平和公園
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平和公園(へいわこうえん)は、長崎県長崎市松山町に位置する公園。
1945年8月9日に投下された原子爆弾落下中心地(爆心地)と、その北側の丘の上とを含めた地域に、平和を祈って設けられた。入園は自由。面積は約18.6ha。
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[編集] 沿革
- 1946年(昭和21年)9月30日 長崎市、戦災復興土地区画整理区域決定
- 1949年(昭和24年)5月 爆心地公園に原爆資料館開設(建物の形状は木造六角形)
- 1949年(昭和24年)5月6日 長崎国際文化都市建設法案、国会で可決・成立
- 1949年(昭和24年)7月7日 長崎国際文化都市建設法についての賛否を問う住民投票
- 1949年(昭和24年)8月9日 長崎市長が初めて「平和宣言」を発表
- 1949年(昭和24年)8月9日 戦災復興に関する特別法(特別都市建設法。日本国憲法第95条に基づく住民投票を経た地方特別法・地方自治特別法)として、長崎国際文化都市建設法(昭和24年法律第220号)が公布・施行。
- 1950年(昭和25年)8月1日 長崎市立公園として、松山町に「国際平和公園」開設
- 1951年(昭和26年)4月3日 長崎市営大橋球場完成
- 1952年(昭和27年)4月28日 長崎国際文化会館建設着工
- 1955年(昭和30年)2月11日 長崎国際文化会館落成式
- 1955年(昭和30年)4月1日 長崎国際文化会館が開館。3・4階は長崎市立博物館、5階は原爆資料室として展示。
- 1955年(昭和30年)8月8日 平和祈念像除幕式
- 1968年(昭和43年)8月9日 平和祈念像前に「原爆殉難者名奉安所」(原爆殉難者名奉安箱)を設置し、原爆死没者名簿を納める
- 1981年(昭和56年)7月21日 長崎国際文化会館別館跡地に、長崎市平和会館が開館
- 1983年(昭和58年) 長崎市が「平和公園聖域化検討委員会」(秋月辰一郎委員長)を設置
- 1985年(昭和60年) 平和公園での花見や飲酒を禁止
- 1993年(平成5年)3月 平和公園の聖域化に関する報告書を提出
- 1993年(平成5年)平和公園再整備検討委員会(石野治会長)設置
- 1993年(平成5年) 長崎国際文化会館の取り壊し建て替え工事開始
- 1993年度(平成5年度) 平和公園再整備基本計画が策定
- 1994年(平成6年)3月 平和公園の再整備に関する報告書を提出
- 1994年度(平成6年度)から1997年度(平成9年度)にかけて、平和公園の再整備工事
- 1996年(平成8年)4月 長崎原爆資料館開館
- 1997年(平成9年)8月 再整備工事に伴い、「原爆殉難者名奉安所」を原爆落下中心碑前に移設して名簿をマイクロフィルム化。名簿原本は、国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館内の追悼空間(原爆死没者名簿棚)に。
- 2001年(平成13年)8月24日 平和公園を含む周辺地域を、長崎市都市景観基本計画に基づいて「平和公園地区景観形成地区」として指定。
[編集] 平和祈念像地区・願いのゾーン
長崎市民が「平和公園」と言った場合、この区域のみをさす。 毎年8月9日の長崎原爆の日(長崎原爆忌)には、平和祈念像前の式典広場にて原爆犠牲者慰霊平和祈念式典が開催される。
北端中央には北村西望(きたむらせいぼう)作の平和祈念像がある。この像は神の愛と仏の慈悲を象徴し、高く掲げた右手は原爆の脅威を、水平に伸ばした左手は平和を意味し、軽く閉じた目は原爆犠牲者の冥福を祈っている。
- 折鶴の塔
- 長崎の鐘
平和祈念像の正面には平和の泉(へいわのいずみ)がある。周囲には「世界平和シンボルゾーン」として、世界各国から贈られた平和を象徴する15個のモニュメントが配置されている。
- タイトル - 制作者、寄贈国または都市、建立寄贈年月日
- 平和の記念碑 -(未詳)、ポルト(ポルトガル)、1978年(昭和53年)11月寄贈・1980年(昭和55年)3月31日設置
- 人生の喜び - ヤン・ハーナ(JAN HaNNA)、チェコスロバキア社会主義共和国、1980年(昭和55年)8月26日
- Aコール(A Call) - ボリス・ゴンドフ、ブルガリア人民共和国、1980年(昭和55年)12月3日
- 諸国民友好の像 - ゲルハルト・ロンメル、ドイツ民主共和国(東ドイツ)、1981年(昭和56年)5月31日
- 未来の世代を守る像 - ペーター・ドゥ・ヨン(ピーター・デ・ヨング)(Peter de Jong)(nl:Peter de Jong (beeldhouwer))、ミデルブルフ(オランダ)、1983年(昭和58年)10月7日
