奥州合戦
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奥州合戦(おうしゅうかっせん)は、文治5年(1189年)7月~9月にかけて、鎌倉政権と奥州藤原氏との間で東北地方にて行われた一連の戦いの総称である。この戦役により、頼朝による武士政権が確立した。また治承4年(1180年)に始まる内乱時代(治承・寿永の乱)の最後にあたる戦争でもある。同時代には「奥州合戦」と呼ばれたが、吾妻鏡文治5年6月6日条などの記述を踏襲して奥州征伐と呼ばれる事もある。
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[編集] 経緯
[編集] 合戦の背景
奥州藤原氏は、初代清衡以来三代100年に渡って陸奥・出羽両国に君臨し、三代秀衡の時代には陸奥守、鎮守府将軍の官職を得て、名実ともに奥州を支配する存在となっていた。
平氏討滅後の頼朝にとって、関東武士による独自政権を安定させるためには、奥州藤原氏の政権を早期に吸収合併する必要があった。頼朝は、それまで藤原氏が直接行っていた京都朝廷への貢馬・献金を、鎌倉経由で行うよう要求し、秀衡もそれに従った。
文治3年(1187年)、鎌倉の承認なしに官職を得たため失脚していた源義経が奥州藤原氏の本拠地・平泉に潜伏していることを知った頼朝は、義経の引き渡しを要求。これを拒んだ秀衡は、子息の泰衡・国衡・忠衡の三人へ、義経を擁護し、鎌倉と対決するよう遺言して、その年の10月に没した。
[編集] 義経の死
文治4年(1188年)、頼朝は、義経追討の院宣を二回に渡って獲得し、奥州政権へ圧力をかけるが、泰衡は遺命に従いこれを拒否。業を煮やした頼朝は、今度は泰衡追討の宣旨を朝廷に奏上した。
すると泰衡は、文治5年(1189年)4月30日、平泉高館の義経を襲撃し、義経主従を全員殺害した。同時に泰衡と反目する忠衡も討たれた。泰衡は、義経の首を酒浸けにして鎌倉へ送達したが、頼朝は許可なく義経を討伐したことを口実として奥州征伐を奏上した。これに対し後白河法皇は院宣の発給を拒否する。これに対し、大庭景義は奥州藤原氏は源氏の家人であるので、家人の誅罰に勅許は不要なこと、戦陣では現地の将軍の命令が絶対であるのだから朝廷の意向は無視しても良いと主張する。頼朝はこれを容れて全国に動員令を発し、同年7月18日公称28万の大軍を率いて出陣した。鎌倉進発時に率いた主な御家人は、源義信、源義定、源範頼、源広綱、足利義兼、北条時政、北条義時、新田義兼、小山朝政、小山朝光、三浦義澄、和田義盛、安達盛長、土肥実平、岡崎義実、梶原景時、梶原景季、宇都宮朝綱、宇都宮成綱、八田知家、八田知重、葛西清重、江戸重長、佐々木盛綱、佐々木義清らである。
[編集] 奥州藤原氏の滅亡
畠山重忠を先陣とした頼朝の大手軍は白河方面へ[1]、比企能員・宇佐美実政が率いる上野・下野の武士団を中心とした軍勢は越後国府まで北上し、日本海沿いを出羽国府方面へ、千葉常胤・八田知家が率いる常総の武士団を中心とした軍勢は常陸方面へそれぞれ進軍した。
奥州側は国衡が2万の兵を率いて、阿津賀志山の全面に二重の堀を設け迎撃体制をとり、泰衡自身は多賀城の国府にて全軍の総覧に当たった。8月7日から同月10日にかけての阿津賀志山の戦いの詳細は次の通りである。8月7日、陸奥国伊達郡国見へ至り、藤原国衡と対峙する。国衡は阿津賀志山に城壁を築き、阿武隈川の水を引き入れた堀を設け、二万の兵を率いていた。夜に入り頼朝は明朝の攻撃を命じ、まず予め用意していた鋤鍬で掘を埋めさせる。8日、畠山重忠、小山朝光、加藤景廉、工藤行光らに、阿津賀志山の前に陣する数千騎を攻めさせ破る。9日夜には明朝の阿津賀志山越えを命じ、先陣は国衡が拠る大木戸へと至る。10日、本軍が大木戸を攻め、搦手の山に登った朝光、紀権守、芳賀次郎大夫らの奇襲により国衡らを破り、逃げる国衡を和田義盛が討った。国衡の奥州軍は大敗し、泰衡は平泉方面へ退却した。その後、頼朝軍は北上し同月13日に船迫宿から多賀城に到着し、常陸方面から来た部隊と合流した。この間、比企・宇佐見の両将に率いられた部隊は出羽を制圧していた。
