城助職
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城 助職(じょう すけもと、仁平2年(1152年) - 建仁元年2月22日(1201年3月28日))は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての武将。本姓は平氏。白川御館(しらかわみたち)と称された。城資国の子で、兄弟姉妹に城資永、坂額御前らがある。後に城 長茂(じょう ながもち)と改めている。越後守。
[編集] 略歴
養和元年(1181年)、兄の資永が急死したため、その後を継ぎ越後守となった。平氏政権から信濃国において挙兵した源義仲ら信濃源氏の追討を命じられたため、治承五年(1181年)6月に名を長茂と改めた上で信濃に出兵した。しかし武勇で知られた兄と違って才覚に乏しかったため、1万の大軍を率いていながら3000ほどの義仲軍の前に大敗した。(横田河原の戦い) その後、越後での勢力を失い奥州会津へ入るがそこでも奥州藤原氏の攻撃を受けて会津をも追われ、越後の一角に住する小勢力へと転落を余儀なくされた。(『玉葉』)
その後の経歴はほとんどわかっていないが、元暦2年(1185年)に平氏が滅亡して源頼朝が覇権を握ると、長茂は囚人として扱われ、梶原景時にその身柄を預けられていたと言われている。文治5年(1189年)の頼朝の奥州藤原氏討伐のとき、景時の仲介により従軍することを許され、武功を挙げた。しかしかつて平氏政権と縁が深かったことから、その存在を危険視されて功を挙げても重用されることは無かった。
頼朝の死後、庇護者であった景時が他の御家人衆から弾劾されて追放されると、長茂も景時の与党として鎌倉から追放され、京都に赴いた。そして正治3年(1201年)、軍を率いて鎌倉方御家人である小山朝政の三条東洞院にある屋敷を襲撃した上で、後鳥羽上皇に対して源頼家討伐の宣旨を下すように要求したが、宣旨は得られなかった。そして小山朝政ら幕府軍の追討を受け、最期は大和吉野にて殺された。