平賀朝雅
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平賀 朝雅(ひらが ともまさ、生年未詳 - 元久2年8月2日(1205年9月16日))は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての武将。父は信濃国佐久郡平賀郷を本貫地とする新羅三郎義光の孫の平賀義信。母は源頼朝の乳母比企尼の三女。兄弟に大内惟義。官位は武蔵守。右衛門佐。
[編集] 生涯
任命時期は不明ながら父義信(1184~1195)・兄惟義(1195~?)の後を継いで武蔵守に任じられ、建仁3年(1203年)比企能員の変の直後に京都守護職に任じられた。京都守護時代に平氏残党の反乱を平定している。また三代将軍源実朝の御台所を京都から迎える際に、朝廷や公家との交渉役を務めたことも知られている。
元久元年(1204年)、伊勢国と伊賀国で平氏残党の反乱が起こったとき、守護の山内首藤経俊が抑え切れずに任を解かれ、代わって朝雅に鎮圧が命じられる。朝雅はその鎮圧に成功し、その功績により伊賀・伊勢の守護職に任じられる。また「明月記」によると伊賀の知行国主に任官したとされ、破格の扱いを受けていたことが伺える。
元久2年(1205年)6月、畠山重忠・重保父子が謀反の疑いで討伐される事件が起きるが、これは朝雅が重保と不仲になった事が原因とされている。畠山氏は武蔵の最有力御家人で、かつて武蔵守を務めた朝雅とは関係が深い。時の執権北条時政が朝雅に荷担して畠山父子を謀反人に仕立て上げたとされ、時政に畠山討伐を命じられた息子義時・時房は反対したが押し切られ、この事件をきっかけに、時政と義時・政子の対立が決定的になったとも言われる。
同年7月、源実朝を廃して朝雅を新たな鎌倉殿として擁立しようとした時政が失脚(牧氏事件)。朝雅も8月2日(閏7月26日とも)に京都で山内首藤通基(経俊の子)によって殺害された。