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平将門 - Wikipedia

平将門

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

築土神社旧蔵の平将門像
築土神社旧蔵の平将門像

平 将門(たいら の まさかど 平 將門延喜3年(903年)? - 天慶3年2月14日940年3月25日))は、平安時代中期の武将。通称は相馬小次郎・滝口小次郎。

桓武天皇の子孫で、平氏の姓を授けられた、高望王(たかもちおう)の孫。鎮守府将軍平良将(平良將 たいらのよしまさ/良持=よしもちとも[1])の子。下総国常陸国に広がった平氏一族の抗争に端を発し、関東諸国の国衙を襲い、印鑰を奪ったことから朝廷から敵と見なされた。京都の朝廷に対抗して独自に天皇に即位し、「新皇」を名乗った。朝廷からの独立国建設を目指したが藤原秀郷平貞盛らにより討伐された(承平天慶の乱)。死後は築土神社神田明神国王神社などに祀られる。武士の発生を示すとの評価もある。

目次

[編集] 生涯

[編集] 生い立ちと平氏一族の争い

父の平良将は、下総国佐倉が領地と伝えられ、佐倉市将門と地名も残るが、根拠となる史料は無い。また、母[2]の出身地である相馬郡で育ったことから「相馬小次郎」と称したとされているが、これは相馬郡に勢力があったということではなく、実際の勢力範囲は同国の豊島猿島両郡であったと考えられている。将門は地方より平安京へ出て、藤原北家の氏長者であった藤原忠平と主従関係を結ぶが、父良将が急死したために領国へ戻る。以後「平将門の乱」の発端となる争いがおこるのだが、原因についていくつかの説があり、確定はされていない。長子相続制度の確立していない当時、良将の遺領は伯父の国香(國香)や良兼に独断で分割されていたため争いが始まったとされている説、『将門記』などによる、常陸国茨城県)前大掾源護の娘、或いは良兼の娘を巡り争いが始まったとする説、源護と平真樹の領地争いへの介入によって争いが始まったとする説[3]などがある。また、将門が当初は伯父らと争っているため、「坂東平氏一族の争い」と見られがちだが、国香・良兼・良正は源護の娘を娶っており、将門の父の良将とは違うことから、「源護・源護の縁者と将門の争い」ではないかとも言われている。

承平5年(935年)2月に将門は源護の子・らに常陸国真壁郡野本(筑西市)にて襲撃されるが、これらを撃退し扶らは討ち死にする。そのまま将門は大串・取手(下妻)から護の本拠である真壁郡へ進軍して護の本拠を焼き討ちし、その際伯父の国香を焼死させた。同年10月、源護と姻戚関係にある一族の平良正は軍勢を集め鬼怒川沿いの新治郷川曲(八千代町)に陣を構えて将門と対峙するが、将門は良正の軍をも撃破する。将門に敗れた良正は良兼に救いを求め、静観していた良兼も国香亡き後の一族の長として放ってもおけず、国香の子の平貞盛を誘って軍勢を集め、承平6年(936年)6月26日上総国を発ち将門を攻めるが、将門の奇襲を受けて敗走、下野国栃木県)の国衙に保護を求めた。将門は下野国国府を包囲するが、一部の包囲を解いてあえて良兼を逃亡させ、その後国衙と交渉して自らの正当性を認めさせて帰国した。

同年、源護によって出された告状によって朝廷から将門と平真樹に対する召喚命令が出て、将門らは平安京に赴いて検非違使庁で訊問を受けるが、承平7年(937年)4月7日の朱雀天皇元服の大赦によって全ての罪を赦される。帰国後も、将門は良兼を初め一族の大半と対立し、8月6日には良兼は将門の父良将や高望王など父祖の肖像を掲げて将門の常羽御厩を攻めた。この戦いで将門は敗走、良兼は将門の妻子(良兼の娘と孫とされる)を連れ帰る。だが弟たち(『将門記』には「舎弟と語らいて」とあり公雅公連とされている)の手助けで9月10日に再び出奔し将門の元に戻ってしまった。妻子が戻ったことに力を得た将門は朝廷に対して自らの正当性を訴えるという行動に出る。そこで朝廷は同年11月5日に1つの太政官符を出した。従来、この官符は平良兼、平貞盛、源護らに対して出された将門追討の官符であると解釈されてきたが、前後の事実関係とのつながりとの食い違いが生じることから、これを公的には馬寮に属する常羽御厩を良兼・貞盛らが攻撃してしまったことによって良兼らが朝廷の怒りを買い、彼らへの追討の官符を将門が受けたと解釈する説が有力となっている。いずれにしてもこれを機に将門は良兼らの兵を筑波山に駆逐し、それから3年の間に良兼は病死し、将門の威勢と名声は関東一円に鳴り響いた。

