グレアム・パーカー
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グレアム・パーカー[1](Graham Parker, 1950年11月18日 - ロンドン生まれ)は英国のロック歌手、作曲家である。
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[編集] 来歴
[編集] キャリア初期(1960年代 - 1976年)
1960年代後期および70年代初期、グレアム・パーカーは手袋工場やガソリンスタンドといった仕事で働きながら、 Black Rockers や Deep Cut Three のような英国のローカルバンドで歌っていた。 1975年、まもなくスティッフ・レコード Stiff Records を設立し、パーカーを著名な最初のバックバンドと結びつけたデイヴ・ロビンソン Dave Robinson と、ロンドンで2、3のデモトラックを録音した。
1975年夏に結成されたグレアム・パーカー&ルーモア Graham Parker & Rumour (パーカーおよび、ギターのブリンズレー・シュウォーツ Brinsley Schwarz とマーティン・ベルモント Martin Belmont 、キーボードのボブ・アンドリュース Bob Andrews 、ベースのアンドリュー・ボドナー Andrew Bodnar 、ドラムのスティーブ・グールディング Steve Goulding )は英国のパブロック・シーンを回り始めた。 バンドは、ルーモア・ブラス The Rumour Brass として知られる4名のホーン・セクション: ジョン・“アイリッシュ”・アール John "Irish" Earle (サックス)、クリス・ガウアー Chris Gower (トロンボーン)、ディック・ハンソン Dick Hanson (トランペット)およびレイ・ビーヴィス Ray Bevis (サックス) によって時に増強された。
1976年にリリースされた、バンドの最初のアルバム『ハウリン・ウィンド』 Howlin' Wind は絶賛を受け、スタイル的に類似した『ヒート・トリートメント』 Heat Treatment がすぐに続いた。 ロック、バラード、レゲエに影響されたナンバーが混ざったこれらのアルバムは、パーカーの初期の影響(モータウン、ローリング・ストーンズ、ボブ・ディラン、ヴァン・モリソン)を反映しており、ライブ・ショーの中核となった楽曲、「ホワイト・ハニー」 White Honey 、「ソウル・シューズ」 Soul Shoes 、「レディ・ドクター」 Lady Doctor 、「フールズ・ゴールド」 Fool's Gold 、そして彼の初期のテーマ曲となり英国トップ40ヒットとなった「主よ訊き給うな」 Don't Ask Me Questions を含んでいた。
パーカーとルーモアは、扇動的なライブ・パフォーマーとして評判となった。この頃録音されたプロモーション・アルバム Live at Marble Arch は、彼らの生々しいステージ・スタイルを示している。彼がゆるく結びついていたパブ・ロック・シーンや、この歌手の階級を意識した歌詞と情熱的なボーカルは、英国で開花し始めていたパンク・ロック同様ロック・ミュージックの変革を告げていた。
[編集] 「怒れる若者」としてのパーカー
グレアム・パーカー&ルーモアは、1976年の早い時期にレコーディング・キャリアを築くことにより、いつも比較される他の2人の“ニュー・ウェーブ”の英国シンガー・ソングライター、エルヴィス・コステロ Elvis Costello とジョー・ジャクソン Joe Jackson に先行した。 コステロのファースト・シングルは1977年にリリースされ、ジャクソンのファースト・ソロ・シングルは1978年後半だった。 ジャクソンは1976年4月始めに3枚のノン・チャート・シングルをリリースした Arms & Legs のメンバーでもあったが、それはパーカーとルーモアのデビュー・シングル「シリー・シング」 Silly Thing リリースのちょうど1ヶ月後だった。
キャリア初期、パーカーの仕事はジャクソンやコステロのとの比較が好まれた。その後長きに渡ってジャーナリストは彼等を一緒くたに分類し続け、アーティストの作品が異なっていって久しいにもかかわらず、「怒れる若者たち」の一種としてレッテルを貼り続けている。 パーカーは辛らつなウィットで、この習慣を批判するのを躊躇しなかった。
[編集] 新しい方向 (1977年)
最初の2つのアルバムへの批評家の称賛は LP のセールスとは大体において一致しなかった。グレアム・パーカー&ルーモアは、1977年にBBCテレビの『トップ・オブ・ザ・ポップス』に出演し、 1977年3月に英国トップ30 ヒットとなった The Pink Parker EP からトランプス The Trammps の「ホールド・バック・ザ・ナイト」 Hold Back the Night のカバー・バージョンを演奏した。
