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畠山重忠 - Wikipedia

畠山重忠

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

畠山重忠 凡例
畠山重忠像
時代 平安時代末期 - 鎌倉時代初期
生誕 長寛2年(1164年
死没 元久2年6月22日1205年7月10日
改名 氏王丸(幼名)、重忠
別名 庄司次郎
戒名 實山宗眞大居士
墓所 畠山重忠公史跡公園(埼玉県深谷市畠山)、
重忠首塚(神奈川県横浜市旭区)ほか
氏族 秩父畠山氏
父母 畠山重能三浦義明の娘
兄弟 重忠、重清(長野)、重宗(渋江)
足立遠元の娘、北条時政の娘(政子の妹)
重秀、重保、重政、重慶(阿闍梨)、円耀、女子

畠山 重忠(はたけやま しげただ)は、平安時代末期、鎌倉時代初期の武将。鎌倉幕府御家人

源頼朝の挙兵に際して当初は敵対するが、後に臣従して治承・寿永の乱で活躍。知勇兼備の武将として常に先陣を務め、幕府創業の功臣として重きをなした。頼朝の没後に実権を握った初代執権北条時政の謀略によって謀反の疑いをかけられ、一族とともに滅ぼされた。

存命中から武勇の誉れ高く、その清廉潔白な人柄で「坂東武士の鑑」と称された。

目次

[編集] 生涯

[編集] 頼朝への臣従

畠山氏坂東八平氏のひとつの秩父氏の一族で、武蔵国男衾郡畠山郷(現・埼玉県深谷市畠山)を領し、同族には江戸氏河越氏豊島氏などがある。多くの東国武士と同様に畠山氏も源氏の家人となっていた。父の重能は源義平に従って源義賢を討ち、その遺児の駒王丸(源義仲)の命を救っている。平治の乱源義朝が敗死すると平家に従った。

治承4年(1180年)8月17日に義朝の三男の頼朝以仁王令旨を奉じて挙兵。この時、父の重能が大番役に上っていたため17歳の重忠が一族を率いることになり、平家方として頼朝討伐に向かった。23日に頼朝は石橋山の戦い大庭景親に大敗を喫して潰走。相模国まで来ていた畠山勢は鎌倉由比ヶ浜で頼朝と合流できずに引き返してきた三浦勢と遭遇。合戦となり、双方に死者を出して兵を引いた。26日、河越重頼、江戸重長の軍勢と合流した重忠は三浦氏の本拠の衣笠城を攻め、三浦一族は城を捨てて逃亡。重忠は一人城に残った老齢の当主三浦義明を討ち取った。

9月、頼朝は安房国で再挙し、千葉常胤上総広常らを加えて2万騎以上の大軍に膨れ上がって房総半島を進軍し、武蔵国に入った。10月、重忠は河越重頼、江戸重長とともに長井渡しで頼朝に帰伏した。『源平盛衰記』によると重忠は先祖が八幡太郎義家(源義家)より賜った白旗を持って帰参し、頼朝を喜ばせたという。重忠は先陣を命じられて相模国へ進軍、頼朝の大軍は抵抗を受けることなく鎌倉に入った。

重忠は御家人に列し、頼朝の大倉館への移転や鶴岡八幡宮の参詣の警護などの『吾妻鏡』の記事に重忠の名が見える。また、養和元年(1181年)7月の鶴岡八幡宮社殿改築の上棟式で工匠に馬を賜る際に源義経とともに馬を曳いている。この頃に重忠は頼朝の舅の北条時政の娘を妻に娶っている。

[編集] 治承・寿永の乱での活躍

寿永2年(1183年)、平家を追い払って京を支配していた源義仲と頼朝が対立し、頼朝は弟の範頼と義経に6万騎を与えて近江国へ進出させた。翌寿永3年(1184年)正月、鎌倉軍と義仲軍が宇治川勢多で衝突。『平家物語』『源平盛衰記』には、義経の搦手軍に属していた重忠が丹党500騎を率い、馬筏を組んで真先に宇治川を押し渡ったが、馬を射られて徒歩になってしまい、同じく馬を流された大串重親がつかまってきたため大力の重忠は重親を掴まえて対岸に放り投げ、重親は徒歩立ちの一番乗りの名乗りを上げたという話がある。