翌日の14日、玉造郡に泰衡在りとの報を受けると小山朝政、朝光らを向かわせ、泰衡の陣を囲むが泰衡は既に逃亡しており、朝政らは陣に残った残党を討つ。頼朝の先陣は続いて多加波々城を囲むが、泰衡はまたも逃亡しており、城に残った敵兵は手を束ねて投降した。20日、頼朝は先陣に「平泉に入るに於いては、僅か一二千騎を率い馳せ向かうべからず。二万騎の軍兵を相調え競い至るべし。すでに敗績の敵なり。侍一人といえども無害の様、用意を致すべし」と命ずる。21日、平泉へ向かうと、泰衡の郎従は栗原に要害を築き防がんとするが、頼朝らはこれも破った。平泉に入るべく津久毛橋に至ると、梶原景高は「陸奥のせいはみかたにつくも橋、わたしてかけん泰衡が首」と歌を詠み、頼朝を喜ばせた。
同月22日には平泉に入ったが、平泉は既に火が放たれて放棄された後だった。同月26日には頼朝に赦免を求める泰衡の書状が届いたが、頼朝はこれを無視して軍を進めた。泰衡は出羽方面へ逃亡し、現在で言うところの北海道への渡航も企てたが、9月3日、比内郡贄柵にて郎従の河田次郎に殺害され、その首級は同月6日に頼朝へ届けられた。7日、泰衡の郎従である由利八郎が捕らえられる。その勇敢な態度から頼朝は八郎と会い、「泰衡は奥州に威勢を振るっており、刑を加えるのは難儀に思っていたが、尋常の郎従が無き故に、河田次郎一人に誅された。両国を治め十七万騎を率いながら、二十日程で一族皆滅びた。言うに足らざる事なり」と訊ねた。八郎は「故左馬頭殿は、海道十五箇国を治められたが、平治の乱で一日も支えられず零落し、数万騎の主であったが、長田忠致に誅せられ給った。今と昔で違いは如何か。泰衡は僅か両国の勇士を率い、数十日も頼朝殿を悩ませた。愚かと思い給うべからず」と答えた。頼朝は答えを返さず対面を終えると、畠山重忠に由利八郎を預け、芳情の施しを命じた。同月9日、泰衡追討の院宣が頼朝の下へ届いた。
同月12日、頼朝は厨川に到達して、泰衡の首級を晒し、祖先の源頼義が安倍氏へ下した処分の故事を再現した。同月22日、頼朝は平泉へ戻り、戦後の奥州支配体制を固めるため、葛西清重を奥州総奉行に任命するとともに、奥州全域を鎌倉の直轄地とした。しかしその直後、泰衡の家臣であった大河兼任が主君の仇と称して鎌倉軍に対して挙兵(大河兼任の乱)。が、ほどなく鎮圧されてようやく奥州に平穏が恢復した。これにより、約10年にわたる治承・寿永の内乱が終息し、武家政権の確立につながる準備がほぼ整った。
[編集] 意義
この合戦で源頼朝は全国的な動員(南九州の薩摩・かつて平氏の基盤であった伊勢や安芸など)、かつて平氏・源義仲・源義経に従っていた者たち[2] の動員をも行っている。しかしその動員対象は「武器に足るの輩」(文治五年二月九日・源頼朝下文)に限定されていた。さらに不参の御家人に対しては所領没収の厳しい処罰を行ったこと、頼朝が挙兵以来となる自らの出馬を行ったことと併せて考えると、頼朝が自身に従う「御家人」の確立という政治的意図を持っており、奥州合戦はそのための契機となったともいえる。[3]
[編集] 注
- ^ 他に平賀義信、安田義定、和田義盛、三浦義澄、梶原景時ら
- ^ 例えばかつて北陸で最大勢力を誇った平家方の城長茂、1180年の富士川の戦いの直後に取って帰した頼朝軍に敗れた佐竹秀義、源義経の逃亡を見逃したと鎌倉に召され梶原景時に預けられていた摂津渡辺党の源番(みなもとのつがう)など
- ^ 川合康著『源平合戦の虚像を剥ぐ』(講談社 1996年)でもそのような論を詳細に展開している。
[編集] 参考文献
- 関幸彦『東北の争乱と奥州合戦』吉川弘文館、2006年