安達景盛
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安達 景盛(あだち かげもり、生年未詳 - 宝治2年5月18日(1248年6月11日))は安達盛長の長男。鎌倉幕府の有力御家人。母は丹後内侍。子に、安達義景、松下禅尼がいる。
父・盛長とともに源頼朝に仕えた。その後は鎌倉幕府三代将軍・源実朝に仕えて建保6年(1218年)に出羽守、秋田城介となって安達氏の勢力を拡大した。父の盛長は頼朝の流人時代からの側近であり、挙兵に協力した宿老であった事から、安達氏は相当の実力者に上りつめたものと思われる。
建保7年(1219年)、実朝が暗殺されると、景盛は実朝と親しかったため、その死を悼んで出家し、家督を子の安達義景に譲って高野山に入った。しかし高野山でなおも幕政に参与し、安達氏の安泰を図るために北条氏と姻戚関係を結ぶなど、活躍したという。宝治元年(1247年)には老齢の身でありながら高野山を出て鎌倉に赴き、宝治合戦に子の義景とともに参陣した。
景盛には源頼朝御落胤説があり、これが後に孫の安達泰盛の代になり、政敵である平頼綱により謀叛の疑いをかけられ、一族誅伐に至る遠因となる。