在ペルー日本大使公邸占拠事件
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在ペルー日本大使公邸占拠事件(ざいペルーにほんたいしこうていせんきょじけん)は、1996年12月にペルーの首都のリマで起こったテロリストによる駐ペルー日本国特命全権大使公邸襲撃および占拠事件。「在ペルー日本大使公邸人質事件」とも呼称される。
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[編集] 概要
[編集] 襲撃・占拠
1996年12月17日に、ネストル・セルパをリーダーとするトゥパク・アマル革命運動(MRTA)の構成員14人が、空き家となっていた隣の家の塀を爆破し、天皇誕生日祝賀レセプションを開いていたリマの駐ペルー日本大使公邸を襲撃、占拠し、ホストである青木盛久駐ペルー日本国特命全権大使をはじめとする大使館員やペルー政府要人、各国の駐ペルー特命全権大使、日本企業のペルー駐在員ら約600人を人質にした。
その後セルパは、「逮捕、拘留されているMRTA構成員全員の釈放」、「国外に退避するまでの人質の同行とそれに対するセーフ・コンダクト」、「アルベルト・フジモリ政権による経済政策の全面的転換」、「身代金の支払い」という4項目の要求を提示した。
当初はペルー政府要人や日本大使館員程度の少数の人質だけを確保することを目的としていたものの、600人以上という予想以上の人質を確保してしまったMRTAは、人質になっていたミシェル・ミニグ赤十字国際委員会代表の求めに応じて早期に女性や老人、子供など200人以上の人質を解放し、その後も継続的に人質を解放したものの、多くのペルー政府要人や軍人、日本大使館員や日本企業のペルー駐在員らは人質として大使公邸に残された。なおこの際に青木大使は「自分一人だけを人質とし、他の全ての人質を解放してほしい」とセルパに対し訴えたものの、この申し出は否決されてしまった。
[編集] 2つの方法
ペルーのアルベルト・フジモリ大統領とブラディミロ・モンテシノス国家情報局顧問は、事件発生翌日には武力突入を検討していたが、事件直後に日本の橋本龍太郎首相の命を受けてペルー入りした池田行彦外務大臣による「平和的解決を優先してほしい」との勧めにより即時の武力突入を断念した。なお、橋本首相は本事件の対策本部に木村屋總本店のあんパンを大量に差し入れたことから、「アンパン総理」と揶揄された。
しかし1997年1月下旬に、事件が膠着状況に陥ったことによる国内外からの批判に併せ、内政の不安定を嫌ったフジモリ大統領の意を受けたペルー警察当局が武力突入計画の立案を開始し、大使公邸と同じ間取りのセットを造り特殊部隊が突入のシミュレーションを重ねていた。また、派遣は現実的にはありえないがSATも大使公邸の間取りを一部再現して突入訓練を実施していた。
[編集] 人質生活
相次ぐ解放により年明けには100人、最終的には70人程度となっていた人質は主に、数名の閣僚やペルー軍の将校を含むペルー政府関係者と駐ペルー日本大使館員、松下電器や三井物産などの日本の大手企業の駐在員などが中心となっていた。人質たちは暇を潰し、お互いのコミュニケーションを促進するために積極的に日本語とスペイン語の相互レッスンや、トランプやオセロ、麻雀などのゲームを行い、その中には人質との間にコミュニケーションを取るようになっていたMRTA構成員が入ることも珍しくなかった。
リマ市内の日本料理レストランからは毎日日本料理やインスタントラーメンなどが届けられ、ペルー人人質やMRTA構成員にも振舞われ好評を得たとの証言もある。また、多数の日本の報道陣がリマに詰めかけ、リマ市内のあらゆる日本料理レストランから膨大な量の日本料理の出前を取ったため、日本料理レストランの多くは「特需」とも言われるような盛況を享受したと言われている。
[編集] テレビ朝日の「突入」
この様な状況下で、1月7日にテレビ朝日のニュースネットワーク(ANN)の一員として取材に当たっていた広島ホームテレビの取材クルーが、「ANN代表としてMRTA側の声明を取材し全世界に発信する」という「目的」でペルー大使館に突入を試みた。
