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坂口安吾 - Wikipedia

坂口安吾

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

文学
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坂口 安吾(さかぐち あんご、1906年(明治39年)10月20日 - 1955年(昭和30年)2月17日) は、日本小説家エッセイスト。本名は炳五(へいご)。旧私立豊山中学校卒後代用教員をへて東洋大学文学部印度哲学倫理科卒業。純文学のみならず、歴史小説推理小説、文芸エッセイまで、幅広く活動した。終戦直後に発表した『堕落論』などにより時代の寵児となり、無頼派と呼ばれる作家の一人、その後の多くの作家にも影響を与えた。

一人息子の坂口綱男写真家

目次

[編集] 人物と作品

[編集] 主な作品

1946年に発表した『堕落論』は終戦後の暗澹たる世相の中で、戦時中の倫理を否定し、「堕ちきること」を肯定して多大な反響を呼んだ。小説『白痴』との2作によって安吾は戦後の世相に大きな影響を与える。また、太宰治石川淳織田作之助らと共に新文学の旗手とされ、無頼派、新戯作派と呼ばれる。これによって人気作家となるが、ヒロポンなどの薬物を打ちながらの執筆により薬物中毒となり、遂に錯乱状態となって入院、退院後に再発して伊東での転地療養で回復に至った。

自伝的作品として「風と光と二十の私と」などがある。主に20代の青春期の精神遍歴が連作風に書かれ、特に「二十七歳」「三十歳」では当時新進女流作家であった矢田津世子との恋愛についてを描いており、安吾自身も年代記の眼目としている。

歴史小説としては、三好達治の影響で切支丹に興味を持った1940年に「イノチガケ」を発表、続いて「島原の乱雑記」「鉄砲」を書く。戦時中には作品発表の場が大幅に減り、歴史書を読み漁り、1944年に「黒田如水」発表、翌年「二流の人」執筆(1948年刊行)、1947年「家康」「道鏡」を発表。「道鏡」は、戦前の史観では悪逆非道とされていた人物を取り上げた安吾らしい作品としてセンセーショナルに迎えられ、内容はむしろ女帝としての孝謙天皇を描いたものだったが、天皇家の権威を否定する史観も含んでいた。1951年から日本各地を取材してその歴史考察を記した「安吾新日本地理」を『文藝春秋』に連載、古代王朝に関する大胆な仮説も提唱した。翌年には「安吾史譚」を『オール讀物』に連載。1955年に「安吾新日本風土記」を『中央公論』で連載開始するも未完のままとなる。1952年10月から翌3月まで新聞『新大阪』に覆面作家として連載長編小説「信長」を発表。連載と並行して作者名を当てる懸賞募集もおこなわれ、応募総数2784通のうち正解は1299名だった。

少年時代から推理小説の熱烈な読者であった安吾は、第2回探偵作家クラブ賞を受章した『不連続殺人事件』の他、長編『復員殺人事件』、短編「能面の秘密」など、時代ものとして『明治開化安吾捕物帖』を書いた。安吾の推理小説は「推理を楽しむ小説」「パズルを解くゲーム」という考え方によるもので、推理作家としてはアガサ・クリスティを最高の作家として挙げている。しかし推理小説を読んで真犯人を当てるのはまれで、「彼の推理は不可思議な飛躍をする」ことが多かったようだ(推理小説作家であった大井広介による回想)。

他、将棋や囲碁も好んでおり、特に囲碁は強く、京都滞在時には碁会所席主として生活していたほどであった。真部一男によればアマ4、5段クラスの強豪であったといい、後に囲碁のアマ八段になった将棋名人の升田幸三と対局し、勝っている。また、将棋の名人戦の観戦記なども多数執筆しており、木村義雄升田幸三大山康晴らについて述べている。将棋観戦記として、安吾のものは評価が高く、木村義雄千日手回避をおこなって敗北したとき、木村を厳しく批判した「散る日本」は名作として名高い。また、大山康晴を高く評価しており、大山を主人公にした小説「九段」もある(ただ、将棋については「駒の動かし方も知らない」と記している)。

新津市大安寺(現新潟市)の坂口家墓所に葬られた。1957年、新潟市寄居浜の護国神社境内に「ふるさとは語ることなし」の詩碑が建立された。また毎年2月17日は安吾忌が催されている。

[編集] 生い立ち

新潟県新潟市西大畑町に、父・坂口仁一郎、母・アサの五男、13人兄弟の12番目として生まれる。名前(炳五)の由来は、「丙午」年生まれの「五男」に因んだもの。坂口家は代々の旧家、大地主であり、「阿賀野川の水が尽きても坂口家の富は尽きることがない」と言われるほどの富豪だった。仁一郎は憲政本党の衆議院議員で、かつ「五峰」の号をもつ漢詩人。政治家としては、若槻礼次郎加藤高明らと、文学者としては会津八一と親交があった。仁一郎は政治に大金を注ぎ込み、安吾の生まれた頃は家は傾きかけていた。アサは仁一郎の後妻で、安吾はこの傾いた家計を支えるのに苦労していた母親から愛されなかったという思いを抱いて成長する。兄の献吉は新潟新聞(現・新潟日報)二代目の社長を務めた。

