。[34]
1997年7月に長女、1999年11月に二女が誕生。2人の女の子の父親となる。 - 能條純一の漫画作品『月下の棋士』の主人公・氷室将介の圧倒的な強さと対局時のオーラは羽生をモデルにしていると作者が単行本最終巻で語っている。
- 趣味は水泳とチェス。チェスでは、FIDE Masterの称号を持ち、2008年4月現在においてレイティングは2404と日本国内1位で、国内屈指の強豪である。日本チェス協会の国内称号である段位は六段となっている。
- 2006年11月14日に八王子市より八王子観光大使を委嘱される。
- お笑い芸人Bコースのメンバー、ハブは彼の従兄弟にあたる。
- 子供の頃公文式をしていたため、CMに起用されていたこともある。また、その頃から七冠王になるまでを書いた本(羽生善治ストーリー、マンガ形式)もある。
- テレビ番組「進め!電波少年」内のコーナーで、松村邦洋と、19枚落ち(羽生の駒は玉将のみ)で対戦するが、松村が将棋のルールを全く知らなかったこともあってか、勝利を収めている。
[編集] 昇段履歴
- 1982年12月2日 - 6級で奨励会入会
- 1983年2月3日 - 5級 (9勝3敗)
- 1983年3月28日 - 4級 (6連勝)
- 1983年5月11日 - 3級 (6連勝)
- 1983年7月7日 - 2級 (6連勝)
- 1983年8月24日 - 1級 (6連勝)
- 1984年1月11日 - 初段 (12勝4敗)
- 1984年9月10日 - 二段 (14勝5敗)
- 1985年4月25日 - 三段 (12勝4敗)
- 1985年12月18日 - 四段 (13勝4敗)[35] = プロ入り
- 1988年4月1日 - 五段 (順位戦C級1組昇級)
- 1989年10月1日 - 六段 (竜王挑戦)
- 1990年10月1日 - 七段 (竜王位獲得)
- 1993年4月1日 - 八段 (順位戦A級昇級)
- 1994年4月1日 - 九段 (タイトル3期・・・八段昇段前にタイトル3期は達成していたが、1年以内の飛び昇段ができない規定のため)
[編集] 主な成績
[編集] 在籍クラス
[編集] 獲得タイトル
(2008年6月現在)
- 竜王 6期(第2期・5期・7期・8期・14期・15期) - 最多在位記録、永世竜王まで、あと1期
- 名人 5期(第52期 - 54期・61期・66期) - 永世名人(十九世名人、引退後襲位)
- 棋聖 6期(第62期 - 66期・71期) - 永世棋聖
- 王位 12期(第34期 - 42期・45期 - 47期) - 最多在位タイ記録、永世王位
- 王座 16期(第40期 - 55期) - 最多在位記録、最多連覇記録、名誉王座
- 王将 11期(第45期 - 50期・52期・54期 - 57期) 永世王将
- 棋王 13期(第16期 - 27期・30期) - 最多在位記録、永世棋王(初代)
- 獲得合計69(歴代2位)
[編集] 一般棋戦の優勝歴
- 若獅子戦 2回(第10回・12回)
- 天王戦 2回(第3回・4回)
- 新人王戦 1回(第19回)
- NHK杯 6回(第38回・41回・45回・47回・48回・50回)
- JT将棋日本シリーズ 3回(第12回・20回・24回)
- 早指し将棋選手権 3回(第26回・29回・36回)
- 銀河戦 4回(第8期・9期・12期・14期)(※非公式戦時代の5期・6期にも優勝)
- 全日本プロトーナメント 3回(第8回・10回・12回)
- 朝日オープン将棋選手権 4期(第22回~25回)
- オールスター勝ち抜き戦(5連勝以上) 4回(第11回(6連勝)・13回(5)・20回(16)・22回(7))
- 合計32回(歴代2位)
[編集] 将棋大賞
- 第14回(1986年度) - 勝率一位賞・新人賞
- 第15回(1987年度) - 勝率一位賞・最多勝利賞・敢闘賞
- 第16回(1988年度) - 最優秀棋士賞・勝率一位賞・最多勝利賞・最多対局賞・連勝賞
- 第17回(1989年度) - 最優秀棋士賞・勝率一位賞・最多勝利賞・最多対局賞・連勝賞
- 第19回(1991年度) - 敢闘賞