結果的にテレビ朝日の申し出はMRTA側から拒絶され、幸いにも人質に危害が加えられる事はなかったが、「人質の安全を無視した身勝手な行動」として日本とペルー両政府のみならず世界中のマスコミから非難が寄せられた。当初テレビ朝日側は「テロリストとの対話を行なおうとした」として批判を無視し続けたものの、後に同社の伊藤社長が正式に謝罪した。
[編集] トンネル掘削
その後の2月1日に、橋本首相とフジモリ大統領が事件発生後初めてカナダのトロントで会談し、橋本首相は改めて事件の「平和的解決」と事件解決への全面的支援を訴え、フジモリ大統領もこの訴えに対して一定の理解を示した。
しかしその後の2月7日に、ペルー警察当局はフジモリ大統領の発案による公邸までのトンネル掘削を決定した。直ちに掘削作業が開始され、ペルー警察当局による武力突入作戦の実施に備えた。
[編集] 直接交渉の開始
2月11日にはペルー政府とMRTAの間で直接交渉が開始され、中立的な立場から交渉をサポートする保証人委員会の委員として、ミシェル・ミニグ赤十字国際委員会代表とフアン・ルイス・シプリアーニ大司教、アントニー・ビンセント駐ペルーカナダ特命全権大使が選ばれ、寺田輝介駐メキシコ日本特命全権大使もオブザーバーとして参加した。
なお、シプリアーニ大司教は犯人と政府との間の交渉役としてだけでなく、人質への医薬品や食料の差入れ役としても活躍したものの、後にペルー政府側の意を汲んで、密かに人質となったペルー海軍のルイス・アレハンドロ・ジャンピエトリ提督らに対して無線機などを手渡していた他、差し入れた医療器具やコーヒーポットなどの中にも多数の盗聴器が仕込まれていたことが明らかになった。
[編集] キューバ亡命案
また、これとあわせて同時期には、ペルー国内の刑務所に服役中の2人を含むMRTA構成員全員のキューバ亡命による平和的な事件解決という案も検討され、この案の可能性を探る為にハバナを訪れたフジモリ大統領と会談したキューバのフィデル・カストロ首相も犯人グループの条件付受け入れを承諾する姿勢を見せた。
これを受けてセルパもキューバへの亡命を他のMRTA構成員に申し出たが、この申し出は他の構成員により却下され、この案による平和的な解決の道は閉ざされることになった。なおこの会話は盗聴器によってペルー政府側に盗聴されていた。
[編集] 「チャビン・デ・ワンタル作戦」
これらの状況を受けて、事件発生から127日後の4月22日に、ペルー海軍特殊作戦部隊(FOES/Fuerza de Operaciones Especiales)を中心とした軍・警察の特殊部隊が公邸に突入し、最後まで拘束されていた72人の人質のうち71人を救出した。作戦名は「チャビン・デ・ワンタル作戦」。作戦の実行に際し、橋本首相への事前通告はなかったとされている。同年2月より掘削を進めていた公邸地下のトンネルを利用したことに特徴がある。
4月22日午後、MRTAが日課となっていたサッカーを始め、この為に1人を除くMRTA構成員全員が1階にいたことが、密かに持ち込まれた無線機を使用したペルー海軍のジャン・ピエトリ中将からの連絡により判明した。この連絡を受けて突入作戦の実行が決定され、その連絡を受けたピエトリ中将らは2階にいた人質の多くを急いで奥の部屋に押しとどめた。
人質が2階に集結したことを受けて15時23分に突入作戦は開始された。掘削を進めていた作戦用トンネルの終着地となる1階の床の数箇所が爆破され、その穴と正門から部隊が突入した。作戦は成功し殆どの人質は無傷で解放されたが、フランシスコ・トゥデラ外務大臣や青木大使ら複数の重軽傷者を出した他、人質のペルー最高裁判事と特殊部隊隊員2名が死亡し、MRTA構成員は14人全員が死亡した。
なおこの作戦は、大使館周辺に事件の報道の為に集結していた世界各国のテレビ局のカメラによって世界中に生中継で放送され、日本のテレビ局も通常の番組を中断して現場からの生放送を行なった。この際、協力関係にあったSASより突入訓練を受けたペルー海軍特殊作戦部隊が、ベルギーFN社製の短機関銃「P90」を使用して話題になった。