天慶2年(939年)2月、武蔵国へ新たに赴任した権守興世王(出自不明)と介源経基清和源氏の祖)が、足立郡の郡司武蔵武芝との紛争に陥った。将門が両者の調停仲介に乗り出し、興世王と武蔵武芝を会見させて和解させたが、武芝の兵がにわかに経基の陣営を包囲(経緯は不明)し、驚いた経基は京へ逃げ出してしまう。京に到着した経基は将門、興世王、武芝の謀反を朝廷に訴えた[4]。将門の主人の太政大臣藤原忠平が事の実否を調べることにし、御教書を下して使者を東国へ送った。驚いた将門は上書を認め、同年5月2日付けで、常陸・下総・下野・武蔵・上野5カ国の国府の「謀反は事実無根」との証明書をそえて送った。これにより朝廷は将門への疑いを解き、逆に経基は誣告の罪で罰せられた。将門の関東での声望を知り、朝廷は将門を叙位任官して役立たせようと議している。

この時期には将門と敵対者の戦いはあくまでも私戦(豪族間の個人的ないざこざ)とみなされ、国家に対する反乱であるという認識は朝廷側にはなかったと考えられている。

[編集] 平将門の乱

この頃、武蔵権守となった興世王は新たに受領として赴任してきた武蔵国守百済貞連と不和になり、興世王は任地を離れて将門を頼るようになる。また、朝廷への租税を滞納していたことにより追捕令が出ていた常陸国の藤原玄明が庇護を求めると将門は玄明を匿い常陸国府からの引渡し要求を拒否した。そのうえ天慶2年11月21日(939年)、軍兵を集めて常陸府中(石岡)へ赴き追捕撤回を求める。常陸国府はこれを拒否するとともに宣戦布告をしたため、将門はやむなく戦うこととなり、将門は手勢1000人余ながらも国府軍3000人をたちまち打ち破り、常陸介藤原維幾はあっけなく降伏。国衙は将門軍の前に陥落し、将門は印綬を没収した。[5]結局この事件によって、不本意ながらも朝廷に対して反旗を翻すかたちになってしまう。将門は側近となっていた興世王の「案内ヲ検スルニ、一國ヲ討テリト雖モ公ノ責メ輕カラジ。同ジク坂東ヲ虜掠シテ、暫ク氣色ヲ聞カム。」との進言を受け、同年12月11日下野国府を占領し、続いて迎撃に出兵した上野藤原尚範(同国は親王任国のため、介が最高責任者。藤原純友の叔父)を捕らえて助命する代わりに印綬を接収して国外に放逐、19日には指揮官を失った上野国府を落とし、関東一円を手中に収めて「新皇」を名乗り天皇に即位、独自に除目を行い岩井(茨城県坂東市)に政庁を置いた。また、この新皇僭称に際して舎弟平将平、小姓伊和員経らに諫言されるも聞き入れなかった。

  • 新皇将門による諸国の除目と素性
    • 下野守:平将頼(将門弟)
    • 上野守:多治経明(陣頭・常羽御廐別当)
    • 常陸介:藤原玄茂(常陸掾)
    • 上総介:興世王(武蔵権守)
    • 安房守:文屋好立(上兵)
    • 相模守:平将文(将門弟)
    • 伊豆守:平将武(将門弟)
    • 下総守:平将為(将門弟)

なお、天長3年(826年)9月、上総・常陸・上野の三か国は親王が太守(正四位下相当の勅任の官)として治める親王任国となったが、この当時は既に太守は都にいて赴任せず、代理に介が長官として派遣されていた。したがって坂東王国であるなら介というのは制度上太守が存在することになるが、ここでの常陸、上総の介は慣習上の長官という意味か、新皇直轄という意味か、将門記の記載のとおり朝廷には二心がなかったという意味なのかは不明である。

