平良将
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平 良将(たいら の よしまさ 平良將、生没年不詳)は、平安時代中期の武将。「良持」(よしもち)とする記録もある[1]。平高望の三男(あるいは四男)で、母は正室「北家藤原良方女」、兄に国香、良兼、異母弟に良文らがあり、子に将持、将弘、将門、将頼(将貞とも)、将平、将文、将為、将武らがある。下総国を本拠とし、桓武平氏の中心人物。武家平氏の実質的な祖の一人とされる。従四位下 鎮守府将軍[2]。
[編集] 概説
生没不詳であるが、延喜17年・18年(917年・918年)死亡説がある。また、『常陸国正宗寺旧記』の伝えによると、延長8年(930年)9月に「鎮守府将軍平良将」が常陸に「勝楽寺」という寺院を建立したとあり、少なくとも延長8年までは存命であったとも考えられる。
良将の最初の営所は不明であるが、後に「下総少目として下りし浄人の裔」と伝えられる犬養春枝の娘を嫁に迎えて下総国・豊田郡を拠点にしたといわれる。良将はその手腕を発揮して未墾地を開発し、広大な私営田を経営、勢力を着々と拡張した。こうした良将を兄の国香以下兄弟は良くは思っていなかったと思われ、また兄らは源護の娘を娶り良将は違うことから、これらの事が後の将門と伯父らの確執の原因の一つではないかとも言われている。その死後に子の将門が源護とその縁者である伯父らと争ったのが、世に言う平将門の乱のきっかけである。
[編集] 脚注
- ^ 『将門記』『吾妻鏡』『平治物語』などでは「良将」、『扶桑略記』『帝王編年記』『今昔物語集』などでは「良持」とする。なお、古辞書では「将」を「モチ」と読む用法が見られ、いずれにせよ「ヨシモチ」と読んだことになるとも言える(川尻秋生『平将門の乱』)。また、「良将」と「良持」とは別人とする説もある。この場合、将門らの父は「良将」であり、「良持」はその数ある弟の一人として系図に名を残すのみとなっている」(七男で下総介)。『尊卑分脈』『桓武平氏系図』『相馬系図』『常陸大掾譜』等では将門を「良持」ではなく「良将」の子としている。なお、『平安時代史事典』で「平良持」項を書いた野口実は、平安時代中期の命名法に横の通字は存在しても縦の通字は存在しないとしており、親子で「将」の字を用いるとは考えにくいとしている。
- ^ 兄の平良兼を差し置いて鎮守府将軍に任ぜられている事から考えて、一門の中でも器量のすぐれた人物であったようである。(将門記)