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北条政子 - Wikipedia

北条政子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

北条政子(菊池容斎・画、明治時代)
北条政子(菊池容斎・画、明治時代)

北条 政子(ほうじょう まさこ、保元2年(1157年) - 嘉禄元年7月11日1225年8月16日))は、平安時代末期から鎌倉時代初期の女性。鎌倉幕府を開いた源頼朝正室伊豆国豪族北条時政の長女。子は源頼家源実朝大姫乙姫(三幡)。兄弟姉妹には宗時義時時房阿波局など。

伊豆の流人だった頼朝の妻となり、頼朝が鎌倉武家政権を樹立すると御台所(みだいどころ)と呼ばれる。夫の死後は出家し、尼御台(あまみだい)と称された。法名を安養院と呼称した。頼朝の跡を継ぎ鎌倉幕府の将軍となった嫡男頼家、次男実朝が相次いで暗殺された後は、傀儡将軍として擁立された幼い藤原頼経の後見となって幕政の事実上の実権を握り、俗に尼将軍と称された。

なお、「政子」の名は建保6年(1218年)に朝廷から従三位に叙された際に、父・時政の名から一字取って命名されたものであり、それ以前は何という名であったかは不明。

目次

[編集] 生涯

[編集] 流人の妻

政子は伊豆国の豪族北条時政の長女として生まれた。

伊豆の在庁官人であった父時政は、平治の乱で敗れ伊豆に流されていた源頼朝の監視役であったが、時政が大番役のため在京中で留守の間に政子は頼朝と恋仲になってしまう。

この頃の政子と頼朝に関する史料はないが、『曾我物語』によると二人の馴れ初めとして「夢買い」の話がある。政子の妹(後に頼朝の弟・阿野全成の妻となる阿波局)が日月を掌につかむ奇妙なを見た。妹がその夢について政子に話すと、政子はそれは禍をもたらす夢であるので、自分に売るように勧めた。不吉な夢を売ると禍が転嫁するという考え方があった。妹は政子に夢を売り、政子は代に小袖を与えた。政子は吉夢と知って妹の夢を買ったのである。吉夢の通りに政子は後に天下を治める頼朝と結ばれた、とある。

治承元年(1177年)、頼朝と政子の関係を知った時政は平氏一門への聞こえを恐れ、政子を伊豆目代山木兼隆と結婚させようとした。山木兼隆は元は流人だったが、平氏の一族であり、平氏政権の成立とともに目代となり伊豆での平氏の代官となっていた。政子は山木の邸へ輿入れさせられようとするが、屋敷を抜け出した政子は山を一つ越え、頼朝の元へ走ったという。二人は伊豆山権現(伊豆山神社)に匿われた。政子が21歳のときである。伊豆山は僧兵の力が強く目代の山木も手を出せなかったという[1]

この時のことについて、後年、源義経の愛妾の静御前が頼朝の怒りを受けたときに、頼朝を宥めるべく政子が語った言葉で「暗夜をさ迷い、雨をしのいで貴方の所にまいりました」と述べている。政子は、まもなく長女・大姫を出産する。時政も2人の結婚を認め、北条氏は頼朝の重要な後援者となる。

治承4年(1180年以仁王源頼政と平氏打倒の挙兵を計画し、諸国の源氏に挙兵を呼びかけた。伊豆の頼朝にも以仁王の令旨が届けられたが、慎重な頼朝は即座には応じなかった。しかし、計画が露見して以仁王が敗死したことにより、頼朝にも危機が迫り挙兵せざる得なくなった。頼朝は目代山木兼隆の邸を襲撃してこれを討ち取るが、続く石橋山の戦いで惨敗する。この戦いで長兄の宗時が討死している。政子は伊豆山に留まり、頼朝の安否を心配して不安の日々を送ることになった。