  • 補足

王城下総国の亭南(猿島郡石井という説がある)と定め、檥橋を京の山崎相馬郡大井の津を大津になぞらえて、左右大臣・納言参議など文武百官を任命し、内印・外印を鋳造し、坂東に京に模した国家を樹立しようとしたされている。

将門謀反の報はただちに京都にもたらされ、また同時期に西国で藤原純友の乱の報告もあり、朝廷は驚愕する。直ちに諸社諸寺に調伏の祈祷が命じられ、翌天慶3年(940年)1月9日には源経基が以前の密告が現実になったことが賞されて従五位下に叙され、1月19日には参議藤原忠文が征東大将軍に任じられ、忠文は屋敷にかえる事無く討伐軍長官として出立したという。

同年1月中旬、関東では、将門が兵5000を率いて常陸国へ出陣して、平貞盛と維幾の子為憲の行方を捜索している。貞盛の行方は知れなかったが、貞盛の妻と源扶の妻を捕らえた。将門は兵に陵辱された彼女らを哀れみ着物を与えて帰している。将門は下総の本拠へ帰り、兵を本国へ帰還させた。『将門記』では「然ルニ新皇ハ、井ノ底ノ浅キ励ミヲ案ジテ、堺ノ外ノ広キ謀ヲ存ゼズ。」と、この将門の一連の行動を”浅はか”であると評しており、事実その足場を固めねばならない大事な時期に貞盛らの捜索のために無駄に時間と兵力を使ったことは、後々の運命を見ると致命的となったと言える。

間もなく、貞盛が下野国押領使藤原秀郷と力をあわせて兵4000を集めているとの報告が入る。将門は諸国から召集していた軍兵のほとんどを帰国させていたこともあり手許には1000人足らずしか残っていなかった。時を移しては不利になると考えて2月1日出陣、将門の副将藤原玄茂の武将多治経明と坂上遂高らは貞盛・秀郷軍を発見すると将門に報告もせずに攻撃を開始、しかし玄茂軍は敗退してしまう。貞盛・秀郷軍はこれを追撃し下総国川口にて将門軍と合戦になり将門自ら陣頭に立って奮戦し貞盛・秀郷らもたじろぐが、時が経つにつれ数に勝る官軍に将門軍は押され、ついには退却を余儀なくされた。

将門は、地の利のある本拠地に敵を誘い込み起死回生の大勝負をしかけるため、幸嶋郡の広江に隠れる。しかし貞盛・秀郷らはこの策には乗らず、勝ち戦の勢いを民衆に呼びかけ更に兵を集め、藤原為憲も加わり、2月13日将門の本拠石井に攻め寄せ焼き払う「焦土作戦」に出た。これによって民衆は住処を失い路頭に迷うが、追討軍による焼き討ちを恨むよりも、将門の「悪政」を嘆いたといい、既に民心は将門から離れていた。当の将門は身に甲冑をつけたまま貞盛らの探索をかわしながら諸処を転々とし、反撃に向けて兵を召集するが形勢が悪くて思うように集まらないために攻撃に転ずることもままならず、僅か手勢400を率いて幸嶋郡の北山に陣をしいて味方の援軍を待つ。しかし、味方の来援よりも先にその所在が敵の知ることとなり寡兵のまま最後の決戦の時を迎えることとなった。

2月14日未申の刻(午後3時)、連合軍と将門の合戦がはじまった。北風が吹き荒れ、将門軍は風を負って矢戦を優位に展開し、連合軍を攻め立てた。貞盛方の中陣が奇襲をかけるも撃退され、貞盛・秀郷・為憲の軍は撃破され軍兵2900人が逃げ出し、わずかに精鋭300余を残すこととなってしまう。しかし勝ち誇った将門が自陣に引き返す途中、急に風向きが変わり南風になると、風を負って勢いを得た連合軍はここぞとばかりに反撃に転じた。将門は自ら馬を駆って陣頭に立ち奮戦するが、風のように駿足を飛ばしていた馬の歩みが乱れ、将門も武勇の手だてを失い、いずくからか飛んできた矢が将門の額に命中し、あえなく討死した[6]