この点で、アメリカのマーケットに入り込むことを意識して、パーカーはソング・ライティングのスタイルを変え始めた。この新しい方向の最初の成果は、『スティック・トゥ・ミー』 Stick To Me (1977) に現れた。 アルバムは英国チャートのトップ20入りしたが、特に「ヒート・イン・ハーレム」 The Heat in Harlem のような当時のバンドで最も長いナンバーでは批評家の意見は分かれた。 ニック・ロウ Nick Lowe のプロデュースもまた非難され、一部の批評家は、バンドがか細く聞こえパーカーの声が低くミックスされたと不満を述べた。実際のところそのとき、スタジオでの災難が元のレコーディングを危うくし、グループに短期間でのアルバムの作り直しを強いていた。
[編集] スパーク! (1978-1979年)
一部批評家は、『ヒート・トリートメント』後2年間足踏み状態とパーカーを見なしたが、1978年発表の『ロック・モンスター/グラハム・パーカー・ライブ!』 Parkerilla と呼ばれるグレアム・パーカー&ルーモアの公式ライブ・アルバムは、ルーモアの刺激的なライブ・スタイルが引き続き強力であることを示していた。それは若いミュージシャンへの重大な転機となった。
パーカーは、彼のアメリカでのレコード会社、マーキュリー・レコードの働きに長く不満で、ついに1979年、シングル「マーキュリー・ポイズニング」 Mercury Poisoning を発表し、セックス・ピストルズの「拝啓EMI殿」 EMI の契約破棄を思わせた。
彼の新しいレーベル、アリスタと伝説的プロデューサー、ジャック・ニッチェ Jack Nitzsche の存在にエネルギーを与えられ、パーカーはキャリア最高のアルバムと広く認められている『スパークス!』 Squeezing Out Sparks を付け加えた。このアルバムでは、以前のアルバムすべてで目立っていたルーモアのブラス・セクションは放棄され、パーカーの最も素晴らしい曲のいくつかへの激しいロック・バッキングに置き換わる結果となった。 曖昧ながら妊娠中絶の話題を取り扱ったロック・ミュージックの珍しい曲のひとつ「ユー・キャント・ビー・トゥー・ストロング」 You Can't Be Too Strong は特に注目に値した。
『スパーク!』(1979年)はグレアム・パーカーの最も賞賛されたアルバムである。『スパーク!』は、いまだにファンおよび、評論家にも同様に、これまで造られた最も良いロック・アルバムの1つとしてランク付けされている。『ローリングストーン』誌は、2003年のオールタイム・グレイテスト・アルバム500のリストで335位にした[2]。1987年初めの『ロ-リングストーン』トップ100アルバム1967-1987年のリストでは、『スパーク!』は45位にランクされ、『ハウリン・ウィンド』は54位に入った[3]。パーカーのプロモーション・キャンペーンの一部として米国のラジオ局に送られた姉妹編のライブ・アルバム Live Sparks は、どれだけ曲がステージで映えたかを示しており、別のピリッとした R&B カバー、ジャクソン5 The Jackson 5 の「アイ・ウォント・ユー・バック」 I Want You Back を含んでいた。
ちなみに放棄されたブラス・セクションは、(クラッシュ The Clush のアルバム『ロンドン・コーリング』 London Calling での)アイリッシュ・ホーンズ The Irish Horns やルーモア・ブラス The Rumour Brass としてクレジットされ、他の人々のレコードでプレイを続けた。特に注目されるのはカトリーナ&ザ・ウエイブス Katrina and the Waves の1985年のヒット「ウォーキング・オン・サンシャイン」 Walking On Sunshine である。
[編集] ルーモアの終わり(1980年)
ボブ・アンドリュースは1980年はじめにルーモアを去り公式には交代されなかった。 ただし次のアルバムのスタジオ・セッションではニッキー・ホプキンス Nicky Hopkins とダニー・フェデリシ Danny Federici (Eストリートバンド The E Street Band )がキーボードに就いた。
1980年の『ジ・アップ・エスカレーター』 The Up Escalator は、前作よりはわずかに劣るが英国でのパーカーの最高位チャートのアルバムであり、ジミー・イオヴィン Jimmy Iovine による豪華なプロデュースとブルース・スプリングスティーン Bruce Springsteen のゲスト・ボーカルをフィーチャーしていた。注目すべきはアルバムのフロント・カバーでグレアム・パーカーとだけクレジットされており、「グレアム・パーカー&ルーモア」ではなかった。
『ジ・アップ・エスカレーター』はパーカーのルーモアとのラスト・アルバムとなったが、ギタリストのブリンズレー・シュウォーツは1983年にパーカーと再会し、十年に渡ってこの歌手のアルバムのほとんどでプレイした。 またベーシストのアンドリュー・ボドナーは1988年から90年代中盤にかけてパーカーと再会し、ドラマーのスティーブ・グールディングはパーカーの2001年のアルバム Deepcut To Nowhere でプレイした。