幼少時は破天荒な性格で知られ、ガキ大将として近所の子供を引き連れ、町内や砂丘で遊び回る。立川文庫の『猿飛佐助』を愛読し、忍術の方法を研究した。小学校での成績はよかったが、中学に入って近眼で黒板の字が読めなくなり、ほとんど授業に出なくなり、海岸の砂丘の松林で寝転がるなどして過す。2年の時には4科目で不合格となり留年。家庭教師をつけられたりしたが逃げ回っていた。再び落第の恐れがあり、東京の私立豊山中学校(現・日本大学豊山高等学校)3年に編入、父、兄献吉と東京府戸塚諏訪町に住む。この時、新潟中学校の柔道場の板戸に「余は偉大なる落伍者となって何時の日にか歴史の中によみがえるであろう」と彫った。小説は早くから読んでおり、オノレ・ド・バルザック谷崎潤一郎などを読み、反抗的な落伍者への畏敬の念が強く、エドガー・アラン・ポーシャルル・ボードレールなどに影響を受けた。石川啄木北原白秋などを愛読、短歌を作り、また仏教にも関心を寄せる。また日本の歴史に興味を持ち『講談雑誌』を愛読。ボクシング小説「人心収攬術」の翻訳を、友人Sの名前で『新青年』に掲載した、と「風と光と二十の私と」にはあるが、結局掲載されなかったのか見当たらない。しかし18歳の頃は文学に自信を持てなくなり、野球や陸上競技に熱中、5年次の1924年(大正13年)にインターミドル(全国中等学校陸上競技会、新制インターハイの前身)のハイジャンプで1m57cmの記録で優勝した。

1923年(大正12年)に父仁一郎が死去し、1925年から兄と荏原郡大井町に転居。豊山中学校を卒業し、世田谷下北沢の荏原第一尋常高等小学校の代用教員に採用され、その分教場(現・代沢小学校)の代用教員となる。この頃「改造」誌の懸賞小説に応募して落選する。1926年に仏教の研究を決意し、代用教員を辞めて東洋大学印度哲学倫理学科(現:インド哲学科)に入学。睡眠時間を4時間にして仏教書、哲学書を読み漁る猛勉強の生活を1年半続けて、遂に神経衰弱に陥るが、サンスクリット語パーリ語チベット語など語学学習に熱中することで克服した。次いでラテン語フランス語を学び、モリエールヴォルテールボーマルシェなどに触れて、アテネ・フランセに通い始める。ここでは「賞」をもらうほど成績優秀であり、また級友と読書会を行ったりした。

1930年(昭和5年)東洋大学を卒業。本格的に20世紀フランス文学を学び始め、アテネ・フランセの友人葛巻義敏、江口清らと同人誌『言葉』を創刊。創刊号にマリイ・シエイケビツチ「プルウストに就てのクロツキ」の翻訳を掲載。第2号に処女小説「木枯の酒倉から」を書き、小説家としての資質に自身を持つようになる。『言葉』は2号で廃刊となり、5月に後継誌『青い馬』が岩波書店から創刊、創刊号に小説「ふるさとに寄する賛歌」、評論「ピエロ伝道者」、翻訳ヴァレリー「ステファヌ・マラルメ」、コクトー「エリック・サティ」を発表。続いて2号に散文ファルスとも言うべき「風博士」、編集責任者となった3号に「黒谷村」を発表する。この「風博士」を牧野信一が、「黒谷村」を島崎藤村宇野浩二が激賞して新進作家として注目され、「海の霧」「霓博士の頽廃」長編「竹薮の家」を発表する。