『平家物語』によると、義仲軍を撃破した義経は京に入り、後白河法皇の御所へ駆けつけ、重忠は義経らとともに後白河法皇に御簾越しに拝謁して名乗りを上げている。『源平盛衰記』では重忠は三条河原で義仲の愛妾の女武者巴御前と一騎討ちを演じ、怪力で巴の鎧の袖を引きちぎり、巴は敵わじと逃げ出している。この宇治川の戦いで範頼、義経の鎌倉軍は勝利し、義仲は滅びた。

2月、範頼、義経は摂津国福原兵庫県神戸市)まで復帰していた平家を討つべく京を発向。重忠は範頼の大手軍に属している。『平家物語』では義経の搦手軍に属し、これを基に話を膨らませた『源平盛衰記』では鵯越の逆落としで大力の重忠は馬を損ねてはならずと馬を背負って坂を駆け下っている。一ノ谷の戦いで鎌倉軍は大勝して、平家は讃岐国屋島へと逃れている。

その後、頼朝は範頼に大軍を率いさせて中国九州へ遠征させているが、『吾妻鏡』では重忠の名はこの軍中にはない。『源平盛衰記』では義経の軍に属して屋島の戦いで戦っているが軍記物語なので信頼性は低い。

元暦2年(1185年)3月、義経は壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼした。

[編集] 幕府創業の功臣

その後、頼朝と義経は対立し、義経は京で挙兵するが失敗して逃亡。義経の舅の河越重頼は連座して殺され、重頼の持っていた武蔵留守所惣検校職を重忠が継承した。

文治2年(1186年)、義経の愛妾の静御前が頼朝の命で鶴岡八幡宮で白拍子の舞を披露したとき、重忠は銅拍子を打って伴奏を務めている。

文治3年(1187年)、伊勢国沼田御厨で重忠の代官が狼藉をはたらいたため、重忠の身柄は千葉胤正に囚人として預けられた。これを恥じた重忠は絶食してしまう。頼朝は重忠の武勇を惜しみ赦免するが、重忠が一族とともに武蔵国の菅谷館へ戻ると侍所所司の梶原景時がこれを怪しみ謀反の疑いありと讒言した。猜疑心の強い頼朝は重臣を集めて重忠を討つべきか諮る。小山朝政が重忠を弁護し、とりあえず、下河辺行平が使者として派遣されることになった。行平から事情を聞いた重忠は悲憤して自害しようとするが、行平がこれを押しとどめて鎌倉で申し開きするよう説得した。

梶原景時が取調にあたり、起請文を差し出すように求めるが、重忠は「自分には二心がなく、言葉と心が違わないから起請文を出す必要はない」と言い張った。これを景時が頼朝に取り次ぐと、頼朝は何も言わずに重忠と行平を召して褒美を与えて帰した。

文治5年(1189年)の奥州藤原氏討伐では先陣を賜った。阿津賀志山の戦いで、三浦義村葛西清重らが陣を抜け出して抜け駆けをしようとした。これを知った重忠の郎党が注進するが、「先陣を賜っている以上は功績はすべて自分のものである。先登をせんと張り切っている者たちを止めるのは武略の本意ではあるまい」と悠然としてた。この戦いで重忠は勝利し、藤原泰衡平泉を焼いて逃亡し、奥州藤原氏は滅びた。

戦後処理で梶原景時が泰衡の郎党の由利八郎を取り調べたが、景時が傲慢不遜な態度であったために八郎は頑としてこれに応じなかった。頼朝は重忠に取り調べに当たるよう命じ、重忠は礼を尽くして接し、これに感じ入った八郎は取り調べに素直に応じ「先ほどの男(梶原景時)とは雲泥の違いである」と言った。

奥州合戦の功により、陸奥国葛岡郡地頭職に任ぜられた。葛岡郡は狭小の地だが、重忠は異を唱えなかった。と『吾妻鏡』にあるが、陸奥国に葛岡なる郡はない。玉造郡の葛岡なる地名にあてたり、長岡郡の誤りとしたりする説があるが、不明である。

