平城天皇
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
平城天皇 | ||
---|---|---|
第51代天皇 | ||
在位期間:806年6月8日 - 809年5月8日 | ||
在位中の時代 | 平安時代 | |
在位中の年号 | 延暦 大同 弘仁 |
|
在位中の首都 | 京都 | |
在位中の皇居 | 平安宮 | |
別名 | 奈良帝 日本根子天推国高彦尊 |
|
出生 | 774年9月26日 | |
死没 | 824年8月5日 | |
陵墓 | 楊梅陵 | |
皇子女 | 高岳親王 巨勢親王 上毛野内親王 石上内親王 大原内親王 阿保親王 叡奴内親王 |
|
皇后 | 藤原帯子 | |
父親 | 桓武天皇 | |
母親 | 藤原乙牟漏 |
平城天皇(へいぜいてんのう、へいじょうてんのう、宝亀5年8月15日(774年9月26日) - 弘仁15年7月7日(824年8月5日))は第51代の天皇(在位:大同元年5月18日(806年6月8日) - 大同4年4月1日(809年5月8日))。小殿(おて)親王、後に安殿親王(あてのみこ)。奈良帝(ならのみかど)とも呼ぶ。国風諡号は日本根子天推国高彦尊(やまとねこあめおしくにたかひこのみこと)。
目次 |
[編集] 系図
|
(50)桓武天皇 |
|
(51)平城天皇 |
|
高岳親王 |
|
|
(在原)行平 | |||||||||||||||||||||||
|
|
|
|
|
|
|
|||||||||||||||||||||||||
|
|
伊予親王 |
|
|
阿保親王 |
|
|
(在原)業平 | |||||||||||||||||||||||
|
|
|
|||||||||||||||||||||||||||||
|
|
万多親王 |
|
|
(54)仁明天皇 |
|
|
||||||||||||||||||||||||
|
|
|
|
|
|||||||||||||||||||||||||||
|
|
(52)嵯峨天皇 |
|
|
有智子内親王 | ||||||||||||||||||||||||||
|
|
|
|||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|
|
(源)信 〔嵯峨源氏へ〕 |
|||||||||||||||||||||||||||
|
|||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|
|
(源)融 〔嵯峨源氏へ〕 |
|||||||||||||||||||||||||||
|
|||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|
|
(源)潔姫 (藤原良房妻) |
|||||||||||||||||||||||||||
|
|||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
(53)淳和天皇 |
|
恒貞親王 | |||||||||||||||||||||||||||
|
|
||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
葛原親王 |
|
(平)高棟 |
|
維範 | |||||||||||||||||||||||||
|
|
|
|
||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|
|
高見王 |
|
(平)高望〔桓武平氏へ〕 | |||||||||||||||||||||||||
|
|
||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
(良岑)安世 |
|
遍昭 |
|
素性 | |||||||||||||||||||||||||
|
|
|
[編集] 系譜
桓武天皇の長男。母藤原乙牟漏(藤原良継の娘)は桓武天皇の皇后。皇太子とした嵯峨天皇は同母弟。子に阿保親王、高岳親王、巨勢親王、ほか内親王4人がある。阿保親王の第5子が在原業平で、平城天皇には孫にあたる。
[編集] 略歴
延暦4年(785年)、叔父の早良親王に代わり立太子される。だが、病弱であった上に父天皇との関係も微妙であり、『日本後紀』によれば、延暦12年(793年)に春宮坊帯刀舎人が殺害された事件の背景に皇太子がいたと噂された事や、同24年(805年)に一時重態であった天皇が一時的に回復したために皇太子に対してに参内を命じたのにも関わらず参内せず、藤原緒嗣に催促されて漸く参内したことなどが記されている。また、皇太子時代より、妃の母である藤原薬子を寵愛して醜聞を招き、父より薬子の追放を命じられている。こうした経緯が、即位後の天皇による父・桓武天皇の政策に対する見直しへと反映されたといわれている。
大同元年(806年)5月に即位した。即位当初は政治に意欲的に取り組み、官司の統廃合や年中行事の停止、中・下級官人の待遇改善など政治・経済の立て直しを行い、民力休養に努めた。その一方で藤原薬子を呼び戻して尚侍に任じて宮廷内部の事を一任し、『続日本紀』から削除した藤原種継暗殺事件の記述を復活させた。これは薬子が藤原種継の娘であったこともあるが、早良親王廃太子と自分の皇位継承の正当性を示す目的があったとされている(後に嵯峨天皇によって再度削除されることになる)。大同4年(809年)4月、病気のため神野親王(嵯峨天皇)に譲位、嵯峨天皇は平城天皇の子の高岳親王を皇太子に立てた。同年12月、平城上皇は旧都である平城京に移り住んだ。