[編集] 評価
人質の犠牲が1名と特殊部隊隊員の犠牲がファン・バレル中佐とラウル・ヒメネス中尉の2名のみと、犠牲者が当初予想されたよりも少なかった上、MRTA側の死者が14名と事実上完全制圧に近かったことから、軍事的には成功とされている。ただし後の検証で、降伏した無抵抗のMRTA構成員の一部を虐殺したのではないかとの疑いが生じ、フジモリ大統領の罷免後には特殊部隊指揮官らの訴追に発展した。
また、ただ1人犠牲となった人質であるカルロス・ジュスティ最高裁判事が反フジモリ勢力の有力者であった事から、フジモリ大統領の側近であるモンテシノス国家情報局顧問らの指示による暗殺ではないかと取り沙汰されもした。また、日本国内の一部の報道では、交渉による「平和的な解決」を求められていたものの、かねてからテロによる民間人の殺害を繰り広げていたMRTAの戦術を熟知していたフジモリ大統領は、最初からより現実的に特殊部隊隊員を使って制圧することを考えていたと言われている。
また、日本大使館におけるレセプションの開催時に、「周囲の人からフジモリ大統領に対し『もっと警備の人を増やした方が良い』と忠告したが、フジモリ大統領はそれを拒んだためにこの事件が起きた」という意見があるが、そもそも事件が起きたのはフジモリ大統領が大使館を去ってからのことであるために、もし大統領の来訪時に警備を増やしたからといって事件の発生自体を防げたかという点には、専門家を中心に異論がある。
これに併せて、当時一部の日本のマスコミによって「日本大使館が警備を怠った為にこの事件が起きた」という意見も出たが、そもそも大使館周辺の警備の主担当は国際条約によって地元警察と決められている上、もし在外公館警備対策官側から大使館の周辺警備の増強を現地警察側に依頼していたとしても、上記と同様の理由から事件の発生自体を防げた可能性は低いとみられている。
[編集] その後
[編集] 犠牲者
犠牲になった特殊部隊隊員のファン・バレル中佐とラウル・ヒメネス中尉のもとには、一部のマスコミや市民団体を経由して多くの日本人から義捐金が寄せられた。また、脱出時に怪我を負った青木大使は、事件直後こそ代理の者を葬儀に向かわせざるを得なかったものの、怪我がまだ回復していないにもかかわらず2人とカルロス・ジュスティ最高裁判事の墓前に向かい冥福を祈った。その後ペルーを訪れる日本の閣僚は必ず2人の墓前を訪れている。
[編集] 大使公邸
事件現場となった大使公邸は、その後リマ市内のサン・イシドロ地区に移転した。新公邸は、二重の塀のため中は窺えず、四方の監視塔、防弾仕様のゲートなど、軍事要塞さながらのガードの固さとなり、また事件当時のようなパーティやレセプションもほとんど行われなくなった。一方、事件現場となった旧公邸は、何年もの間売りに出されているが、2007年11月現在、いまだに買い手はついておらず廃墟と化している。
[編集] フジモリ大統領
フジモリ大統領がこの事件の解決時に果たした決断に対し、日本をはじめとする世界各国は大きな賞賛を浴びせたものの、後にペルー国内の政争に敗北し日本へ亡命する(暗殺計画を察知したという証言もある)ことになる。
- 2000年11月19日 - フジモリがペルー与野党内での反フジモリ運動の高まりから日本に事実上の亡命。
- 2000年11月21日 - ペルー国会がフジモリの辞表を受理せず罷免。その後新政権が発足。
- 2001年3月 - MRTA構成員の墓を掘り起こして再検死。
- 2002年5月 - 特殊部隊の指揮官ら12人に殺人容疑で逮捕状。13日、うち1人を拘束。
- 2003年3月 - ペルー政府からの依頼を受けた国際刑事警察機構が、フジモリを人道犯罪の容疑で国際手配。日本政府は引き渡しを拒否。
- 2003年5月27日 - ペルー政府側の嘱託を受けた東京地裁が、MRTA構成員の生きたままの拘束を目撃していた元人質(当時の日本大使館一等書記官)を証人尋問。
- 2003年5月28日 - 東京地検がフジモリを事情聴取。
- 2004年3月12日 - ペルー検察当局がフジモリに殺人罪で禁錮30年、賠償金約1億ソル(約32億円)を求刑。
