ナスノコトブキ
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ナスノコトブキ | |
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品種: | サラブレッド |
性別: | 牡 |
毛色: | 栗毛 |
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生誕: | 1963年4月13日 |
死没: | 1967年5月10日 |
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父: | モンタヴァル |
母: | キクジユヒメ |
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生国: | 日本(栃木県那須町) |
生産: | 那須野牧場 |
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馬主: | 那須野牧場 |
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調教師: | 稲葉秀男(中山) |
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競走成績 | |
生涯成績: | 20戦6勝 |
獲得賞金: | 2635万7900円 |
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ナスノコトブキは、日本の競走馬。皐月賞を制した3歳牡馬チャンピオンニホンピロエース・メジロドーベルの御先祖様として有名な3歳牝馬チャンピオンメジロボサツ等を送り出したモンタヴァルの代表産駒で、1966年菊花賞を制したものの、翌年の天皇賞(春)での骨折が原因で壮絶な最期を遂げた馬である。同期には、ニホンピロエース・メジロボサツの他にテイトオー(日本ダービー)・スピードシンボリ(天皇賞(春)・有馬記念(2回)・宝塚記念)・ワカクモ(桜花賞・テンポイントの母としても有名)・ヒロヨシ(オークス)がいる。
目次 |
[編集] 戦績
年齢は旧表記に統一する。
[編集] 3歳
ナスノコトブキは、1963年4月13日に政治家・河野一郎が心血注いで作り上げた那須野牧場で誕生した。府中・中山に勝るとも劣らない急坂のあるトレーニング用のコースをバテる事無く先頭で走りきる程の能力の高さを誇っていた。河野はこの馬で悲願のクラシック制覇が達成できると思っていたが、移転新築に尽力した新潟競馬場でのデビュー戦を見る事無く急死。ナスノコトブキはデビュー戦を直線で鮮やかに抜け出し快勝。亡きオーナーの期待に応える上々のスタートを切った。だが、その後は思う様な結果を出せず、1965年は4戦2勝で終わった。
[編集] 4歳
クラシックシーズンに突入したナスノコトブキであったが、3歳時に賞金を稼げなかった為に皐月賞出走への見込みが立たず、最後の望みとして出走した皐月賞トライアル・スプリングステークスも3着まで。当時は優先出走権が無かった為、ナスノコトブキの皐月賞出走はならなかった。この一件が優先出走権誕生の切っ掛けとなった。
日本ダービー出走を賭けてNHK杯に参戦したナスノコトブキは、皐月賞出走組を相手に重賞初優勝。ダービー馬有力候補に祭り上げられた。だが、不運にも引き当ててしまった大外28番枠からのスタートが致命傷となり3着惜敗に終わった(優勝・テイトオー)。
その後1戦走ったナスノコトブキは、秋の雪辱を期すべく生まれ故郷・那須野牧場で放牧された。
体調を回復させたナスノコトブキは、新潟で一叩きした後、菊取りの為に京都へと向かった。朝日チャレンジカップで重賞2勝目を挙げたナスノコトブキは、菊花賞制覇の為に極限まで仕上げられた。だが、神経質な気性故にすっかりイレ込んでしまったナスノコトブキは、担当厩務員・平山勝男を蹴り飛ばしてしまったのである。急遽東京から代わりの厩務員を2名送るが、思うように面倒を見切れなかった。その状況を知っていたのか、平山厩務員は病院を抜け出しナスノコトブキの面倒を菊花賞当日迄見たのである。
第27回菊花賞はモノ凄い写真判定となった。長距離特有の淡々としたスローペースに業を煮やした鞍上・森安弘明(現・森安弘昭)は、ナスノコトブキの気性を考え掟破りの淀名物・第3コーナーからスパート。暴走とも取られる仕掛けはゴール直線まで完璧に決まったかと思われたが、大外から野平祐二鞍上のスピードシンボリが強襲。殆ど同時にゴール板を駆け抜けたのである。地元で無かった事もあり両騎手とも負けたと思った勝敗は、20分近い写真判定の末ナスノコトブキに軍配が挙がった。
その後、年末の有馬記念に3番人気で出走したが、菊花賞激走の反動か菊花賞で2着に破ったスピードシンボリ(3着)に後れを取る5着に終わった(優勝・コレヒデ)。
[編集] 5歳
1967年5歳になったナスノコトブキは、緒戦のアメリカジョッキークラブカップこそ6着に沈んだものの、体勢を立て直したオープンは2着に入った。この頃、世代ナンバー1はアメリカジョッキークラブカップを制したスピードシンボリに移ってきていた。4月29日天皇賞・春に出走するべくナスノコトブキは平山厩務員と共に再び京都に向かった。盾取りと世代ナンバー1奪還を果たす為にである。だが、今は亡き河野に面識のある大川慶次郎には、ナスノコトブキの状態は良く見えなかった。彼には「もし河野氏がご存命で参加の是非を聞かれたら『出ない方が良い』と言っただろう」位悪い状態に見えたのである。
大川の予感は、最悪の形で的中してしまう。向こう正面でナスノコトブキは故障発生・競走中止。スピードシンボリ(1着)とカブトシロー(2着)のゴール前での争いの裏で、ナスノコトブキは馬運車に乗せられ馬場を離れた。本来なら即座に予後不良となる骨折だったが、馬主側の要請もあり種牡馬に残すべく必死の治療に当たった。だが、骨が飛び出して出来た傷口から入った細菌が毒素を撒き散らした結果敗血症を発症してしまい、ナスノコトブキは発狂。終には狂乱状態のまま5月10日に京都競馬場の診療所で息を引き取ったのである。
担当厩務員であった平山は、例の古傷の後遺症と愛馬の壮絶な死もあって、東京に戻るときは心ここにあらずの状態であった。その後病に倒れて緊急入院する事になり、そのまま厩務員も辞める。以降、彼が競馬界に戻って来る事は二度と無かった(間もなく亡くなったという話もある)。
因みに、主戦騎手であった森安弘明は、ナスノコトブキの死後、スピードシンボリの主戦であった野平祐二に、「お前の馬(ナスノコトブキ)がいなくなって、俺の馬(スピードシンボリ)の天下になってしまったな」と言われたことがある。
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