その首は平安京へ運ばれ、晒し首となる。獄門が歴史上で確認される最も古い確実な例が、この将門である。

この将門の乱は、ほぼ同時期に瀬戸内海藤原純友が起こした乱と共に、「承平天慶の乱」と呼ばれる。

[編集] 評価の変遷

関東一円では、武芸に優れているばかりでなく、世に受け入れられない者の代弁に努めたという将門は、その壮絶で悲劇的な死とも相まって、長い間、逸話伝説として人々に語り継がれている。これは、将門が、重い負担を強いられ続けられた東国の人々の代弁者として捕らえられた為だと考えられる。

中世、将門塚(平将門を葬った墳墓)の周辺で天変地異が頻繁に起こることがあり、これを将門の祟りと恐れた当時の民衆を静めるため、時宗の遊行僧・真教によって神と祀られ、延慶2年(1309年)には神田明神に合祀されることとなった。

神田明神は戦国時代の太田道灌・北条氏綱等の武将が武運祈願のため崇敬するところとなり、さらに関ヶ原の戦いの際には徳川家康戦勝祈祷を行った。このようなことから、江戸時代には幕府により、平将門を祭る神田明神は江戸総鎮守として重視された。

また、将門の朝敵としての汚名は江戸幕府三代将軍徳川家光の時代に、勅使として江戸に下向した大納言烏丸光広が幕府より将門の事績について聞かされ、「将門は朝敵に非ず」との奏上により、除かれている。

なお、神田明神は幕府によって江戸城鬼門にあたる現在地に遷座されたと言われる。これは、徳川氏が朝廷に反逆した将門を将軍居城の鬼門に据えることにより、幕政に朝廷を関与させない決意の現われだという。神田明神の「かんだ」は、首を斬られて殺された将門の胴体、つまり「からだ」が変化したものという説もあるし、坂東市内の胴塚周辺の地名は「神田山(かどやま)」である。

明治維新後は、将門は朝廷に戈を向けた朝敵であることが再び問題視され、逆賊として扱われた。そして明治7年(1874年)には、教部省の指示により神田明神の祭神から外され、将門神社に遷座されてしまう。

第二次世界大戦終結後は、朝廷の横暴な支配に敢然と立ち向かい、新皇に即位して新たな時代を切り開いた英雄として扱われることが多くなった。なお、昭和59年には平将門神は再度、神田明神に合祀されている。

このように将門の評価は、古代の朝敵から、中世の崇敬対象へ、さらに明治時代の逆賊視、ついで戦後の英雄化と激しく揺れ動いた。最近ではより学術的な面からの研究が期待されている。

[編集] 伝説

将門伝説の研究者である村上春樹(元高校教諭の郷土史家、同名の小説家とは別人)は将門伝説を以下のように分類している。[7]

  1. 冥界伝説(地獄に堕ちた将門の伝説)
  2. 調伏伝説
  3. 祭祀伝説(将門を祀った神社)
  4. 王城伝説(将門が建設した都の伝説)
  5. 首の伝説
  6. 鉄身伝説(将門はこめかみにだけ弱点があると言う伝説)
  7. 七人将門の伝説(将門の影武者の伝説)
  8. 東西呼応の伝説
  9. 将門一族の伝説
  10. 追討者の伝説

[編集] 調伏伝説

千葉県成田市成田山新勝寺は、東国の混乱をおそれた朱雀天皇の密勅により海路(陸路は日数を要す)下向した寛朝僧正が、対将門勢の士気を鼓舞するために祈祷を行ったとされる場所に、言い伝えによって建てられた寺院である。このため、将門とその家来の子孫は、1080年以上たった今でも成田山新勝寺へは参詣しないという。また、生い立ちにもある佐倉市将門に古くから住む人々も、参詣しない家が多く残り、かつて政庁が置かれた坂東市の一部にも参拝を良しとしない風潮が残るとされる。築土神社神田神社(神田明神)の氏子も、成田山新勝寺へ詣でると、産土神である平将門命の加護を受けることができなくなるとの言い伝えにより、参詣しない者が多い。大河ドラマ風と雲と虹と」の出演者も、成田山新勝寺の節分豆まきへの参加辞退をした。

[編集] 首の伝説

「史蹟神田神宮」京都市下京区新釜座町(四条通西洞院東入ル)には、民家に埋もれる様にして小さな祠がある。「天慶年間平将門ノ首ヲ晒(さら)シタ所也(なり)」と由緒書きにはある。