[編集] 商業的成功(1981-1990年)
1980年代は、資金力のあるレコーディングと、ラジオ、ヴィデオでのプレイで、パーカーの商業的に最も成功した年だった。 この年代を通して英国のプレスは冷淡だったが、彼は最上のバック・バンドとのレコーディングと世界ツアーを続けた。『ジ・アップ・エスカレーター』に続く1982年の Another Gray Area は、バック・バンドに有名なセッション・ミュージシャン、ニッキー・ホプキンスとヒュー・マクラケン Hugh McCracken をフィーチャーした。このアルバムは英国40位、米国51位にチャート入りし、英国トップ40シングル Temporary Beauty が生まれた。
スクィーズ Squeeze のギルソン・レーヴィス Gilson Lavis によるドラミングをフィーチャーし、ギタリストの地位へブリンズレー・シュウォーツが復帰した1983年の『ザ・リアル・マッコー』 The Real Macaw は、米国のアルバムチャート59位に当たったが英国チャートは完全に逃し、それほど成功しなかった。ただしパーカーの1985年リリースの「ステディ・ナーヴス」 Steady Nerves (グレアム・パーカー&ショット Graham Parker and The Shot 名義)はまずまず成功し、彼の唯一の米国トップ40ヒット「ウェイク・アップ」 Wake Up (Next to You) を含んでいた。 ショットはブリンズレー・シュウォーツ(ギター)、ジョージ・スモール George Small (キーボード)、ケビン・ジェンキンス Kevin Jenkins (ベース)、およびマイケル・ブラウン Michael Braun (ドラム)の四人組のバックバンドで、全員が『ザ・リアル・マッコー』と『ステディ・ナーヴス』両方でプレイしていた。
『ステディ・ナーヴス』はニューヨークでレコーディングされ、パーカーはこの間、大部分を米国に住み始めた。
彼の音楽への妥協のない態度は、パーカーがメジャーレーベルの音楽ビジネスの優先順位の変化と衝突するのを確実にしたし、レーベルの変化は1980年代中盤後すぐにやって来た。 この状況は、グレアム・パーカーのディスコグラフィにあるコンピレーション・アルバムに、注目すべきナンバーが収められていることを部分的に説明している。特に非生産的だったのはパーカーのアトランティック・レコードとの期間で、他のソングライターと協力して当時流行りの「ビッグ・ドラム・サウンド」に焦点を合わせるよう言われたと語っていた。そうするかわりにパーカーは、(アトランティックで何もリリースすることなく)契約を終え、 RCA レコードに署名した。
パーカーはレコーディングを自身でプロデュースし始め、サウンドをそぎ落とした The Mona Lisa's Sister (1988年)で再び批評家の注目を集めた。それは新しい“モダン・ロック”フォーマットの成功だった。 このアルバムのためのバックバンドは、元ルーモアの仲間シュウォーツ、ボドナーを含む、キーボード奏者にジェームス・ホールウェル James Halliwell とスティーブ・ナイーヴ Steve Nieve 、元ロックパイル Rockpile とダイアー・ストレイツ Dire Straits のドラマー、テリー・ウィリアムス Terry Williams (アンディ・ダンカン Andy Duncan で取られた1曲と、他の2曲でナイーヴ同様エルヴィス・コステロ&アトラクションズ The Attractions のメンバーだったピート・トーマス Pete Thomas に交代)だった。
The Mona Lisa's Sister は1989年の『ローリングストーン』80年代グレイテスト・アルバム100の97位にランクインしている[4]。
[編集] 1990年代
パーカーは1990年代初期を通して RCA へレコーディングを続け、概して批評家の受けは良かったがチャートでの成功は殆ど無かった。 長年のギタリスト、シュウォーツは好評だった1990年のアルバム Human Soul の後、再びパーカーと袂を分かった。
パーカーの1991年発表の Struck By Lightning は、以前のパーカーのリリースよりわずかにルーツ寄りな味を持ち、バックバンドにベーシストのボドナーおよびアトラクションズのドラマー、ピート・トーマスがフィーチャーされただけでなく、キーボードでザ・バンド The Band のガース・ハドソン Garth Hudson がゲスト参加した。 ただし米国131位のアルバムチャート最高位は RCA を満足させるには十分でなく、パーカーはレーベルを解約された。
彼は、素早く盛りかえした。パーカー、ボドナー、トーマスはスタイル・カウンシル The Style Council のキーボード奏者ミック・タルボット Mick Talbot を迎え、このユニットは米国のメジャーレーベル、キャピタル・レコードへ1992年の『バーニング・クエスチョンズ』 Burning Questions をレコーディングした。残念なことにこのレコードは完全にチャートを外し、またもやパーカーは自身のレーベルが無いことに気づいた。
