重松良典
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重松 良典 | ||
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名前 | ||
カタカナ | シゲマツ ヨシノリ | |
ラテン文字 | SHIGEMATHU Yoshinori | |
基本情報 | ||
国籍 | 日本 | |
生年月日 | 1930年 | |
出身地 | 広島県広島市
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選手情報 | ||
ポジション | FW | |
クラブチーム1 | ||
年 | クラブ | App (G) |
1954-? | 東洋工業 | |
代表歴 | ||
1958 | 日本 | |
重松 良典(しげまつ よしのり、1930年4月 - )は、広島県広島市出身の元サッカー日本代表選手。
1965年日本サッカーリーグ(JSL)創設にあたり、設立準備委員会の経理の担当者となり設立を実現させた人物。元・日本蹴球協会(現・日本サッカー協会)総務主事[1]。
後に野球界に転じ1970年代の「赤ヘル旋風」時の広島東洋カープ球団代表としても著名。
ベルマーレ平塚としての最後の社長でもある。
目次 |
[編集] 来歴・人物
広島県立第一中学校(現・広島国泰寺高校)時代、学徒動員で軍需工場へ出勤途中被爆[2]。同校の福原黎三は1年後輩、広島高等師範附属中学(現広島大学附属高校)の長沼健は同学。戦時とこのライバルチームである広島高師に全国大会の出場は阻まれた。進学した慶應義塾大学ソッカー部で、LW(レフトウイング)の名選手として鳴らし、全日本選手権大会(天皇杯の前身)1951年、1952年の慶應二連覇の立役者となった。1954年、卒業。
その後東洋工業に入社。同じく慶應義塾大学の黄金期を創った高校・大学の先輩小畑実監督下で、下村幸男・銭村健次・樽谷明らととも東洋工業サッカー部黄金期の原動力となった。 1954年全日本実業団サッカー選手権大会でチーム初のベスト4、この年は実業団チームとして史上初の全日本選手権決勝に進出。決勝戦、後輩でもある慶應BRBとの第4延長3時間に及ぶ3-5の死闘は、疲労で意識不明者も出した日本サッカー史に残る名勝負といわれる。同年と翌1955年の全日本実業団はライバル・田辺製薬にいずれも敗れ準優勝。しかし翌1956年の同大会は田辺製薬の7連覇を阻み初優勝した。1957年同大会準優勝、全日本選手権準優勝。この年の天皇杯決勝は高校のグラウンド、重松の母校・国泰寺高校の校庭で行われた珍しさでも知られる。試合は重松のシュートで先制するも中大クラブに逆転負けして準優勝に終わった。 1958年、第3回アジア競技大会(東京)で全日本(日本代表)に初選出され、5月28日対香港戦にて初キャップ。
現役引退後、東洋工業東京支社の経理課にいた経験を活かし、JSL創設の設立準備委員会の経理の担当者となり西村章一、長沼健、岡野俊一郎らと陣頭指揮を執り設立を実現させた。中心となったのはこの4名である[3]。その後も日本蹴球協会総務主事、主幹として初期JSLの運営にあたった。
1968年の藤和不動産サッカー部(のちのフジタSC・ベルマーレ平塚、現・湘南ベルマーレ)の設立に下村幸男・石井義信らと共に携わった[4]。
その後東洋工業にもどり総務課長などを勤めたあと、1974年広島東洋カープ球団代表に就任、3度のリーグ優勝と2度の日本一をもたらす(下記参照)。
その後は、日本サッカー協会専務理事などを務め、1981年フジタ工業(現・フジタ)に転じ、1997年からフジタの子会社でJリーグ・ベルマーレ平塚社長に就任、ベルマーレ平塚としての最後の社長でもある。1998年中田英寿のイタリアセリエA・ACペルージャ移籍にも尽力し、2000年に退任した。
2000年、Jリーグ参与に。現在は、地元広島に在住。
[編集] 主な経歴
[編集] 広島東洋カープ球団代表
1974年、西野襄の後を受け球団代表に就任すると、ジョー・ルーツを打撃コーチとして招聘、翌1975年監督就任させた。日本球界では初のメジャーリーグ出身外国人監督である。チームカラーを紺色から燃える闘志を表す赤色に変更させ、「赤ヘル旋風」の陰の仕掛人とも言われている。
1975年4月27日、佐伯和司投手のボール判定にルーツは激高し審判に暴行、退場処分を命じられたがそれに従わず、審判団の要請を受けた重松が説得し、その場は引き下がったが、その日のダブルヘッダー第2試合を前に選手を集め「今後広島の指揮は執らない」と言い残して球場を後にした。その後、重松は慰留に努めたが、ルーツは契約でグラウンドでは全権を与えるとしてあったのにもかかわらず、重松がグラウンドに乗り出して説得を行ったことに対し権限をおかされたと主張。結局翻意させることはできず、わずか15試合のみの指揮で監督を辞任した。
同年、後任監督の古葉竹識のもと球団初優勝。ちなみに平和大通りで行われた優勝パレードはファン約30万人を集め、空前の盛り上がりを見せた(これが現在5月の連休に行われているフラワーフェスティバルの発端となる)。その後も江夏豊らの戦力をトレードで確保し戦力を整えると、3度のリーグ優勝と2度の日本一に輝き、黄金時代を築いた。 また、米教育リーグへのチームごとの参加のほか、他球団に先駆けて日南や大野の屋内練習場建設などを行った。
1981年、リーグ3連覇が期待されていたが2位で終わったことに端を発し、10月6日に辞任(11月10日退団)、後任は野崎泰一が勤めた。
[編集] 日本サッカー協会
サッカー協会の重鎮として数々のことにかかわっており、主だったものでも1965年の日本サッカーリーグ(JSL)、1993年のJリーグの設立にかかわっている。特にJSLの創設では中心人物の一人であった。そのほかにも2002年のワールドカップ開催にも尽力している。
また1976年の日本蹴球協会の政変[5]や、1995年ネルシーニョの日本代表監督内定騒動(いわゆる「腐ったミカン」事件)など日本サッカー界の影の部分にも多くかかわっている。
[編集] 略歴
- 広島県立第一中学校
- 慶應義塾大学
- 1954年 - ?年 : 東洋工業サッカー部
- ?年 - ?年 : 日本蹴球協会総務理事
- ?年 - 1973年 : 東洋工業総務課長
- 1974年 - 1981年 : 広島東洋カープ球団代表
- ?年 - ?年 : 日本サッカー協会専務理事
- 1981年 - ?年 : フジタ工業
- 1997年 - 2000年 : 湘南ベルマーレ社長
- 2000年 : Jリーグ参与
[編集] 代表歴
[編集] 出場大会
- アジア競技大会(1958)
[編集] 試合数
- 国際Aマッチ 1試合 0得点(1958)
日本代表 | 国際Aマッチ | その他 | 期間通算 | |||
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年 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 |
1958 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 |
通算 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 |