- 平和(МИР) - アニクシン.M.K.(アニクシン・ミハイル・コンスタンチノビチ)、ソビエト連邦、1985年(昭和60年)6月1日
- 乙女の像 - 曹大澂(ツァオ・タオ・ツォン)など(像後背の揮毫は胡耀邦)、中華人民共和国、1985年(昭和60年)7月16日
- 生命と平和との花 - マリウス・クルパ、ポーランド、1986年(昭和61年)8月2日
- 人生への賛歌 - シオリオ・ビバレリ(ジョリオ・リバレッリ)、ピストイア(イタリア)、1987年(昭和62年)7月31日
- 太陽と鶴 - ホセ・デララ、キューバ、1988年(昭和63年)12月10日
- 平和の碑 - 須藤岩男、サントス市(ブラジル)、1988年(昭和63年)12月17日
- ∞無限 - エシュベル・カラヤルチン、アンカラ(トルコ)、1991年(平成3年)3月23日
- 地球星座 - ポール・グランランド(en:Paul Granlund)、セントポール(アメリカ・ミネソタ州)、1992年(平成4年)10月10日
- 戦争に対する平和の勝利 - カルメン・アリオラ・デ・マリンスクール、サンイシドロ(アルゼンチン・ブエノスアイレス州)、1996年(平成8年)4月3日
- 平和のマント(Te Korowai Rangimarie)(Cloak of Peace) - キングスリー・ビアード(en:Kingsley Baird)、ニュージーランド政府及びニュージーランド6都市(クライストチャーチ、ウェリントン、オークランド、ファカタネ、ワイタケレ、ネーピア)、2006年(平成18年)10月21日
原爆被災当時、この地域を含む松山町・岡町・橋口町の3ヶ町にわたって存在した長崎刑務所浦上刑務支所の基礎部分の発掘遺構も残されている。
- 旧長崎刑務所浦上刑務支所遺壁
- 戦災復興記念碑
- 長崎市原子爆弾無縁死没者追悼祈念堂
[編集] 原爆落下中心地地区・祈りのゾーン
通常、「原爆落下中心地公園」「原爆投下中心地公園」「爆心地公園」「爆心公園」などと呼ばれる。
- 原爆落下中心碑(原爆落下中心地碑)
- 1945年(昭和20年)9月 文部省学術研究会議が、原子爆弾災害調査研究特別委員会を組織[1]。
- 1945年(昭和20年)10月 爆心地を「松山町170番地テニスコート跡地」と確定(後の調査で、「松山町171番地」と訂正)。煙突の残骸の円柱に「爆心」「Centre」と書き記して、標柱として建てる[2]。
- 1946年(昭和21年) 「長崎市松山町170番地」の表示。矢の形。
- 1948年(昭和23年) 市が、盛り土の上に木製の標柱を設置。「原子爆弾落下中心地之標 地上500米にて炸裂」の表示。
- 1956年(昭和31年)3月 三角形の鉄筋に蛇紋石を張り付けた現在の形状に。デザインは松雪好修。高さ6.5メートル。
- 1968年(昭和43年) 表面を黒御影石に張り替え、現在の姿に。
- 1996年(平成8年) 中心地碑を撤去して、新たなモニュメントを建立する計画が浮上、問題化する[3]。撤去してその跡地には被爆50周年記念事業碑を建立する予定であったが、撤去計画を断念。
- 被爆50周年記念事業碑(母子像)
- 1997年(平成9年)年7月 建立。制作は富永直樹。
- 2003長崎の論点 爆心地と偶像(2003年12月23日 長崎新聞)
- 旧浦上天主堂遺壁
[編集] 長崎原爆資料館地区・学びのゾーン
- 長崎原爆資料館
- 歴史・文化・観光施設の無料開放について(平成16年10月から平成19年9月まで、長崎市民対象)
- 国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館
- 長崎市平和会館(長崎市立博物館が2005年閉館した後、長崎市歴史民俗資料館)
[編集] スポーツのゾーン
平和公園の一部と認識している長崎市民は少ない。
[編集] 広場のゾーン
平和公園の一部と認識している長崎市民は少ない。
- 長崎市営陸上競技場(長崎市営松山陸上競技場)
- 長崎市営庭球場
- 長崎市営ソフトボール場
- 長崎市営弓道場
[編集] 脚注
- ^
- ^ 被爆者の証言20 - 田島英三さん - - 平和と長崎(NBC長崎放送)
- ^ 反対運動の過程では、市へ提出された撤去反対署名を長崎市が電算入力処理(コンピュータ入力処理)し、さらには署名者である市長の知人に対して市長が電話し真意をただす、などの出来事があり、論議を呼んだ。
- 市川正人 「署名活動と表現の自由・プライバシー - 署名者個人への働きかけと憲法(一) - 」 - 第6号 1996年
- 市川正人 署名簿の電算処理と請願権(PDFファイル) - 立命館大学政策科学部紀要 7巻3号 2000年3月
- 長崎署名簿コンピュータ処理訴訟通信 http://www3.justnet.ne.jp/~cool-m/
- 長崎原爆落下中心碑建て替え問題を考える緊急WEBフォーラム(更新終了)