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寛仁親王 - Wikipedia

寛仁親王

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

本来の表記は「寬仁親王」です。この記事に付けられた題名は記事名の制約から不正確なものとなっています。
2005年10月27日、第60回国民体育大会(晴れの国おかやま国体)閉会式にて天皇杯を授与する寛仁親王(壇上右)
2005年10月27日、第60回国民体育大会晴れの国おかやま国体)閉会式にて天皇杯を授与する寛仁親王(壇上

寬仁親王(ともひとしんのう、1946年昭和21年)1月5日 - )は、日本皇族三笠宮崇仁親王同妃百合子の第1男子。弟に桂宮宜仁親王高円宮憲仁親王、姉に近衛甯子近衛忠煇夫人)、妹に千容子千宗室夫人)がいる。今上天皇明仁)の従弟に当たる。祖父は大正天皇高木正得。祖母は貞明皇后、高木邦子。曽祖父は明治天皇九条道孝高木正善、入江為守。曾祖母は柳原愛子、野間幾子、高木銑子、入江信子(柳原白蓮の姪)。印は(かしわ)。勲等大勲位皇室典範による敬称は「殿下」。学歴学習院大学法学部政治学科卒業学位政治学士(学習院大学)

をたくわえた容貌から、「ヒゲの殿下」の愛称で国民に親しまれる。皇統譜上の記載は「寛」の旧字体である「寬」であるため、政府による公式表記及び本人の著述活動においては旧字体が使用されるが、報道等では新字体で表記されることも多い。皇位継承順序第6位。住居(寬仁親王)は東京都港区元赤坂2丁目の赤坂御用地内。

目次

[編集] 略歴

Imperial Coat of Arms
日本の皇室

1966年(昭和41年)1月成年式に伴い大勲位に叙され、菊花大綬章を授けられる。1968年(昭和43年)学習院大学法学部政治学科を卒業後、1970年(昭和45年)までの2年間、イギリスオックスフォード大学モードリン・コレッジに留学。1970年から1972年(昭和47年)には、札幌オリンピック組織委員会事務局に、また1975年(昭和50年)には、沖縄国際海洋博覧会世界海洋青少年大会事務局に勤務した。

1980年(昭和55年)11月7日麻生太賀吉の三女・信子結婚し(これにより麻生太郎とは義兄弟となり吉田茂とは義理の祖父の関係となる)、1981年(昭和56年)12月20日に長女彬子女王1983年(昭和58年)10月25日に次女瑶子女王の二女を儲けた。男子を儲けていないことと高齢の為、将来の三笠宮家の絶家が懸念されている。

寬仁親王は伯父の高松宮宣仁親王の影響を受けて早くから障害者福祉やスポーツ振興などの公務に積極的に取り組んできた。特に障害者がスポーツへの取り組みを通じて社会参加することを促すため、自らも指導にあたり、社会福祉法人「ありのまま舎」(仙台市にあるバプテスト系の筋ジストロフィー障害者福祉施設)の活動に見られるように施設の運営などにも関与し、講演や著述を通じて啓発活動にエネルギッシュに取り組んでいる。

また英国留学を機に国際親善にも強い関心を持ち、日英協会名誉総裁をはじめ、諸外国との交際にも意欲的に取り組み、従甥の皇太子徳仁親王秋篠宮文仁親王の英国留学の先鞭をつけた。寬仁親王は曾祖父明治天皇との容貌の類似を指摘されるきっかけにもなった髭を蓄え、剛直で豪放磊落な性格であるが、他方で繊細な面を垣間見せることもある。また、若いころは社会福祉に熱心に取り組もうとしても自分の行動が皇族としての身分に制約されることに悩み、結局離脱する事は無かったものの、一時「皇籍離脱発言」をして世間を騒がせたこともあった。

近年は喉頭癌をはじめとする疾病に悩まされている。2006年平成18年)9月16日には洗顔中に転倒し骨折した。2007年(平成19年)6月22日宮内庁アルコール依存症により宮内庁病院に入院したと発表した。入院してからも入院先の病院から公務に出席しており、いわゆる「ふさぎこんで出てこないのではないか」発言(さらに省略してFDK発言とも通称される)など行動力と鋭い舌鋒の健在ぶりを見せている。当初入院は一ヶ月の予定であったが、3週間で退院した。同年10月20日には米誌とインタビューを行えるほどに回復した姿を見せた。