- 第20回(1992年度) - 最優秀棋士賞・勝率一位賞・最多勝利賞・最多対局賞・連勝賞
- 第21回(1993年度) - 最優秀棋士賞
- 第22回(1994年度) - 最優秀棋士賞・最多勝利賞
- 第23回(1995年度) - 最優秀棋士賞・特別賞(七冠独占による)・勝率一位賞・最多勝利賞
- 第24回(1996年度) - 最優秀棋士賞
- 第26回(1998年度) - 最優秀棋士賞・最多対局賞
- 第27回(1999年度) - 最優秀棋士賞
- 第28回(2000年度) - 最優秀棋士賞・勝率一位賞・最多勝利賞・最多対局賞・連勝賞
- 第29回(2001年度) - 最優秀棋士賞
- 第30回(2002年度) - 最優秀棋士賞・最多勝利賞・最多対局賞
- 第32回(2004年度) - 最優秀棋士賞・最多勝利賞・最多対局賞
- 第33回(2005年度) - 最優秀棋士賞・最多対局賞・連勝賞
- 第34回(2006年度) - 優秀棋士賞・名局賞(第64期A級順位戦プレーオフ 対谷川浩司九段戦)
- 第35回(2007年度) - 最優秀棋士賞・最多勝利賞・最多対局賞・名局賞(第48期王位戦七番勝負第7局 対深浦康市八段戦)
[編集] 記録(歴代1位のもの)
- タイトル関連
- 将棋大賞関連
- 最年少最優秀棋士賞 - 18才(1988年)
- 最多最優秀棋士賞(15回)
- 年度記録4部門賞独占(1988、1989、1992、2000年度) - 羽生以外の棋士は一度も達成していない
- 年度最多対局 - 89局(2000年度)
- 年度最多勝利 - 68勝(2000年度)
- 高記録達成回数
- 年度勝数60勝以上 - 4回[36](1988年(64)、1992年(61)、2000年(68)、2004年(60))
- 年度勝率8割以上 - 3回(1987年(.820)、1988年(.800)、1995年(.836))
- 通算勝数関連
- 1000勝所要年月最速 - 22年0ヶ月
- 最年少1000勝 - 37歳2ヶ月23日
- 1000勝時最高勝率 - .7283
- 珍記録
- 最年少竜王戦1組降級 - 20才11ヶ月23日(1991年9月20日)
- タイトルホルダーでの最年少竜王戦1組降級(当時棋王) - 20才11ヶ月23日(1991年9月20日)
[編集] その他表彰
- 1994年2月 - 都民文化栄誉賞
- 1996年3月 - 内閣総理大臣顕彰
- 1999年2月10日 - 将棋栄誉賞(公式戦通算600勝達成)
- 2003年2月23日 - 将棋栄誉敢闘賞(公式戦通算800勝達成)
- 2007年12月20日 - 特別将棋栄誉賞(公式戦通算1000勝達成 = 史上8人目)
[編集] 著書
- 「羽生の頭脳」シリーズ(全10巻、日本将棋連盟、ISBN 978-4819703109ほか)
- 「羽生の法則」シリーズ(1~6巻、日本将棋連盟、ISBN 978-4819703727ほか)
- 『決断力』角川書店〈角川oneテーマ21〉、2005年7月。ISBN 978-4047100084。
- 『先を読む頭脳』(松原仁・伊藤毅志と共著)新潮社、2006年8月。ISBN 978-4103016717。
その他多数。
[編集] 関連書
- 四人の名人を破った少年 飛矢正順 評伝社, 1990.2
- 竜王、羽生善治。 将棋世界臨時増刊 1990.2
- 羽生善治妙技伝 森鶏二 木本書店, 1993.4
- 羽生善治 天才棋士、その魅力と強さの秘密 大矢順正 勁文社, 1994.2
- まんが羽生善治物語 高橋美幸原作 まきのまさる画 くもん出版, 1995.6
- 羽生善治神様が愛した青年 田中寅彦 ベストセラーズ, 1996.3
- 七冠王、羽生善治。 将棋世界臨時増刊 1996.3
- 七冠王羽生善治α波頭脳の秘密 マガジンハウス編 マガジンハウス, 1996.4
- しなやかな天才たち「イチロー」「武豊」「羽生善治」万代勉ほか アリアドネ企画, 1996.7
- 羽生善治名人位防衛戦の舞台裏 日浦市郎 エール出版社, 1996.12