パーカーがより定まった場所をアメリカのインディペンデントレーベル Razor & Tie に見出す前に、1994年のクリスマスをテーマとした EP ( Graham Parker's Christmas Cracker )のリリースが Dakota Arts Records で出された。感動的でパーソナルな 12 Haunted Episodes と1996年の Acid Bubblegum (キーボードにブロンディ Blondie のジミー・デストリー Jimmy Destri をフィーチャー)の後、パーカーは1990年代後期は鳴りを潜めた。しかし彼はかなり定期的にライブをし続け、バックバンドにはたびたびフィッグス The Figgs (ルーモアのように、パーカーをバッキングしないときは別ユニットとしてレコードを出した)を起用した。
[編集] 21世紀に入って
パーカーは2001年、初期のルーモアとの仕事の英国での再発と、 Razor & Tie への3番目のスタジオ・アルバムで、この歌手の人生と目的を包括的に振り返ることを意図するかのような洞察力に富む新曲のコレクション Deepcut to Nowhere とで、非常に活発な期間を開始した。20年ぶりに元ルーモアのドラマー、スティーヴ・グールディングとパーカーはレコーディングし、再会を跡付けもした。
2003年に、パーカーはビートルズ The Beatles にレコーディングされなかった、あまり知られていないジョン・レノン John Lennon / ポール・マッカートニー Paul McCartney 作品のアルバムを録音するために、The B-52's のケイト・ピアソン Kate Pierson と、ビル・ヤノビッツ Bill Janovitz と協力した。『ロスト・ソングス・オブ・レノン&マッカートニー~フロム・ア・ウィンドウ』 From A Window: Lost Songs of Lennon & McCartney と呼ばれるアルバムは、「ピアソン、パーカー、ヤノビッツ」とクレジットされた。
新しいソロの仕事は2004年の Your Country が続き、パーカーがレーベルをシカゴを拠点とするインディーズ Bloodshot Records に変更したことが判明した。 、カントリー・ミュージックへの関心を示した Your Country は、いつものパーカーよりもわずかにルーツ寄りなサウンドとなっていた。
2005年に続いたのは、かつてのバックバンド、フィッグスと短期間でレコーディングされたアップテンポのロックンロール・コレクション Songs Of No Consequence だった。引き続き始まったフィッグスとのツアーからのショーはFMラジオで放送され、2006年のライブ・アルバムとなった。2007年3月、フルレンジの新作『ドント・テル・コロンバス』 Don't Tell Columbus が、パーカーの3年間で4作目のアルバムとしてリリースされた。 『ドント・テル・コロンバス』では、パーカーが商業的成功の不足について「望みを見つけた時、誰もが止めろと言った」と表明する自叙伝的な「ディスカヴァード・アメリカ」 I Discovered America を含む、 復調と呼ぶのは不適当だが、ここ何年かでベストの曲のグレアム・パーカーが認められる。
彼のレコードに加え、1980年パーカーはイラスト入りの SF 短編小説 Great Trouser Mystery を発表した。2000年6月には短編集 Carp Fishing on Valium を出版。3冊目の著作、小説 Other Life of Brian は2003年9月に発表されている。
[編集] ディスコグラフィ
グレアム・パーカー&ルーモア
- 『ハウリン・ウインド』 Howlin' Wind, 1976
- 『ヒート・トリートメント』 Heat Treatment, 1976
- The Pink Parker EP, 1977
- 『スティック・トゥ・ミー』 Stick To Me, 1977
- 『スパーク!』 Squeezing Out Sparks, 1979
- 『ジ・アップ・エスカレーター』 The Up Escalator, 1980
グレアム・パーカー
- Another Grey Area, 1982
- 『ザ・リアル・マッコー』 The Real Macaw, 1983
グレアム・パーカー&ショット
- 『ステディ・ナーヴス』 Steady Nerves, 1985
グレアム・パーカー
- The Mona Lisa's Sister, 1988
- Human Soul, 1989
- Struck by Lightning, 1991
- 『バーニング・クエスチョンズ』 Burning Questions, 1992
- Graham Parker's Christmas Cracker EP, 1994
- 12 Haunted Episodes, 1995