頼朝の二度の上洛には、重忠はいずれも先陣を務めている。

正治元年(1199年)正月、頼朝は死に際し、嫡男頼家の後見を重忠に任せた。

同年10月、結城朝光が「忠臣は二君に仕えず」と発言したのを梶原景時が頼家を誹謗したと讒言。これを知った三浦義村、和田義盛らが怒り、諸将66名による景時弾劾の連判状がつくられ、重忠もこれに名を連ねている。景時は鎌倉を追放され、翌正治2年(1200年)に追討を受けて滅びた。

建仁3年(1203年)の比企能員の変では重忠は北条氏に味方して比企氏一族を滅ぼしている。頼家は幽閉され、後に謀殺された。後継将軍には弟の実朝が就き、執権の北条時政が実権を握った。

[編集] 滅亡

元久元年(1204年)11月、重忠の息子の重保が北条時政の後妻牧の方の娘婿である平賀朝雅と酒席で争った。この場は収まったが、牧の方はこれを恨みに思い、時政に重忠を討つよう求めた。翌元久2年(1205年)6月、時政は息子の義時時房と諮り、『吾妻鏡』によると二人は「忠実で正直な重忠が謀反を起こす訳がない」と、これに反対するが、牧の方から問い詰められついに同意したという。

なお、『吾妻鏡』におけるこの下りは、その後北条政子と北条義時が父時政を追放したという「背徳」を正当化する伏線となっている。1898年(明治31)に原勝郎は、『吾妻鏡の性質及其史料としての價値』において「若同年閏七月の事變に際する二人の態度を考へば、始めに處女にして終りに脱兎たる者か、怪むべきの至なり。換言すればかゝる矛盾を來す所以は吾妻鏡の編者が強て義時を回護せんと欲するの念よりしてかゝる曲筆を弄するに至りしに外ならざるべし」と書いており、以降の『吾妻鏡』研究では曲筆の代表例とされる。

稲毛重成(時政の娘婿)が御所に上がり、重忠謀反を訴え、実朝は重忠討伐を命じた。

6月22日、鎌倉にいた重保は謀略をもって殺された。この時、重忠は「鎌倉に異変あり、至急参上されたし」との虚偽の命を受けて130騎ほどを率いて菅谷館を出て鎌倉に向かう途上にあった。武蔵国二俣川(二俣川の戦い、鶴ヶ峰の戦い)(現・神奈川県横浜市旭区)で義時を大将軍とする数万騎が自分に差し向けられたことを知った重忠は覚悟を決め、僅かな兵で踏みとどまって義時の大軍を相手に奮戦。愛甲季隆に射られて討ち死にした。享年42。

義時が鎌倉に帰還し、待っていた時政に「重忠は僅かな兵しか率いておらず、謀反なぞできようもない。これは讒訴であり、気の毒な事をした」と報告した。時政は言葉もなく退出した。

三浦義村が鎌倉にいた重忠の義弟の榛谷重朝父子を討ち、更に重忠謀反を訴えた稲毛重成も殺してしまった。

人望のあった重忠を殺したことで、時政と牧の方は御家人たちから憎しみを受けることになり、同年閏7月に牧氏事件が起こり、時政と牧の方は失脚して伊豆国へ追放され、平賀朝雅は殺された。

重忠旧領と畠山の名跡は足利義兼の庶長子足利義純が重忠の未亡人(北条時政女)と婚姻し、継承した。平姓畠山氏に代わって源姓畠山氏が続くことになる。

埼玉県比企郡嵐山町には、重忠の居館だった菅谷館の跡とされるものがあり、空堀などの遺構が残されている。ただし現在残っているのは戦国時代後北条氏のものであると言われている。

[編集] 参考文献

  • 貫達人『畠山重忠 新装版』 吉川弘文館 1987年、ISBN 4642050728
  • 上杉和彦『戦争の日本史 6 源平の争乱』吉川弘文館 2007年、ISBN 4642063161
  • 笹間良彦『鎌倉合戦物語』雄山閣出版、2001年、ISBN 4639017146

[編集] 外部リンク

[編集] 関連項目

先代:
畠山重能
畠山氏当主
次代:
畠山義純(源姓)
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