頼朝は時政、義時とともに安房に逃れて再挙し、東国の武士たちは続々と頼朝の元に参じ、数万騎の大軍に膨れ上がり、源氏ゆかりの地である鎌倉に入り居を定めた。政子も鎌倉に移り住んだ。頼朝は富士川の戦いで勝利し、各地の反対勢力を滅ぼして関東を制圧した。頼朝は東国の主鎌倉殿と呼ばれ、政子は御台所と呼ばれるようになった。

[編集] 御台所

養和2年(1182年)初めに政子は二人目の子を懐妊した。頼朝は三浦義澄の願いにより政子の安産祈願として、平氏方の豪族で鎌倉方に捕らえられていた伊東祐親の恩赦を命じた。頼朝は政子と結ばれる以前に祐親の娘の八重姫と恋仲になり男子までなしたが平氏の怒りを恐れた祐親はこの子を殺し、頼朝と八重姫の仲を裂き他の武士と強引に結婚させてしまったことがあった。祐親はこの赦免を恥じとして自害してしまう。同年8月に政子は男子(万寿)を出産。後の二代将軍頼家である。

政子の妊娠中に頼朝は亀の前を寵愛するようになり、近くに呼び寄せて通うようになった。これを時政の後妻の牧の方から知らされた政子は嫉妬にかられて激怒する。11月、牧の方の父の牧宗親に命じて亀の前が住んでいた伏見広綱の邸を打ち壊させ、亀の前はほうほうの体で逃げ出した。頼朝は激怒して牧宗親を詰問し、自らの手で宗親の髻(もとどり)を切り落とす恥辱を与えた。頼朝のこの仕打ちに時政が怒り、一族を連れて伊豆へ引き揚げる騒ぎになっている。政子の怒りは収まらず、伏見広綱を遠江流罪にさせた。

政子の嫉妬深さは一夫多妻が当然だった当時の女性としては異例であった。頼朝は生涯に多くの女性と通じたが、政子を恐れて半ば隠れるように通っている。当時の貴族は複数の妻妾の家に通うのが一般的だが、有力武家も本妻の他に多くのを持ち子を産ませて一族を増やすのが当然だった。政子の父時政も複数の妻妾がおり、政子と腹違いの弟妹を多く産ませている。頼朝の父義朝も多くの妾がおり、祖父為義は子福者で20人以上もの子を産ませている。これに対して、頼朝の庶子の貞暁は政子を憚って出家させられた。このため政子は嫉妬深く気性の激しい奸婦のイメージを持たれる様になった。

寿永2年(1183年)、頼朝は対立していた源義仲と和睦し、その条件として義仲の嫡子義高と頼朝と政子の長女大姫の婚約が成立した。義高は大姫の婿という名目の人質として鎌倉へ下る。義高は11歳、大姫は6歳前後である。幼いながらも大姫は義高を慕うようになる。

義仲は平氏を破り、頼朝より早く入した。だが、義仲は京の統治に失敗し、平氏と戦って敗北し、後白河法皇とも対立した。元暦元年(1184年)、頼朝は弟の範頼、義経を派遣して義仲を滅ぼした。頼朝は禍根を断つべく鎌倉にいた義高の殺害を決めるが、これを侍女達から漏れ聞いた大姫が義高を鎌倉から脱出させる。激怒した頼朝の命により堀親家がこれを追い、義高は親家の郎従である藤内光澄の手によって斬られた。大姫は悲嘆の余り病の床につく。政子は義高を討った為に大姫が病になったと憤り、親家の郎従の不始末のせいだと頼朝に強く迫り、頼朝はやむなく藤内光澄を晒し首にしている。その後大姫は心の病となり、長く憂愁に沈む身となった。政子は大姫の快癒を願ってしばしば寺社に参詣するが、大姫が立ち直ることはなかった。

範頼と義経は一ノ谷の戦いで平氏に大勝し、捕虜になった三位中将重衡が鎌倉に送られてきた。頼朝は重衡を厚遇し、政子もこの貴人を慰めるため侍女の千手の前を差し出している。重衡は後に彼が焼き討ちした東大寺へ送られて斬られるが、千手の前は重衡の死を悲しみ、ほどなく死去している。