- 羽生善治頭の鍛え方 大矢順正 三笠書房, 1996.7
- 強すぎる天才・羽生善治の謎 七冠研究記者会 本の森出版センター, 1996.4
- 羽生善治に学ぶ子どものための「超」集中記憶術 大内延介 講談社, 1997.5
- 羽生 21世紀の将棋 保坂和志 朝日出版社 1997.5
- 天才羽生善治神話 小室明 三一書房, 1997.10
- 羽生善治夢と、自信と。椎名龍一 学習研究社, 2006.11
[編集] 出演
[編集] テレビ番組
- NHK『プロフェッショナル 仕事の流儀』「直感は経験で磨く」(2006年7月13日放送)
- スカパー! ヒストリーチャンネル『20世紀のファイルから』「棋士列伝」
- 日本テレビ『世界一受けたい授業』講師(2007年3月3日放送)
ほか多数
[編集] CM
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
[編集] 脚注
- ^ NHK『クイズ日本人の質問』インタビュー
- ^ 田中寅彦 『羽生善治 神様が愛した青年』ベストセラーズ、1996年。ISBN 978-4584191286。
- ^ 「佐藤康光&森内俊之のなんでもアタック」『将棋マガジン』1996年6月号。
- ^ 当時は、まだ、三段リーグの制度がなかった。
- ^ 島朗による命名。
- ^ 1989年度は先手番勝率が.9355(29勝2敗)。玲瓏:羽生善治(棋士)データベースの年度別成績を参照。
- ^ ただし、最年少タイトル獲得記録は、わずか1年足らずで18歳6ヶ月の屋敷伸之によって塗り替えられた。
- ^ ここから羽生の長い王座戦連覇が始まり、後に大山が持つ同一タイトル連覇記録(名人戦13連覇)を塗り替えることとなる。ちなみに、福崎は「(羽生さんが今年も王座を防衛したので、私は)今年も“前王座”を防衛しました」というジョークを言うことがある。
- ^ 千日手局は前局と全く同じ手順で進み、41手目で初めて先手の谷川が手を変えた。「お互いの意思がピッタリ合った」(日本将棋連盟書籍編『谷川vs羽生100番勝負-最高峰の激闘譜!』日本将棋連盟、2000年。ISBN 978-4819702102より)
- ^ 谷川は、第1局と第2局の間に阪神淡路大震災で被災していた。谷川は後に「(逆に)もしも震災がなかったら、このとき敗れていたのかもしれない」という旨を語っている(『別冊宝島380 将棋王手飛車読本-将棋の神に選ばれし者たちの叫びを聞け』宝島社〈別冊宝島〉、1998年。ISBN 978-4796693806より)。
- ^ 46勝9敗のうち、タイトル戦だけでは25勝5敗(.8333)。この年度の最終戦となった屋敷戦に勝っていれば、中原の持つ最高勝率(.8545 47-8)に並ぶことができた。
- ^ 羽生の全冠独占後に雑誌『将棋マガジン』(日本将棋連盟発行)の中で「羽生から最初にタイトルを奪取するのは誰?」というアンケートが行われ、大抵の人が谷川や佐藤康光と答えた中、三浦と答えたのは僅か4人であった。
- ^ この第5局は、先手の三浦が当時としては珍しい相掛かり2八飛引き戦法を採用。この先手引き飛車は、その後、プロ間で流行するようになる。
- ^ この名人戦で、谷川は名人位獲得通算5期となり、十七世名人資格を得た。
- ^ 竜王戦は0-4のストレート敗退。羽生がタイトル戦でストレート負けを喫したのは初めてであった。
- ^ この王将戦七番勝負で佐藤康光の挑戦を受け3連勝しながら3連敗し、あわや将棋のタイトル戦史上初の3連勝後の4連敗を喫するところだったが、第7局を制し大逆転は実現させなかった。なお、3連勝後の3連敗で最終局を迎えるのは1978年の十段戦で中原誠十段(当時)が米長邦雄八段(当時)の挑戦を受けて防衛したとき以来2度目。(囲碁のタイトル戦では、3連敗4連勝は何度か発生している。)
- ^ 数字の上では大山の記録を抜いたものの、羽生自身は14連覇時の就位式(2005年)で「大山先生にはとてもかなわないが、数字の上だけでも一つ追いつくことができた」と述べており、偉大な先輩に敬意を表している。