[編集] 年譜

  • 1906年 - 新潟県新潟市西大畑町に父・坂口仁一郎、母・アサの五男として生誕(本籍地は旧新津市大字大安寺)
  • 1913年 - 新潟尋常高等小学校に入学。
  • 1918年 - 新潟尋常高等小学校を卒業。
  • 1919年 - 県立新潟中学校(現・県立新潟高校)に入学。
  • 1922年 - 県立新潟中学校を放校処分。豊山中学校に編入。
  • 1923年 - 父・仁一郎死去。
  • 1925年 - 豊山中学校を卒業、代用教員となる。
  • 1926年 - 代用教員を辞し、東洋大学入学。
  • 1928年 - アテネフランセに入学。正宗白鳥芥川龍之介ボーマルシェなどを耽読した。
  • 1930年 - 3月、東洋大学を卒業。:4月、アテネフランセの中等科から高等科に進む。5月、池袋の借家から荏原郡矢口町に移る。
  • 1931年 - 1月、『言葉』2号に処女作「木枯の酒倉から」を発表。5月に後継誌『青い馬』創刊号に「ふるさとに寄する讃歌」、6月の2号に「風博士」、7月の3号に「黒谷村」発表。
  • 1932年 - 『青い馬』第5号に「FARCEに就いて」を掲載。『青い馬』はこの号で廃刊となる。:3月から京都で、大岡昇平を通じて知り合った加藤英倫と1ヶ月半の共同生活し、帰京。
    帰京後、酒場ウヰンザアで加藤の紹介で矢田津世子、中原中也と知り合う。
    牧野と春陽堂で季刊誌『分科』を編集・刊行、「竹薮の家」を連載。
  • 1933年 - 田村泰治郎の誘いで、井上友一郎、矢田らと同人誌『桜』に参加。:4-5月に「麓」を連載するが、6月に矢田とともに脱退。
  • 1934年 - 酒場ボヘミアンのマダムと同棲し、大森のアパートに移る。:8月に越前北陸を放浪。
  • 1935年 - 処女小説集『黒谷村』を竹村書房から出版。:長野県の奈良原鉱泉で一夏を過し、次いで蒲田に転居。
  • 1936年 - 1月から「狼園」を『文學界』に連載するが、3月に牧野の自殺に衝撃を受けて連載を中絶。:3月に本郷の菊富士ホテル3階に移る。
    6月、矢田に絶交の手紙を送り、長編小説の構想を始め、11月に「吹雪物語」の執筆を開始。
  • 1937年 - 京都に下宿し、長編『吹雪物語』を書きながら、碁会所を開くなど囲碁三昧の生活を送る。
  • 1938年 - 帰京して本郷の菊富士ホテルに滞在、その後長編小説執筆のために取手の取手病院に住み込む。
  • 1940年 - 取手の寒さに悲鳴をあげ、三好達治の誘いで小田原に転居。:7、9月に「イノチガケ」を「文学界」に発表。
    12月、「風人録」を同人誌『現代文学』に発表。
  • 1941年 - 蒲田で母と同居する。
  • 1942年 - 母死去。
  • 1943年 - エッセイ集『日本文化私観』を刊行。
  • 1944年 - 徴用逃れを目的に日本映画社の嘱託となる。:この頃歴史書を愛読、1月に「黒田如水」を『現代文学』に、2月に「鉄砲」を『文藝』に発表。
  • 1946年 - エッセイ「堕落論」、小説「白痴」を雑誌『新潮』に発表。
エッセイは他に、「デカダン文学論」、「堕落論・続編」などをそれぞれ文芸誌に発表した。
文藝春秋社発行の雑誌『座談』で阿部定と対談している。
  • 1947年 - 前年の反響が大きかったため、執筆のペースは大幅に増えた。
「風と光と二十の私と」を『文芸』に、「戯作者文学論」を『近代文学』にそれぞれ発表。また、名作として名高い「桜の森の満開の下」を『肉体』に発表。『堕落論』を銀座出版社より初めて刊行。
9月以降、『日本小説』に、推理小説「不連続殺人事件」を発表。
10月、「青鬼の褌を洗う女」を『週刊朝日』に発表。12月には表題作を含めた短編集を山根書店より出した。
この年9月に、梶三千代と結婚した。
写真家林忠彦と酒場ルパンで知り合う。「カストリを飲む会」を通じ交友し、自宅の紙屑だらけの仕事場で撮られた写真が後に有名になった。
  • 1948年 - 『風と光と二十の私と』、『不良少年とキリスト』、『不連続殺人事件』を刊行した。また『坂口安吾選集』を銀座出版社から刊行した。
『不連続殺人事件』は、探偵作家クラブ賞を受けた。
  • 1949年 - 薬中毒により東京大学医学部付属病院に入院した。
  • 1950年 - 推理小説や大衆小説、エッセイを多数発表した。
  • 1951年 - 『新日本地理』のため、全国を旅行した。それらいくつかの文章を『文芸春秋』に掲載。
  • 1955年 - 脳出血のため桐生市の自宅にて死亡した。享年49。坂口家父祖の地である旧新津市大字大安寺の坂口家墓所に眠る

[編集] 主要著書

[編集] 小説

  • 吹雪物語
  • 白痴
  • 桜の森の満開の下
  • 信長
  • 二流の人
  • 不連続殺人事件
  • 街はふるさと
  • 夜長姫と耳男

[編集] エッセイ

  • 堕落論
  • 続堕落論
  • FARCEに就いて
  • 日本文化私観
  • 文学のふるさと
  • 教祖の文学
  • 安吾巷談

[編集] 関連書籍

[編集] 作品集

  • 『定本坂口安吾全集(全13巻)』冬樹社 1967-72年
  • 『坂口安吾全集(全18巻)』筑摩書房 1989-1991年

[編集] 評伝

[編集] その他

  • 石川淳『諸国畸人伝』(父・坂口五峯についての評伝)
  • 林忠彦『カストリ時代』朝日ソノラマ 1970年(安吾の仕事場の写真を収録)
  • 山田正紀『弥勒戦争』早川書房 1976年(焼跡の酒場で自身の経験による恋愛論などを語る安吾が登場する)
  • いしかわじゅん『ちゃんどら』双葉社 1983年(風博士という人物が登場する)
  • 野崎六助『安吾探偵控』(2003年)『イノチガケ』(2005年)『オモチャ箱』(2007年)東京創元社

[編集] 関連人物

[編集] 外部リンク

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