範頼と義経が平氏と戦っている間、頼朝は東国の経営を進め、政子も参詣祈願や、寺社の造営式など諸行事に頼朝と同席している。元暦2年(1185年)義経は壇ノ浦の戦いで平氏を滅ぼした。

平氏滅亡後、頼朝と義経は対立し、挙兵に失敗した義経は郎党や妻妾を連れて都を落ちる。文治2年(1186年)義経の愛妾の静御前が捕らえられ、鎌倉へ送られた。政子は白拍子の名手である静に舞を所望し、渋る静を説得している。度重なる要請に折れた静は鶴岡八幡宮で白拍子の舞いを披露し、頼朝の目の前で「吉野山峯の白雪ふみ分て 入りにし人の跡ぞ恋しき」「しづやしづしずのをたまきをくり返し 昔を今になすよしもがな」と義経を慕う歌を詠った。これに頼朝は激怒するが、政子は流人であった頼朝との辛い馴れ初めと挙兵のときの不安の日々を語り「私のあの時の愁いは今の静の心と同じです。義経の多年の愛を忘れて、恋慕しなければ貞女ではありません」ととりなした。政子のこの言葉に頼朝は怒りを鎮めて静に褒美を与えた。

政子は大姫を慰めるために南御堂に参詣し、静は政子と大姫のために南御堂に舞を納めている。静は義経の子を身ごもっており、頼朝は女子なら生かすが男子ならば禍根を断つために殺すよう命じる。静は男子を生み、政子は子の助命を頼朝に願うが許されず、子は由比ヶ浜に遺棄された。政子と大姫は静を憐れみ、京へ帰る静と母の磯禅師に多くの重宝を与えた。

奥州へ逃れた義経は文治5年(1189年)4月、泰衡に攻められ自害した。頼朝は奥州征伐のため出陣する。政子は鶴岡八幡宮にお百度参りして戦勝を祈願した。頼朝は奥州藤原氏を滅ぼして、鎌倉に凱旋する。建久元年(1190年)に頼朝は大軍を率いて入京。後白河法皇に拝謁して右近衛大将に任じられた。

建久3年(1192年)、政子は男子(千幡)を生んだ。後の三代将軍実朝である。その数日前に頼朝は征夷大将軍に任じられている。政子の妊娠中に頼朝はまたも大進局という妾のもとへ通い、大進局は頼朝の男子(貞暁)を産むが、政子を憚って出産の儀式は省略されている。大進局は政子の嫉妬を恐れて身を隠し、子は政子を恐れて乳母のなり手がないなど、人目を憚るようにして育てられた。7歳になった時、京の仁和寺へ送られることになり、出発の日に頼朝は密かに会いに来ている。

建久4年(1193年)頼朝は富士の峯で大規模な巻狩りを催した。頼家が鹿を射ると喜んだ頼朝は使者を立てて政子へ知らせるが、政子は「武家の跡取が鹿を獲ったぐらい騒ぐことではない」と使者を追い返している。政子の気の強さを表す逸話である。この富士の巻狩りの最後の夜に曾我兄弟が父の仇の工藤祐経を討つ事件が起きた(曾我兄弟の仇討ち)。鎌倉では頼朝が殺されたとの流言があり、政子は大層心配したが鎌倉に残っていた範頼が「源氏にはわたしがおりますから御安心ください」と政子を慰めた。鎌倉に帰った頼朝が政子から範頼の言葉を聞いて猜疑にかられ、範頼は伊豆に幽閉されて殺されている。

大姫は相変わらず病が癒えず、しばしば床に伏していた。建久5年(1194年)政子は大姫と頼朝の甥にあたる公家一条高能との縁談を勧めるが、大姫は義高を慕い頑なに拒んだ。政子は大姫を慰めるために義高の追善供養を盛大に催した。