- Acid Bubblegum, 1996
- Loose Monkeys (outtakes), 1999
- That's When You Know (1976 demos + Live at Marble Arch), 2001
- Deepcut To Nowhere, 2001
- Your Country, 2004
- Songs of No Consequence, 2005 (with The Figgs as his backup band)
- 『ドント・テル・コロンバス』 Don't Tell Columbus, 2007
[編集] ライブ
グレアム・パーカー&ルーモア
- Live at Marble Arch, 1976
- At The Palladium, New York, NY, 1977
- 『ロック・モンスター/グラハム・パーカー・ライブ!』 The Parkerilla, 1978
- Live Sparks, 1979
グレアム・パーカー
- Live! Alone in America, 1989
- 『ライヴ・アローン! ディスカヴァリング・ジャパン』 Live Alone! Discovering Japan, 1993
- Live from New York, 1996
- BBC Live in Concert (compilation 1977-91), 1996
- The Last Rock and Roll Tour, 1997 (with The Figgs as his backup band)
- Not If It Pleases Me (BBC sessions 1976-77), 1998
- King Biscuit Flower Hour Presents Graham Parker (live 1983), 2003
- Live Cuts From Somewhere, 2003 (with The Figgs as his backup band)
- Blue Highway, 2003 (Recorded live in Grant Park, Chicago, Illinois on July 4th, 1988)
- !Live Alone: The Bastard of Belgium, 2005
- Yer Cowboy Boot, 2005
- 103 Degrees in June, 2006 (with The Figgs as his backup band)
[編集] コンピレーション
- The Best of Graham Parker and the Rumour, 1980
- Look Back in Anger: Classic Performances, 1982
- It Don't Mean a Thing If It Ain't Got That Swing, 1984
- Pourin' It All Out: The Mercury Years, 1986
- The Best of Graham Parker 1988-1991, 1992
- Passion Is No Ordinary Word: The Graham Parker Anthology, 1993
- No Holding Back, 1996
- Vertigo Compilation, 1996
- Temporary Beauty, 1997
- Stiffs & Demons, 1999
- Master Hits, 1999
- The Ultimate Collection, 2001
- You Can't Be Too Strong: An Introduction to Graham Parker and the Rumour, 2001
- The Official Art Vandelay Tapes, 2003
- The Official Art Vandelay Tapes Vol 2, 2005
[編集] シングル
年 | タイトル | チャート順位 | アルバム | |||
US Hot 100 | US Modern Rock | US Mainstream Rock | UK | |||
1977 | "Hold Back the Nigt" | #58 | - | - | - | The Pink Parker |
1983 | "Life Gets Better" | #94 | - | - | - | The Real Macaw |
1985 | "Wake Up (Next To You)" | #39 | - | - | - | Steady Nerves |
1988 | "Don't Let It Break You Down" | - | #27 | - | - | The Mona Lisa's Sister |
1989 | "Big Man on Paper" | - | #18 | - | - | Human Soul |
[編集] オムニバス、サウンドトラック