現在、友愛十字会、ありのまま舎、済生会、新技術開発財団、高松宮妃癌研究基金日本ビリヤード協会日本職業スキー教師協会、日本学生氷上競技連盟などの総裁日本ラグビーフットボール協会、日英協会、日本ノルウェー協会などの名誉総裁を兼任している。

[編集] 宮号の有無と表記

結婚後、独立の生計を立てているが、父宮(三笠宮崇仁親王)の嗣子としていずれ三笠宮を継ぐものとされていることから、特に宮号は賜っていない。「三笠宮寬仁」という表現は報道でよく使われてはいるが、宮号は一般国民の「」のように同一戸籍内の家族すべてに適用されるものと異なり、厳密には当主のみに与えられるものであるため、寬仁親王が「三笠宮」の宮号を継いでいない時点でそれを冠することは正確性を重んじる観点からすれば誤りである。

このような誤用例は他にも多くあるが、寬仁親王本人はその誤りに不快感を表したことがある。2001年12月、長女の彬子女王の成人式に伴う記者会見が行われ、毎日新聞を除く全国紙が彬子女王を「三笠宮寬仁さまの長女彬子さま」と記載したことに関し、寬仁親王は自身が総裁を務める日本職業スキー教師協会の広報誌の「総裁コラム」に、「私は、『三笠宮』(父の宮号)では無く、『寬仁親王』であり、彬子は身位が『女王』で、敬称は『殿下』でなければなりません。従って正しくは、『寬仁親王殿下の第一女子彬子女王殿下には……』となるべき」と書いていた。また、後掲の会報『ざ・とど』でも冗談を交えつつ「『三笠宮寬仁親王』でなく『寬仁親王』が正しい」と書いている。

1947年(昭和22年)10月14日に11宮家が離脱する前までは宮家の数が多く、現在の寬仁親王のように「嗣子であるためあえて宮号を受けていない親王」を有する宮家が複数あったため、そのような「嗣子たる親王」のことを「○○若宮」(○○のわかみや)と呼ぶ慣習があったが、現憲法下では皇室制度に詳しい人々の間でもこの呼称はほとんど用いられない。

なお、政府による正式表記(内閣告示や宮内庁告示など)では寬仁親王に限らず皇族に宮号が冠されることはない(「皇太子」を除く)ため、それらの告示が掲載される官報での表記は必ず「寬仁親王」(妃の場合は「寬仁親王妃信子」)とされ、「三笠宮」が冠されることはない。

[編集] エピソード

  • 1968年(昭和43年)、学習院大学法学部政治学科を卒業した2年後、英国へ留学したがその際の出来事を後日『トモさんのえげれす留学』という書物にまとめた。
  • 1970年(昭和45年)に英国ご留学を終えて帰国した際、明治天皇そっくりの髭をたくわえていた姿が読売新聞のグラビアを飾っていた。これが「ヒゲの殿下」と称される所以である。
  • 1975年(昭和50年)にニッポン放送オールナイトニッポンのDJを担当していたことがある。皇族の一人がラジオ番組のDJを担当するのはもちろん、深夜番組の担当は皇室の歴史始まって以来の出来事であり、2008年現在、最初で最後の民放放送局のラジオ番組にDJとして出演した皇族の一人でもあるがかなり卑猥な事を話していたため放送後宮内庁内で大問題になっていたという[要出典]。現在でも皇室関係者の間では賛否両論の声がある[要出典]
    • また、信子妃とともにテレビのバラエティー番組に出演したこともある。
  • 1977年(昭和52年)、二見書房から『皇族のひとりごと』という書籍を刊行する。自身の好みの女性や結婚観・また、皇族としての自身の立場等々について縦横無尽に書かれていた。
  • 伯父高松宮宣仁親王を介して昭和天皇と個人的に対面したことがあり、その威厳に大変な衝撃を受けたと語っている。
  • 週刊新潮』2007年4月26日号が報じた記事によると、名古屋の名門クラブ「なつめ」において、寛仁親王が「御東場(おとうば=宮中でトイレのことをいう)がよごれていたんで拭いといたよ」といいトイレを清掃したとオーナーマダム加瀬文恵が雑誌『プラチナ・スタイル』取材に語ったとある。
  • 2007年10月にはニューヨーク・タイムスのインタビューに答え、学習院時代には山手線に乗って通学した、朝鮮学校の生徒といざこざを起こすこともあったなどと青春時代を回想した。「彼らは学習院の制服を見つけると、いつも襲いかかってきたものでした」との発言が記録されている。同インタビューにおいては人格否定発言に対しても触れ、「手紙に返答していれば、いくらかの進展はあったのではないかと思うが、意見を述べたことに対しての礼を述べる返事しか来なかった」と徳仁親王に発言について説明するよう長文の手紙を送ったものの、礼状程度の返事しか返ってこず、ために事の進展がなかったという趣旨の発言をしている。またアルコール依存症を公表した事に触れ「皇室はストレスの塊」と述べた。