建久6年(1195年)、政子は頼朝と共に上洛し、宣陽門院の生母の丹後局と会って大姫の後鳥羽天皇への入内を協議した。頼朝は政治的に大きな意味のあるこの入内を強く望み、政子も相手が帝なら大姫も喜ぶだろうと考えたが、大姫は重い病の床につく。政子と頼朝は快癒を願って加持祈祷をさせるが、建久8年(1197年)に大姫は20歳の若さで死去した。『承久記』によれば政子は自分も死のうと思うほどに悲しみ、頼朝が母まで死んでしまっては大姫の後生に悪いからと諌めている。

頼朝は次女の三幡姫を入内させようと図るが、朝廷の実力者である源通親に阻まれる。親鎌倉派の関白九条兼実が失脚し、朝廷政治での頼朝の形勢が悪化し三幡の入内も困難な情勢になったために、頼朝は再度の上洛を計画するが、建久10年(1199年)1月に落馬が元で急死した。『承久記』によれば政子は「大姫と頼朝が死んで自分も最期だと思ったが、自分まで死んでしまっては幼い頼家が二人の親を失ってしまう。子供たちを見捨てることはできなかった」と述懐している。

[編集] 尼御台

長子の頼家が家督を継ぐ。政子は出家してになり尼御台と呼ばれる。頼朝の死から2ヶ月ほどして次女の三幡が重病に陥った。政子は鎌倉中の寺社に命じて加持祈祷をさせ、後鳥羽上皇に院宣まで出させて京の名医を鎌倉に呼び寄せる。三幡は医師の処方した薬で一時持ち直したように見えたが、容態が急変して6月に僅か14歳で死去した。

若い頼家による独裁が御家人たちの反発が起き、正治2年(1200年)に頼家の専制を抑制すべく大江広元梶原景時比企能員北条時政北条義時ら老臣による十三人の合議制が定められた。

頼家が安達景盛の愛妾を奪う不祥事が起きた。景盛が怨んでいると知らされた頼家は兵を発して討とうとする。政子は調停のため景盛の邸に入り、使者を送って頼家を強く諌めて「景盛を討つならば、まずわたしに矢を射ろ」と申し送った。政子は景盛を宥めて謀叛の意思のない起請文を書かせ、一方で頼家を重ねて訓戒して騒ぎを収めさせた。

頼家と老臣との対立は続き、頼家が父に引き続いて重用していた梶原景時が失脚して滅ぼされた。頼家は遊興にふけり、ことに蹴鞠を好んだ。政子はこの蹴鞠狂いを諌めるが頼家は聞かない。訴訟での失政が続き、御家人の不満が高まっていた。更に頼家は乳母の夫の比企能員を重用し、能員の娘は頼家の長子・一幡を生んで、権勢を誇っていた。比企氏の台頭は北条氏にとって脅威であった。

建仁3年(1203年)頼家が病の床につき危篤に陥った。政子と時政は一幡と実朝で日本を分割することを決める。これを不満に思う能員は病床の頼家に北条氏の専断を訴えた。頼家もこれを知って怒り、北条氏討伐を命じた。これを障子越し聞いていた政子は、使者を時政に送り、時政は策を講じて能員を謀殺。政子の名で兵を起こして比企氏を滅ぼしてしまった。一幡も比企氏とともに死んだ(比企能員の変)。

頼家は危篤から回復し、比企氏の滅亡と一幡の死を知って激怒し、時政討伐を命じるが、既に主導権は北条氏に完全に握られており、頼家は政子の命で出家させられて将軍職を奪われ、伊豆の修善寺に幽閉されてしまう。頼家は後に暗殺されている[2]

代って将軍宣下を受けたのは実朝で、父の時政が初代執権に就任する。時政とその妻の牧の方は政権を独占しようと図り、政子は時政の邸にいた実朝を急ぎ連れ戻している。元久2年(1205年)時政と牧の方は実朝を廃して女婿の平賀朝雅を将軍に擁立しようと画策。政子と義時はこの陰謀を阻止して、時政を出家させて伊豆へ追放した。代って義時が執権となった(牧氏事件)。

