公暁
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公暁(くぎょう、正治2年(1200年) - 建保7年1月27日(1219年2月13日))は、鎌倉幕府2代将軍源頼家の二男。幼名は善哉。源実朝の暗殺で知られる。
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[編集] 生涯
建永元年(1206年)に叔父の将軍源実朝(源實朝)の猶子となった。建暦元年(1211年)9月15日に鶴岡八幡宮寺別当定暁の下で出家し「公暁」の法名を受け、翌日には受戒のため上洛する。園城寺において公胤の門弟として学んだ後、建保5年(1217年)6月20日、鎌倉に戻り北条政子の意により鶴岡八幡宮寺別当に就任した。同年10月11日からは実朝の命により裏山で千日参篭をおこなう。
父頼家の死は、北条義時や実朝の陰謀と信じて復讐を誓い、建保7年(1219年)1月27日前夜千人武士の警護した後、お昼頃に雪が2尺(約60cm)ほど降りしきるなか、源仲章と実朝が右大臣拝賀のため鶴岡八幡宮に参詣して退出するところ両者を暗殺。仲章については、義時と間違えて討ったという。
実朝の首を持ち去り八幡宮裏の備中阿闍梨の坊に行き食事。乳母夫の三浦義村に使いに書状を持たせ将軍就任を狙ったが、返事がないため三浦宅に行こうと裏山に登ったところで三浦の討手に遭遇。振り払い、三浦宅の門前で殺害された。なお実朝の首は所在不明。公暁の首実検は北条義時がおこなった。
公暁の犯行の背後には、北条氏の源家討滅あるいは三浦氏の北条打倒の策謀が存在したのではないか、と後世の研究家に推測されているが、確証はない。また、それらの背後関係よりも、公暁個人が野心家で、実朝の跡目としての将軍就任を狙ったところに、この事件の最も大きな要因を求める見解もある。
[編集] 生存の噂
公暁は生きて逃亡したとの噂が1221年ころにあった。また、1228年に結城朝広、浅利太郎が若宮禅師を公暁と誤認して謀反を企てたため白河関袋辻で切ったと鎌倉に報告している。
[編集] 関連項目
- 史料
- 吾妻鏡