薬子やその兄の藤原仲成の介入により、大同5年(810年)、平安京より遷都すべからずとの桓武天皇の勅を破って平安京にいる貴族たちに平城京への遷都の詔を出し、政権の掌握を図った。しかし、嵯峨天皇側に機先を制され、9月10日、嵯峨天皇が薬子の官位を剥奪。これに応じて11日に挙兵し、薬子と共に東国に入ろうとしたが、坂上田村麻呂らに遮られて翌日平城京に戻った。直ちに剃髮して仏門に入り、薬子は服毒自殺した。高岳親王は皇太子を廃され、大伴親王(後の淳和天皇)が立てられた。これを薬子の変と呼ぶ。なお「薬子の変」の際、妃の朝原内親王と大宅内親王は平城上皇に同行せず、弘仁3年(812年)の5月、揃って妃の位を辞した。
その後も上皇(当時は法皇の称号はなかった)は平城京に滞在していたが、「太上天皇」の称号はそのままとされ、嵯峨天皇の朝覲行幸も受けている。大宰権帥に遷された阿保親王、廃太子・高岳親王の2人の皇子にも四品親王の身位を許されるなど、相応の待遇は保障されていたようである。後に嵯峨天皇が退位しようとした時に、藤原冬嗣が退位後の天皇に平城上皇と同じ待遇を与えれば、費用がかさんで財政が危機に瀕するとして退位に反対する意見を述べている事からでも裏付けられる。
諡は平城京に因むものである。墓所は宮内庁により平城京のすぐ北の楊梅陵(やまもものみささぎ)が指定されている。楊梅陵(市庭古墳)は全国最大の円墳と考えられてきたが、1962-63年の発掘調査により前方部が平城京築造の際取り壊されていたのが判明したため、同古墳を平城天皇の墓とするのは無理がある。
[編集] 后妃・皇子女
- 贈皇后:藤原帯子(?-794) - 藤原百川女
- 妃:朝原内親王(779-817) - 桓武天皇皇女
- 妃:大宅内親王(?-849) - 桓武天皇皇女
- 妃:甘南美内親王(800-817) - 桓武天皇皇女
- 尚侍:藤原薬子(?-810) - 藤原種継女
- 東宮妃:藤原縄主娘 - 母は藤原薬子
- 宮人:伊勢継子(772-812) - 伊勢老人女
- 宮人:葛井藤子 - 葛井道依女
- 宮人:紀魚員 - 紀木津魚女
-
- 叡奴内親王(?-835)
|
|
|
歴代天皇一覧 | |||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1 神武 | 2 綏靖 | 3 安寧 | 4 懿徳 | 5 孝昭 | 6 孝安 | 7 孝霊 | 8 孝元 | 9 開化 | 10 崇神 |
11 垂仁 | 12 景行 | 13 成務 | 14 仲哀 | 15 応神 | 16 仁徳 | 17 履中 | 18 反正 | 19 允恭 | 20 安康 |
21 雄略 | 22 清寧 | 23 顕宗 | 24 仁賢 | 25 武烈 | 26 継体 | 27 安閑 | 28 宣化 | 29 欽明 | 30 敏達 |
31 用明 | 32 崇峻 | 33 推古 | 34 舒明 | 35 皇極 | 36 孝徳 | 37 斉明 | 38 天智 | 39 弘文 | 40 天武 |
41 持統 | 42 文武 | 43 元明 | 44 元正 | 45 聖武 | 46 孝謙 | 47 淳仁 | 48 称徳 | 49 光仁 | 50 桓武 |
51 平城 | 52 嵯峨 | 53 淳和 | 54 仁明 | 55 文徳 | 56 清和 | 57 陽成 | 58 光孝 | 59 宇多 | 60 醍醐 |
61 朱雀 | 62 村上 | 63 冷泉 | 64 円融 | 65 花山 | 66 一条 | 67 三条 | 68 後一条 | 69 後朱雀 | 70 後冷泉 |
71 後三条 | 72 白河 | 73 堀河 | 74 鳥羽 | 75 崇徳 | 76 近衛 | 77 後白河 | 78 二条 | 79 六条 | 80 高倉 |
81 安徳 | 82 後鳥羽 | 83 土御門 | 84 順徳 | 85 仲恭 | 86 後堀河 | 87 四条 | 88 後嵯峨 | 89 後深草 | 90 亀山 |
91 後宇多 | 92 伏見 | 93 後伏見 | 94 後二条 | 95 花園 | 96 後醍醐 | 97 後村上 | 98 長慶 | 99 後亀山 | 100 後小松 |
北朝 | 1 光厳 | 2 光明 | 3 崇光 | 4 後光厳 | 5 後円融 | 6 後小松 | |||
101 称光 | 102 後花園 | 103 後土御門 | 104 後柏原 | 105 後奈良 | 106 正親町 | 107 後陽成 | 108 後水尾 | 109 明正 | 110 後光明 |
111 後西 | 112 霊元 | 113 東山 | 114 中御門 | 115 桜町 | 116 桃園 | 117 後桜町 | 118 後桃園 | 119 光格 | 120 仁孝 |
121 孝明 | 122 明治 | 123 大正 | 124 昭和 | 125 今上 | ※註:橙に赤字は女帝 |
[編集] 参考文献
- 遠藤慶太『平安勅撰史書研究』(皇学館出版部、2006年) ISBN 4-87644-131-6