実朝は専横が目立った頼家と違って教養に富んだ文人肌で朝廷を重んじて公家政権との融和を図った。後鳥羽上皇もこれに期待して実朝を優遇して昇進を重ねさせた。しかし、公家政権との過度の融和は御家人たちの利益と対立し、不満が募っていた。

政子は後難を断つために頼家の子たちを仏門に入れた。その中に鶴岡八幡宮別当となった公暁もいる。

健保6年(1218年)政子は病がちな実朝の平癒を願って熊野を参詣し、京に滞在して後鳥羽上皇の乳母で権勢並びなき藤原兼子と会談を重ねた。この上洛で兼子の斡旋によって政子は従二位に叙されている。『愚管抄』によれば、このとき政子は兼子と病弱で子がない実朝の後の将軍として後鳥羽上皇の皇子を東下させることを相談している。

実朝の官位の昇進は更に進んで右大臣に登った。義時や大江広元は実朝が朝廷に取り込まれて御家人たちから遊離することを恐れ諫言したが、実朝は従わない。

健保7年(1219年)右大臣拝賀の式のために鶴岡八幡宮に入った実朝は甥の公暁に暗殺された。『承久記』によると、政子はこの悲報に深く嘆き「子供たちの中でただ一人残った大臣殿(実朝)を失いこれでもう終わりだと思いました。尼一人が憂いの多いこの世に生きねばならないのか。淵瀬に身を投げようとさえ思い立ちました」と述懐している。

[編集] 尼将軍

実朝の葬儀が終わると政子は使者を京へ送り、後鳥羽上皇の皇子を将軍に迎えることを願った。上皇は「そのようなことをすれば日本を二分することになる」とこれを拒否した。上皇は使者を鎌倉へ送り、皇子東下の条件として上皇の愛妾の荘園地頭の罷免を提示した。義時はこれを幕府の根幹を揺るがすと拒否。弟の時房に兵を与えて上洛させ、重ねて皇子の東下を交渉させるが、上皇はこれを拒否した。義時は皇族将軍を諦めて摂関家から三寅(藤原頼経)を迎えることにした。時房は三寅を連れて鎌倉へ帰還した。三寅はまだ二歳の幼児であり、政子が三寅を後見して将軍の代行をすることになり、「尼将軍」と呼ばれるようになる。

承久3年(1221年)皇権の回復を望む後鳥羽上皇と幕府との対立は深まり、遂に上皇は京都守護伊賀光季を攻め殺して挙兵に踏み切った。上皇は義時追討の宣旨を諸国の守護と地頭に下す。上皇挙兵の報を聞いて鎌倉の御家人たちは動揺した。武士たちの朝廷への畏れは依然として大きかった。

政子は御家人たちを前に「最期の詞(ことば)」として「故右大将(頼朝)の恩は山よりも高く、海よりも深い、逆臣の讒言により不義の宣旨が下された。秀康胤義(上皇の近臣)を討って、三代将軍(実朝)の遺跡を全うせよ。ただし、院に参じたい者は直ちに申し出て参じるがよい」と涙ながらの名演説を行った。これで御家人の動揺は収まった。

軍議が開かれ箱根足柄で迎撃しようとする防御策が強かったが、大江広元は出撃して京へ進軍する積極策を強く求め、政子の裁断で出撃と決まった。御家人に動員令が下るがまたも消極策が持ち上がるが、三善康信が重ねて出撃を説き、政子がこれを支持して幕府軍は出撃した。幕府軍は19万騎の大軍に膨れ上がる。

後鳥羽上皇は宣旨の効果を絶対視して幕府軍の出撃を予想しておらず狼狽する。京方は幕府の大軍の前に各地で敗退して、幕府軍は京を占領。後鳥羽上皇は義時追討の宣旨を取り下げて事実上降伏し、隠岐島へ流された(承久の乱)。

北条政子の墓と伝わるやぐら(寿福寺)
北条政子の墓と伝わるやぐら(寿福寺)