[編集] モンテシノス国家情報局顧問
事件後はフジモリ大統領とともに「英雄」扱いされたものの、2000年9月に、同年5月行われた選挙において野党議員に現金を渡し買収しようとしていたビデオが公開されたために、議会やマスコミからの追及を受けることになる。これを受けてフジモリ大統領はモンテシノスが顧問を務めていた国家情報局の閉鎖を命令すると同時に、モンテシノスはフジモリ大統領の庇護のもとパナマへの亡命を画策するが、パナマ政府に拒否されペルーへ戻ることを余儀なくされた。
同時期にペルーのマスコミによって、モンテシノスが汚職や横領、麻薬密輸と麻薬組織のマネーロンダリングに関わっていたことが報じられ、これを受けてペルー与野党内での反フジモリ運動が活発化することになる。この様な状況下でフジモリとモンテシノスはお互いに罪をなすりつけ合うようになり、与野党から責任を問われたフジモリは11月に日本へ亡命し、モンテシノスもベネズエラへ逃亡した。
しかし、フジモリの後を継いでペルー大統領となるアレハンドロ・トレドが2001年5月にベネズエラを訪れ、ウゴ・チャベス大統領にモンテシノスの引き渡しを要請したことから翌月に同国警察によって逮捕され、ペルーの警察当局に引き渡された。その後モンテシノスは数度に渡り、ペルーの裁判所により様々な容疑で有罪判決を受けたものの、その度に上告している。
[編集] MRTA
この事件によってペルー国内だけでなく世界各国からの非難を受けたMRTAは、その主要メンバーの多くをこの事件によって失っただけでなく、国内外からの支援も途絶えたために事実上の活動停止状態に追い込まれた。2007年4月21日には、禁固32年の刑で服役中の指導者ビクトル・ポライは事件の武力解決10周年を期に共同通信へ書簡を寄せ、自らの武力革命路線の敗北を認め武闘路線の放棄を表明した。
[編集] その他
- 歌手の中島みゆきは、本事件の解決のニュースに触発され、『4.2.3』という曲を作成した(1998年発表のアルバム『わたしの子供になりなさい』に収録)。
[編集] 文献
- 青木盛久『人質 ペルー日本大使公邸の126日』クレスト社、1997年10月、ISBN 4877120599
- 石川荘太郎『テロリズムへの敗北 ペルー日本大使公邸占拠事件の教訓』PHP研究所、1998年1月、ISBN 456955914X
- 伊藤千尋『フジモリの悲劇 日本人が問われるもの』三五館、1997年11月、ISBN 4883201279
- 伊藤千尋『狙われる日本 ペルー人質事件の深層』(朝日文庫)朝日新聞社、1997年3月、ISBN 4022611936
- 梅本浩志『国家テロリズムと武装抵抗 鏡としてのペルー・ゲリラ事件』社会評論社、1998年5月、ISBN 4784503722
- NHKスペシャル「ペルー人質事件」プロジェクト『突入 ペルー人質事件の127日間』日本放送出版協会、1998年3月、ISBN 4140803657
- 太田昌国『「ペルー人質事件」解読のための21章』現代企画室、1997年8月、ISBN 4773897139
- 小倉英敬『封殺された対話 ペルー日本大使公邸占領事件再考』平凡社、2000年5月、ISBN 4582824358
- 共同通信社ペルー特別取材班編『ペルー日本大使公邸人質事件』共同通信社、1997年6月、ISBN 4764103842
- 齋藤慶一『人質127日 ペルー日本大使公邸占拠事件』文藝春秋、1998年7月、ISBN 4163542701
- 新川啓介『人質たちの1世紀 ペルー日本大使公邸人質事件と日系人』集英社、1998年4月、ISBN 4087831213
- 平山和充『突入 ペルー・リマ日本大使公邸人質事件もうひとつの真実』新声社、1998年1月、ISBN 4881993933
- アルベルト・フジモリ『アルベルト・フジモリ、テロと闘う』(中公新書ラクレ)中央公論新社、2002年2月、ISBN 4121500350
- 原著: Alberto Fujimori, Mis armas contra el terrorismo