言い伝えでは討ち取られた首は京都の七条河原にさらされたが、何ヶ月たっても眼を見開き、歯ぎしりしているかのようだったといわれている。ある時、歌人の藤六左近がそれを見てを詠むと、将門の首が笑い、突然地面が轟き、稲妻が鳴り始め、首が「躯(からだ)つけて一戦(いく)させん。俺の胴はどこだ」と言った。声は毎夜響いたという。そして、ある夜、首が胴体を求めて白光を放って東の方へ飛んでいったと言い伝えられ、頸塚は京都にはない。その武勇は死んだ後まで洛中を震え上がらせたという。

この将門の首に関連して、各地に首塚伝承が出来上がった。最も著名なのが東京千代田区大手町平将門の首塚である。この首塚には移転などの企画があると事故が起こるとされ、現在でも畏怖の念を集めている。

御首神社に伝わる話では将門の首は、美濃の地で南宮大社に祭られていた隼人神が放った矢によって射落されてしまう、落ちた場所に将門を神として崇め祀り、その首が再び東国に戻らないようにその怒りを鎮め霊を慰めるために御首神社が建てられたという。

昭和の終り、東京の霊的守護をテーマに盛り込んだ荒俣宏小説帝都物語』で採り上げられるなどして広く知れ渡ると、「東京の守護神」として多くのオカルトファンの注目を集めるようになった。

[編集] 将門一族の伝説

遅くとも建武4年(1337年)には成立したと見られている軍記物語『源平闘諍録』以降、将門は日本将軍(ひのもとしょうぐん)平親王と称したという伝説が成立している。この伝説によると将門は、妙見菩薩の御利生で八カ国を打ち随えたが、凶悪の心をかまえ神慮に憚らず帝威にも恐れなかったため、妙見菩薩は将門の伯父にして養子(実際には叔父)の平良文の元に渡ったとされる。この伝説は、良文の子孫を称する千葉一族、特に伝説上将門の本拠地とされた相馬御厨を領した相馬氏に伝えられた。

「新皇」と名乗った史実に反し「日本将軍平親王」としての伝説が中世近世を通じて流布した背景に、板東の分与・独立という危険な思想を意味する前者を排除し、遵法的存在としての名称に換え伝えたもので、軍事権門として朝廷と併存する道を選択した源頼朝を投影したものだとする関幸彦の指摘がある。

[編集] 参考文献

[編集] 脚注

  1. ^将門記』『吾妻鏡』『平治物語』などでは「良将」、『扶桑略記』『今昔物語集』などでは「良持」とする。なお、古辞書では「将」を「モチ」と読む用法が見られ、いずれにせよ「ヨシモチ」と読んだことになると言える(川尻秋生『平将門の乱』)。
  2. ^ 『尊卑分脈脱漏』『坂東諸流綱要』等によると、「犬養春枝女」または「県犬養春枝女」となっている。
  3. ^ 『歴代皇紀』の「将門合戦状伝」には、始め伯父の平良兼との間で争い、次に平真樹なる者に誘われて平国香や源護らと事をかまえるに至ったとしている。
  4. ^ 『将門記』では「介経基ハ未ダ兵ノ道ニ練レズ。驚キ愕イデ分散ス」と述べられている。
  5. ^ 『摂政忠平宛将門書状』には、「維幾の子為憲が公の威光を傘に猛威をふるったため、玄明の愁訴によってそれを正そうとして常陸に赴いたところ、為憲と貞盛が示し合わせて戦いを仕掛けてきた。」とある。
  6. ^扶桑略記』では、将門の戦死を貞盛の放った矢により負傷落馬し、そこに秀郷が馳せつけ首を取ったとされ、『和漢合図抜萃』では、秀郷の子の千常が将門を射落とし首級をあげたとされている。
  7. ^ 『将門伝説』(汲古書院、2001年)

[編集] 関連項目

ウィキクォート
ウィキクォート平将門に関する引用句集があります。

[編集] 関連作品

小説
映像作品
舞台
歴史ゲーム
  • コマンド・ベーシック第1弾 『将門記~承平天慶坂東兵乱』、国際通信社

[編集] 外部リンク


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