政子は義時とともに戦後処理にあたった。貞応3年(1224年)義時が急死する。長男の泰時は見識も実績もあり期待されていたが、義時の後室の伊賀の方は実子の政村の執権擁立を画策して、有力御家人の三浦義村と結ぼうとした。義村謀叛の噂が広まり騒然とするが、政子は義村の邸を訪ねて泰時が後継者となるべき理を説き、義村が政村擁立の陰謀に加わっているか詰問した。義村は平伏して泰時への忠誠を誓った。鎌倉は依然として騒然とするが政子がこれを鎮めさせた。伊賀の方は伊豆へ追放された(伊賀氏の変)。

泰時は義時の遺領配分を政子と相談し、泰時は弟たちのために自らの配分が格段に少ない案を提示し、政子を感心させた。

嘉禄元年(1225年)政子は病の床に付き、死去した。享年69。

墓所は神奈川県鎌倉市寿福寺に源実朝の胴墓の隣にある。

[編集] 後世の評価

吾妻鏡』は「前漢呂后と同じように天下を治めた。または神功皇后が再生して我が国の皇基を擁護させ給わった」と政子を称賛している。慈円は『愚管抄』で政子の権勢をして「女人入眼の日本国」と評した。『承久記』では「女房(女性)の目出度い例である」と評している。この評に対して政子に「尼ほど深い悲しみを持った者はこの世にいません」と述懐しさせている。

室町時代一条兼良は「この日本国は姫氏国という。女が治めるべき国と言えよう」と政子をはじめ卑弥呼奈良時代女帝の故事をひいている。北畠親房の「神皇正統記」や今川了俊の「難太平記」でも鎌倉幕府を主導した政子の評価は高い。

江戸時代になると儒学の影響で人倫道徳観に重きを置かれるようになり、『大日本史』や新井白石頼山陽などが政子を評しているが、頼朝亡き後に鎌倉幕府を主導したことは評価しつつも、子(頼家、実朝)が変死して婚家(源氏)が滅びて、実家(北条氏)がこれにとって代ったことが婦人としての人倫に欠くと批判を加えている。またこの頃から政子の嫉妬深さも批判の対象となる。政子を日野富子淀殿と並ぶ悪女とする評価も出るようになった。

近代に入ると文明史論的な立場から女性政治家としての政子の立場を評価する動きが出てきた。一方で、皇国史観的な立場からは承久の乱で朝廷を打ち負かし三人の上皇を流罪にしたことが尊皇の心に欠けると批判された。

現代では、大河ドラマ草燃える』の原作となった永井路子の小説『北条政子』などが主な作品。テレビドラマに登場する政子は気が強く権勢欲に富むが、一方で女としての優しさものぞかせる複雑な性格の女性としておおむね描かれている。政子については夫や子を殺して天下を奪った悪女とも、慈愛と悲しみに満ちた良妻賢母とも様々に評価されている。

[編集] 脚注

  1. ^ 山木兼隆の伊豆配流は治承3年(1179年)の事であり、政子との婚姻話は物語上の創作と思われる。
  2. ^ 比企氏滅亡、頼家暗殺に関して鎌倉幕府編纂書である『吾妻鏡』には明らかな曲筆が見られ、頼家の悪評や比企氏の陰謀については北条氏による政治的作為と考えられるため、そのまま鵜呑みには出来ない。

[編集] 参考文献

  • 関幸彦 『北条政子―母が嘆きは浅からぬことに候 』ミネルヴァ書房、2004年、ISBN 4623039692
  • 渡辺保 『北条政子』吉川弘文館、1985年、ISBN 4642050029
  • 海音寺潮五郎 『悪人列伝 2』文藝春秋、1975年、ISBN 4167135089
  • 栃木孝惟, 益田宗, 日下力, 久保田淳 『保元物語;平治物語;承久記』岩波書店、1992年、 ISBN 4002400433

[編集] 関連項目

映画
TVドラマ


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