藤和不動産サッカー部
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藤和不動産サッカー部(とうわふどうさんサッカーぶ)は藤和不動産のサッカー部。現在Jリーグ ディビジョン2 所属の湘南ベルマーレの前身となったクラブである。
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[編集] 歴史
1968年、広島出身の藤田一族の経営する藤和不動産が新たに栃木県那須に創設。東洋工業の黄金期を創った石井義信を迎え強化を図り、栃木県リーグ四部に参加、1試合平均15得点とあまりの強さに、一部リーグとの入れ替え戦を許され、翌1969年栃木県リーグで優勝。関東リーグ二年目の1971年、全国社会人サッカー選手権大会で優勝し、日本サッカーリーグ(JSL)入れ替え戦に出場、名古屋相互銀行を下しJSL昇格。この年さらに東洋工業を5度のJSL優勝に導いた下村幸男を監督に迎えた。創部からトップリーグまで3年しかかからなかった事になる。
1975年、後期リーグから藤和の親会社のフジタ工業に転籍し、フジタ工業クラブサッカー部と改称、本拠地を東京に移した。その後フジタ工業のサッカー部となり呼称はフジタ。後に社名変更でフジタサッカークラブになった事で、呼称との区別は無くなった。JSLからのサッカーファンにとっては、強かった時代のセレソン風の黄色いユニフォームと「フジタ工業」の名でよく知られる。
本場ブラジルのプロ選手であったセルジオ越後を獲得する等、ブラジル出身の技巧派選手を揃え攻撃的なブラジルサッカーで席巻した事でも知られる。セルジオが去った後にマリーニョ、カルバリオ、セイハン比嘉らの活躍で、1977-78年シーズンを史上最多得点(64得点)でJSLを初制覇すると1979-80年、1981-82シーズンと3度JSLを制覇した。また1977年、1979年と天皇杯も2度優勝した。
ブラジル風サッカーと云えば後年読売クラブの代名詞となったが、それ以前に実現し、またプロ化を目指した先駆的なクラブであった。
1991/92年の最後となった日本リーグ2部でピッタらを擁して優勝し、翌シーズンの第1回ジャパンフットボールリーグ1部(通称J1)に参加した。翌1993年にはJリーグ参加を目指して日立、ヤマハと共にJリーグ準会員となり、それに併せてチームの愛称を湘南ベルマーレとし、またホームタウンをそれまでにも試合を開催していた平塚市とした。翌1994年にベルマーレ平塚としてJリーグに参加している。
現在、アルビレックス新潟監督の鈴木淳や筑陽学園監督・吉浦茂和、2002年日韓W杯・2006年ドイツW杯2大会連続主審を務める上川徹など優秀な指導者・人材も輩出している。
[編集] 略歴と主なタイトル
- 1968年 創部
- 1972年 JSL1部昇格
- 1975年 フジタ工業クラブサッカー部に変更(東京移転)
- 1990年 JSL2部降格、フジタサッカークラブに変更
- 1992年 JSL2部優勝、第1回J1に参加
- 1993年 チーム愛称を湘南ベルマーレに変更、第2回J1優勝
[編集] 天皇杯
[編集] 日本サッカーリーグ
- 1977年、1979年、1981年
[編集] JSLカップ
- 1973年(スペシャルカップ)
[編集] 過去の成績
年度 | カテゴリ | 順位 | 勝点 | 勝 | 分 | 敗 | 得点 | 失点 | 監督 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1968 | 栃木県4部 | 優勝 | ? | ? | ? | ? | ? | ? | 黒木芳彦 |
1969 | 栃木県1部 | 優勝 | ? | ? | ? | ? | ? | ? | |
1970 | 関東 | 2位 | 21 | 8 | 5 | 1 | 31 | 13 | |
1971 | 関東 | 優勝 | 24 | 11 | 1 | 2 | 51 | 12 | |
1972 | JSL1部 | 8位 | 6 | 2 | 2 | 10 | 11 | 29 | 下村幸男 |
1973 | JSL1部 | 4位 | 21 | 9 | 3 | 6 | 29 | 22 | |
1974 | JSL1部 | 8位 | 16 | 5 | 6 | 7 | 25 | 30 | |
1975 | JSL1部 | 7位 | 13 | 5 | 3 | 10 | 19 | 31 | 石井義信 |
1976 | JSL1部 | 3位 | 22 | 9 | 4 | 5 | 28 | 20 | |
