ダイユウサク
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ダイユウサク | |
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品種: | サラブレッド |
性別: | 牡 |
毛色: | 鹿毛 |
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生誕: | 1985年6月12日 |
死没: | - |
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登録日: | {{{登}}} |
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父: | ノノアルコ |
母: | クニノキヨコ |
母の父: | {{{母父}}} |
生国: | 日本(北海道門別町) |
生産: | 優駿牧場 |
生産: | {{{生産者}}} |
馬主: | 橋元幸平 |
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調教師: | 内藤繁春(栗東) |
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競走成績 | |
生涯成績: | 38戦11勝 |
獲得賞金: | 376,823,600円 |
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ダイユウサクは日本の競走馬である。1991年の有馬記念で、14番人気にもかかわらず1番人気のメジロマックイーンを内から差し切り、「これはビックリ、ダイユウサク!」と言われた。後述のようにこの有馬記念以降全く勝てなかったので「史上最強の一発屋」などと称された。
目次 |
[編集] 馬名の由来
馬名の由来は、馬主の孫が「コウサク」という名前で「ダイコウサク」と名づける予定が、何かの間違いで「ダイユウサク」になってしまった、という。 当時はデビュー後も馬名を変更できたが、あまりの惨敗続きに、馬主が、「これでは、孫の名前をつけようがない」と、ダイユウサクのまま、競走馬として走り抜けた。
このように手違いから名付けられた馬名であったが、有馬記念優勝時には「ユウサク」という名から当馬を松田優作(前々年の秋に早世)、2着のメジロマックイーンをスティーブ・マックイーンと関連付けて話題にする競馬ファンおよびマスコミも見られた(なおメジロマックイーンの馬名はスティーブ・マックイーンに由来している)。
[編集] 戦績
デビューは体質の弱さもあってか、4歳(旧表記)の1988年10月30日とかなり遅かった。溝橋秀吉(現・調教助手)騎乗で臨むも、結果は勝ち馬から13秒も離された最下位。次走・福島での未勝利戦も7.3秒遅れて最下位。いずれもタイムオーバーに相当するタイムであった。
5歳になった翌年の4月16日、新潟でデビュー5戦目にして初勝利を挙げると、新潟での1戦を経て京都の条件戦で好走。この頃から熊沢重文を主戦にする。好走の勢いで格上挑戦した高松宮杯、基本的には合わなかったダートの貴船Sこそ完敗したものの、自己条件では常に好走。しかし、目一杯使われた反動が出てしばらく休養することになった。
6歳になった1990年は6月のCBC賞から復帰。以後天皇賞(秋)の7着(6着オグリキャップとは半馬身差)を除いて掲示板に載った。秋にトパーズS、飛鳥Sと連勝してオープン入りを果たすと、年明けの1991年の金杯(京都)で初重賞制覇を飾る。産経大阪杯でホワイトストーンの2着に入った後休養し、秋に復帰すると京都大賞典、スワンステークス、マイルCSでも好走した。
マイルCSの後、内藤はある意図をもって12月のオープン特別である阪神競馬場新装記念にダイユウサクを出走させた。内藤は、ここで勝てれば有馬記念に推薦で出走できるのではないか、という読みがあったようである。ダイユウサクは新装記念をあっさりと勝利し(一番人気)、有馬記念の最終登録に名を連ねることとなった。この年の有馬記念は、無敗のまま春のクラシック二冠を制したトウカイテイオーを初めとして、故障で出走を回避した馬が相次いだことから出走馬の層が薄く、ダイユウサクはJRA推薦馬として出走することが可能となった。なお、推薦委員会では「この程度の馬を出しては、伝統ある有馬記念の格が落ちるのではないか」との意見も多かったという。しかし、世間の注目は、天皇賞(秋)、ジャパンカップで運の悪さを見せたメジロマックイーンに集中した。それは単勝1.7倍の圧倒的1番人気という数字に表れ、一方ダイユウサクは単勝137.9倍と、ブービー人気だった。しかし、好位から満を持して先頭に立ったメジロマックイーンを、内ラチ沿いに突っ込んで並ぶ間もなく交わし、2分30秒6というコースレコードで、2着メジロマックイーンに1馬身4分の1差で勝利。ちなみにこのときのタイムは、2003年の有馬記念でシンボリクリスエスにコンマ1秒破られるまでレコードであった。
7歳で有馬記念に勝利したのはスピードシンボリ、グリーングラスに続いて3頭目になる。また、有馬記念の単勝馬券が万馬券となったのは初めてのことであった[1]。このダイユウサクの人気の無さに、馬主の橋元幸平すらも有馬記念に勝てる訳が無いと思い、中山競馬場に観戦に来ず、表彰式では橋元の娘など関係者が代行で表彰式に出席したという逸話も残っている[2]。
翌1992年も現役を続けたものの、6戦していずれも5着以内に入れずこの年限りで引退する。その後種牡馬になったものの、目立った産駒を残せないまま1998年に観光施設(うらかわ優駿ビレッジAERU)に移り余生を送っている。
AERUではニッポーテイオーやウイニングチケットと仲がいい[3]。
牧場での子供時代からおとなしく人懐っこい馬で、それは引退まで変わることはなかったという(優駿牧場の関係者、内藤繁春調教師談)[要出典]。
[編集] 主な勝鞍
有馬記念(GI)、金杯(西)(GIII)、阪神競馬場新装記念。その他旧馬齢5歳時の甲東特別で阪神競馬場1400メートルレコードタイム(当時)を記録。
[編集] 脚注
- ^ 現在に至るまでこの1回のみ。
- ^ 橋元は、娘などに「東京ディズニーランドに行って、そのついでに中山にでも行っておいで」と言っており、有馬記念の方はおまけ扱いであった。
- ^ 『優駿』2006年8月号、P22~23より。
[編集] 血統表
ダイユウサクの血統 ニアークティック系/アウトブリード | |||
父
ノノアルコ 1971 鹿毛 |
Nearctic 1954 黒鹿毛 |
Nearco | Pharos |
Nogara | |||
Lady Angela | Hyperion | ||
Sister Sarah | |||
Seximee 1966 栗毛 |
Hasty Road | Roman | |
Traffic Court | |||
Jambo | Crafty Admiral | ||
Bank Account | |||
母
クニノキヨコ1977 鹿毛 |
ダイコーター 1962 鹿毛 |
*ヒンドスタン | Bois Roussel |
Sonibai | |||
*ダイアンケー | Lillolkid | ||
Bonnie Luna | |||
クニノハナ 1967 黒鹿毛 |
*ネヴァービート | Never Say Die | |
Bride Elect | |||
アキイヅミ | クリノハナ | ||
アサミドリ F-No.2 |
[編集] 外部リンク
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