- ^ 鈴木大介・勝又清和「進化する羽生将棋」『将棋世界』2008年3月号、日本将棋連盟、63-65頁
- ^ 羽生善治『決断力』角川書店〈角川oneテーマ21〉、2005年、5-6頁。
- ^ NIKKEI NET 将棋王国 コラムの森(1995年9月26日の日本経済新聞夕刊からの引用) 日本経済新聞社
- ^ 解説役で出演していた内藤國雄は、▲2四歩と指しても先手が僅かに悪いとされているだけであり、羽生ならば何かやってくるかもしれないと相手に思わせる雰囲気を持っている、という趣旨の解説をしていた。
- ^ 『将棋世界』2006年8月号、日本将棋連盟。
- ^ 『将棋世界』2007年1月号、日本将棋連盟。また、対局相手の渡辺も、テレビ番組で証言している。
- ^ たとえば、『プロフェッショナル 仕事の流儀』(NHK総合、2006年7月13日放送)で紹介された藤井猛との朝日オープンでの対局や、『囲碁・将棋ジャーナル』(NHK BS2、2008年5月17日放送)で紹介された2008年の森内との名人戦第3局(大逆転の一局、後述)でも見られ、さらに、同第4局の▲6二角成を指す際に6二の金を取るときには、隣の駒を乱してしまうほど激しく震えた。
- ^ 加藤は「あれー?!」「おかしいですねー。」「トン死じゃないですかー?」などの驚嘆の声を連発していた。
- ^ 対局場の宿(ホテル)に駆けつけた棋士達が集う部屋のこと
- ^ 羽生が打った飛車を森内が3枚の銀で捕獲したと思われた直後、羽生が桂馬を動かした手が王手銀取り(飛車の空き王手)となり、森内が今打ったばかりの銀が桂馬で取られてしまった。そして、森内の金・銀がぼろぼろと取られていき、その金・銀で森内の玉が寄せられる形となった。
- ^ 2度クリックをしないと指し手が確定されない設定(操作ミスによる指し間違いを防ぐ設定)を対局途中から解除するつもりだったが、解除するのをうっかり忘れたままであったという。時間がぎりぎりになり、着手確認の際誤った操作をしてしまい、着手が間に合わなかったという。直後の公開された感想戦および後日の公式ウェブサイト(第2回大和証券杯ネット将棋・最強戦 渡辺明竜王対羽生善治二冠戦の時間切れ負けについての追加2(5/16) 日本将棋連盟、2008年5月16日)上での発表による。
- ^ 3ヶ月前に中井広恵もネット対局で時間切れ負けをしている。
- ^ 直後の公開された感想戦での渡辺・羽生両者の見解
- ^ 翌日、日本将棋連盟の公式ウェブサイト(同上。第2回大和証券杯ネット将棋・最強戦 渡辺明竜王対羽生善治二冠戦の時間切れ負けについての追加2(5/16) 日本将棋連盟、2008年5月16日)で、対局者への注意徹底を行うこと、そして、万一同様の事態が起こった場合に指し継ぎの感想戦を行えるようなシステム(ソフトウェア)に変えることにより、ファンサービスを向上する旨が発表された。
- ^ この反則負けの3日前~2日前には名人戦で森内に勝利して2勝1敗とし、2日後は棋聖戦の挑戦者決定戦を控えている、という過密スケジュールであった。
- ^ 『別冊宝島380 将棋王手飛車読本-将棋の神に選ばれし者たちの叫びを聞け』宝島社〈別冊宝島〉、1998年。ISBN 978-4796693806 の巻末に記載。
- ^ 日本テレビのテレビ番組『進め!電波少年』で、松村邦洋が「羽生7冠王の寝癖を直したい!」という企画をかかげて、式場へアポなし突入をされた。
- ^ 当時は、まだ、三段リーグの制度がなかった。
- ^ 羽生以外には、森内俊之(1991年63勝)、木村一基(2001年61勝)が各1回達成しているのみ。
|
|
|
竜王:渡辺明 |
---|
第21期竜王戦1組(2007年秋~2008年秋) |
羽生善治| 佐藤康光| 深浦康市| 中原誠| 谷川浩司| 森内俊之| 丸山忠久| 郷田真隆| 富岡英作| 阿部隆| 三浦弘行| 鈴木大介| 木村一基| 杉本昌隆| 松尾歩| 橋本崇載 |
名人戦(名人:羽生善治) |
---|
A級順位戦 |
森内俊之 | 三浦弘行 | 郷田真隆 | 丸山忠久 | 木村一基 | 藤井猛 | 谷川浩司 | 佐藤康光 | 鈴木大介 | 深浦康市 |