ダイコーター
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ダイコーター | |
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現役期間: | {{{時}}} |
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品種: | サラブレッド |
性別: | 牡 |
毛色: | 鹿毛 |
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生誕: | 1962年6月8日 |
死没: | 1987年1月21日 |
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父: | ヒンドスタン |
母: | ダイアンケー |
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生国: | 日本(北海道浦河町) |
生産: | 鎌田牧場 |
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馬主: | 橋元幸吉 →上田清次郎 |
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調教師: | 柴田不二男(中京) →上田武司(京都) |
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競走成績 | |
生涯成績: | 30戦13勝(うち障害4戦1勝) |
獲得賞金: | 3899万4700円 |
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ダイコーターは、日本の競走馬・種牡馬。1965年に行われた第26回菊花賞の優勝馬である。 全兄のユキロウは、スプリングステークス、全日本3歳優駿などに優勝。 近親には、鳴尾記念を制し菊花賞や宝塚記念で2着に入ったハシクランツがいる。
目次 |
[編集] 出自
1962年6月、浦河町の鎌田牧場にて、ダイアンケーの5番仔として誕生。 母のダイアンケーは、1952年にアメリカから競走馬として輸入された。 現役時代は、中央で8勝を挙げ、小倉の1000メートルの競走でレコード勝ちしたこともあるという短距離馬だった。そのせいか、他のヒンドスタン産駒の活躍馬の血統と比べたらかなり異質である。 牧場時代のダイコーターは、落ち着いた反面、非常に悍性の良い馬だったという。
[編集] 戦績
[編集] 3歳時
1964年10月、京都競馬場の新馬戦で栗田勝を背にデビュー。2着馬に大差をつけての圧勝で初戦を飾った。 続くオープン戦こそ後にライバルとなるキーストンに及ばず3着に敗れたものの、3戦2勝の成績で3歳シーズンを終え、その落ち着いたレース振りからクラシックの有力候補として高い評価を受けていた。
[編集] 4歳時
明け4歳となると、中京のオープン戦、きさらぎ賞と連勝して東上し、スプリングステークスに臨んだ。 6戦無敗のキーストンに1番人気を譲ったが、レースでは逃げる同馬を1馬身4分の3差交わして優勝した。 この勝利で評価が逆転し、皐月賞では1番人気に推されたが、伏兵のチトセオーに脚元をすくわれクビ差の2着に終わった。 続くNHK杯では同馬に雪辱して勝利を飾り、本番の東京優駿(日本ダービー)に向かうこととなった。
この後、シンザンの馬主としても知られる橋本幸吉から、九州の炭鉱主上田清次郎に馬主が変更となる。 本命に推されながら4着に敗れたダイナナホウシユウ以来、上田の東京優駿制覇にかける執念は凄まじいものがあった。 それは、東京優駿の1着賞金が1000万円であるにもかかわらず、推定2500万円とも言われる破格のトレードマネーを支払ったことからもうかがわれる。 東京優駿の最有力馬の馬主が直前に変わることは異例のことであり、大きな話題を集めることとなった。
東京優駿では、スピード血統であるキーストンに比して距離延長は歓迎材料と見られ、1番人気に推された。 しかしレースでは、不良馬場ということもあって、逃げるキーストンを捉えきれず、1馬身4分の3差の2着に終わった。 これ以降ダイコーターは、「ダービーは金では買えない」という例の典型として語られるようになる。
夏を休養に充てたダイコーターは、9月のオープン戦から始動。 これを危なげなく勝利すると、続く神戸杯、オープン戦と連勝を飾って菊花賞に臨んだ。 再び1番人気に推されたダイコーターは、逃げるキーストンを終始マークし、最後の直線では2頭の激しい追い比べの末にキーストンを4分の3馬身突き放して、ついに戴冠した。 鞍上の栗田勝は、騎手として初めて菊花賞2連覇を達成した。三冠馬シンザン打倒の最有力候補として有馬記念出走も期待されたが、万全を期して阪神大賞典に出走するもチトセオーにまさかの惨敗を喫する。そこから歯車が狂い始める。
[編集] 5歳時以降
この後は、天皇賞(春)をステップにアメリカ遠征も計画されるなど高い期待を受けていたダイコーターだったが、喘鳴症を患ったこともあって天皇賞(春)9着など凡走と敗戦を重ねることとなる。 古馬となってからは、小倉でオープン戦を2勝するにとどまり、重賞も勝てなくなると、7歳となった1968年からは障害競走を使われるようになる。 牡馬のクラシック優勝馬が障害入りするのは例の無いことであるため[1]、関係者に対し非難の声も上がったが、結局障害でも1勝をしただけと活躍できないまま引退した。
[編集] 引退後
引退後は、種牡馬として供用されたが、引退するまでの不振もあって期待されてはいなかった。 しかし、ニシノライデンをはじめとして重賞勝ち馬を多数輩出するなど、当時の内国産種牡馬としては成功といえる種牡馬成績を収めた。 1986年には種牡馬からも引退し、鵡川町の西山牧場で余生を送っていたが、翌1987年1月に老衰のため死亡した。
[編集] 主な産駒
- ニシノライデン (京都新聞杯、鳴尾記念、阪神大賞典、サンケイ大阪杯 )
- キタノリキオー (目黒記念(春)、中山記念、札幌記念)
- ホウシュウリッチ (神戸新聞杯)
- ホウシュウミサイル (金鯱賞、小倉記念)
- サクラエイリュウ (ステイヤーズステークス、七夕賞)
- ニシノチェニル (小倉大賞典)
- アイアンシロー (金杯(東))
- プレジデントシチー (朝日チャレンジカップ、小倉記念、ブリーダーズゴールドカップ)
- ホウシュウスカイ (阪神障害ステークス(秋))
- ブゼンダイオー (種牡馬、コスモドリームの父)
[編集] 母の父としての主な産駒
[編集] 年度別競走成績
1964年 (3戦2勝)
1965年 (11戦8勝)
- 1着 - 菊花賞、きさらぎ賞、スプリングステークス、NHK杯、神戸杯
- 2着 - 皐月賞、東京優駿
1966年 (5戦0勝)
1967年 (7戦2勝)
1968年 (4戦1勝)
[編集] 評価
- 20世紀の名馬Dream Horses2000 - 第324位
[編集] 血統表
ダイコーターの血統 (ボワルセル系/アウトブリード) | |||
父
*ヒンドスタン Hindostan 1946 黒鹿毛 |
Bois Roussel 1935 黒鹿毛 |
Vatout | Prince Chimay |
Vasthi | |||
Plucky Liege | Spearmint | ||
Concertina | |||
Sonibai 1939 鹿毛 |
Solario | Gainsborough | |
Sun Worship | |||
Udaipur | Blandford | ||
Uganda | |||
母
*ダイアンケー Dianne K. 1949 栗毛 |
Lillolkid 1941 栗毛 |
Jack High | John P.Grier |
Priscilla | |||
Amaranth | Blue Larkspur | ||
Lespedeza | |||
Bonnie Luna 1941 鹿毛 |
Bon Homme | Sweep | |
Sue Smith | |||
Rockiluna | Rockminister | ||
Markiluna F-No.9-c |
[編集] 脚注
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