1977 | JSL1部 | 優勝 | 60 | 14 | 1PK勝 2PK敗 | 1 | 64 | 15 | |
1978 | JSL1部 | 3位 | 46 | 9 | 3PK勝 4PK敗 | 2 | 35 | 14 | |
1979 | JSL1部 | 優勝 | 53 | 12 | 1PK勝 3PK敗 | 2 | 36 | 15 | |
1980 | JSL1部 | 2位 | 23 | 10 | 3 | 5 | 33 | 19 | |
1981 | JSL1部 | 優勝 | 27 | 11 | 5 | 2 | 24 | 7 | 中村勤 |
1982 | JSL1部 | 4位 | 20 | 8 | 4 | 6 | 26 | 21 | |
1983 | JSL1部 | 3位 | 21 | 7 | 7 | 4 | 18 | 15 | |
1984 | JSL1部 | 6位 | 18 | 6 | 6 | 6 | 25 | 25 | |
1985 | JSL1部 | 4位 | 26 | 9 | 8 | 5 | 31 | 17 | 花岡英光 |
1986-87 | JSL1部 | 8位 | 22 | 8 | 6 | 8 | 24 | 22 | |
1987-88 | JSL1部 | 9位 | 18 | 6 | 6 | 10 | 16 | 20 | |
1988-89 | JSL1部 | 4位 | 36 | 10 | 6 | 6 | 34 | 20 | 石井義信 (総監督) |
1989-90 | JSL1部 | 11位 | 17 | 4 | 5 | 13 | 17 | 30 | |
1990-91 | JSL2部 | 3位 | 70 | 21 | 7 | 2 | 60 | 15 | 古前田充 |
1991-92 | JSL2部 | 優勝 | 74 | 24 | 2 | 4 | 79 | 17 | |
1992 | JFL1部 | 3位 | 31 | 6 | 4 | 5 | 37 | 22 | |
1993 | JFL1部 | 優勝 | _ | 16(0延長 0PK) | _ | 2(1延長 0PK) | 49 | 12 |
[編集] 歴代監督
[編集] 藤和不動産、フジタサッカー部に所属した主な選手
- セルジオ越後
- 安藤正俊
- カルバリオ
- セイハン比嘉
- 古前田充
- 上田栄治
- マリーニョ
- 植木繁晴
- ピッタ
- 手塚聡
- 信藤健仁(信藤克義)
- 鈴木淳
- 宮澤ミシェル
- 高木琢也
- 谷中治
- ホルヘ平野
- 野村貢
- 高橋貞洋
- カルロス
- ミランジーニャ
[編集] 藤和不動産からJリーグ参加、湘南ベルマーレに至る経緯
発足は栃木県。藤和不動産の藤田正明社長が、欧州や南米のようなプロクラブを目指し、那須高原の藤和ハイランド内に施設を建設、クラブを発足させた。チームが急激に力を付けると、フジタグループ全体でサポートする事になり、フジタ工業クラブサッカー部に変更、本拠地を東京に移した。
しかしこの事が、かえって当初の目標からは離れてしまったともいわれる。JSLにいながら、常にプロ化へのプレッシャーをかけ続けた読売サッカークラブとはこの点では違うかも知れない。1990年前後にはチーム力がやや落ちたが、藤田正明の後を継いだ正明の甥・藤田一憲オーナーも、とてもサッカー好きだったこともあって、Jリーグ創設に際しては参加を強く希望し候補の一つとなった。
しかしJリーグ参加の大きな条件にフランチャイズ制があったため、関東に候補チームが集中し、東京にチームを置くフジタには不利となった。当確といわれたマツダ(サンフレッチェ広島)が降りると言った時、川淵三郎が「(会社発祥の地でもある)広島でやってくれるなら無条件で参加を認める」と打診したが、「もう関東の会社なので」と拒否。さらに浦和市に本拠地を置いてやると決まりかけていたホンダが降りた時も、三菱自動車に先を越されたといわれる。
この後、平塚市長の熱心な誘いもあり本拠地を平塚市として、1994年から湘南ベルマーレ~ベルマーレ平塚としてJリーグに参加。中田英寿を始め才能のある若手選手を大胆に起用し、一時強豪チームとして鳴らした点は、関係者の高い手腕として評価される。しかしバブルの崩壊で、最も打撃を受けた業種の一つである建設業が親会社だった事もあり、1990年代後半、フジタの経営難が深刻化。主力選手を次々と放出するなど経営に苦心した。キャンプを近くの湘南海岸で行う年もあった。しかしフジタが止むを得ずチームから完全に手を引く時も、チームの累積赤字は全部きれいにして去ってくれたといわれ、現在も当地を本拠地として存続出来ているのはこの理由もあると思われる[要出典]。