- 「ホエン・ザ・ライツ・ゴー・ダウン」 When the Lights Go Down
- 『ハード・トゥ・ホールド』 Hard To Hold, 1984 (映画『ハード・ツー・ホールド』サウンドトラック)収録
- 「パラライズド」 Paralysed (オーティス・ブラックウェル)
- 『ブレイス・ユアセルフ! : ア・トリビュート・トゥ・オーティス・ブラックウェル』 Brace Yourself: A Tribute to Otis Blackwell, 1994 収録
- 「ノー・ウーマン・ノー・クライ」 No Woman No Cry (ボブ・マーリー Bob Marley )
- In Their Own Words, Vol.1, 1994 (ニューヨークのライブハウス、ボトムラインのライブ集)収録
- 「マッドネス・オブ・ラブ」 The Madness of Love (リチャード・トンプソン)
- 『ビート・ザ・リトリート~ソングス・バイ・リチャード・トンプソン』 Beat the Retreat: Songs by Richard Thompson, 1994 収録
- 「エブリデイ・アイ・ハブ・トゥ・クライ」 Every Day I have to Cry (アーサー・アレクサンダー Arthur Alexander )
- 『アディオス・アミーゴ/トリビュート・トゥ・アーサー・アレクサンダー』 Adios Amigo, 1994 収録
- Childhood Sweetheart
- Burnzy's Last Call, 1999 (映画 Burnzy's Last Call のサウンドラック)収録
- 「プア・ミー」 Poor Me (チャーリー・パットン)
- 『ダウン・ザ・ダート・ロード~チャーリー・パットン・トリビュート』 Down the Dirt Road: The Songs of Charley Patton, 2001 収録
- 「ローズ・オブ・イングランド」 Rose of England (ニック・ロウ)
- 『レイバー・オブ・ラヴ~ニック・ロウ・トリビュート』 Labour of Love: the Music of Nick Lowe, 2001 収録
- 「コンフォタブリー・ナム」Comfortably Numb (ピンク・フロイド)
- A Fair Forgery of Pink Floyd, 2003 (ピンク・フロイドのトリビュート・アルバム)収録
- 「ピンク・キャディラック」 Pink Cadillac (ブルース・スプリングスティーン)
- 『ライト・オブ・デイ - ブルース・スプリングスティーン・トリビュート』 Light of Day - A Tribute to Bruce Springsteen, 2005 収録
ピアソン、パーカー、ヤノビッツ
- 『ロスト・ソングス・オブ・レノン&マッカートニー~フロム・ア・ウィンドウ』 From A Window: Lost Songs of Lennon & McCartney, 2003
[編集] 脚注
- ^ 「グラハム・パーカー」のレコードの日本での配給は、日本フォノグラム(現ユニバーサルミュージック)が行なっていたが、 RVC (現 BMG JAPAN )に移った『ザ・リアル・マッコー』(1983年)で「グレアム・パーカー」の表記へと変更された。しかし1985年のワーナーパイオニア(現ワーナーミュージック)配給の『ステディ・ナーヴス』ではグラハム・パーカーに戻り、その後 MSI での『バーニング・クエスチョンズ』(1992)以降は、グレアム・パーカーとなっている。
- ^ "500 Greatest Albums of All Time", Rolling Stone Magazine, Issue 937, December 11, 2003, pages 83-178.
- ^ "100 Greatest Albums from the Last Twenty Years [1967-1987]", Rolling Stone Magazine, Issue 507, August 27, 1987, pages 45-174.
- ^ "100 Greatest Albums of the 80's", Rolling Stone Magazine, Issue 565, November 16, 1989
[編集] 参考文献
- David Roberts, Guinness Book of British Hit Singles - 16th Edition - ISBN 0-85112-190-X
- Tim Rice, Guinness Book of British Hit Albums - 7th Edition - ISBN 0-85112-619-7
- David Roberts, Guinness Rockopedia - ISBN 0-85112-072-5
- M. C. Strong, The Great Rock Discography - 5th Edition - ISBN 1-84195-017-3