[編集] 女系天皇容認論に対する見解

憲法上の制約もあり、天皇および皇族が女系天皇の是非について自らの意見を公にする機会は限られている。寬仁親王は自身が会長を勤める福祉団体『柏朋会』(はくほうかい)の会報『ざ・とど』で、公なものではない私的な見解と前置きした上で、女系天皇についての見解を表明した。この機関紙は市販されていない。この中で、女系天皇に明確に反対し、旧皇族の皇籍復帰などを求めている。

寬仁親王は、「歴史と伝統を平成の御世でいとも簡単に変更して良いのか」と女系天皇を容認する意見を批判し、また「万世一系、125代の天子様の皇統が貴重な理由は、神話の時代の初代神武天皇から連綿として一度の例外も無く、『男系』で続いて来ているという厳然たる事実」と指摘した。寬仁親王は男系継承を維持するための方法として

  1. 皇籍離脱した旧皇族の皇籍復帰。
  2. 女性皇族(内親王)に旧皇族(男系)から養子を取れるようにし、その方に皇位継承権を与える。
  3. 廃絶になった秩父宮や高松宮の祭祀を旧皇族に継承してもらい、宮家を再興する。
  4. 昔のように「側室」を置く。自分(寬仁親王)としては大賛成だが、国内外共に今の世相からは少々難しいかと思う。

を挙げている。

その上で、「陛下や皇太子様は、御自分達の家系の事ですから御自身で、発言される事はお出来になりません。国民一人一人が、我が国を形成する『民草』の一員として、2665年の歴史と伝統に対しきちんと意見を持ち発言をして戴かなければ、いつの日か、『天皇』はいらないという議論にまで発展するでしょう」と結び、歴史と伝統を無視した女系天皇容認の動きに強い警鐘を鳴らした。

また、2006年(平成18年)1月3日付の毎日新聞、雑誌『文藝春秋』2006年2月号のインタビューでも同様の見解を表明している。殊に後者では、小泉純一郎首相有識者会議が女系天皇容認の方針なのは今上天皇の内意を受けてのことではないのかという噂について、「ご本人に直接確認してはいないが、あの慎み深い天皇様が女系天皇や長子優先継承に賛成なさるはずはない。噂は事実無根の臆測だろう」と推断した。

また、非公式ながら「父殿下、母妃殿下をはじめとして皇族には改正に反対論を唱えている人が多い。少なくとも三笠宮家は全員反対だ」ということもコメントしている。

[編集] 見解に対する反響

  • 寬仁親王が見解を発表する以前、内閣総理大臣の私的諮問機関「皇室典範に関する有識者会議」座長吉川弘之東京大学名誉教授は、皇位継承資格者議論について「皇族から意見を聞くことは憲法違反」だと指摘していた。また、「憲法の解釈権は有識者会議にある」とも唱えた。
    • 一方で2005年(平成17年)11月4日、寬仁親王の見解についての記者質問に対し、小泉純一郎首相(当時)は、皇位継承資格者議論について皇族から意見を聞くのは憲法違反にあたらず、意見を表明するのは自由であると答えた。
  • 同年11月7日、有識者会議の会合を終えた吉川弘之は、寬仁親王の見解は会議へ影響せず、女系天皇容認の姿勢は変更しないとした。同日、小泉首相も、女系天皇を容認する有識者会議の方針を支持する考えを示した。
  • 同年11月14日静岡県知事石川嘉延は定例記者会見で、寬仁親王の見解に対し、同様な考えを持っており共感したと発言した。さらに皇位継承資格者議論に対し、拙速な議論に疑問を呈し「伝統的な国のあり方にかかわるものを、わずか数か月で結論を出して、ある方向に持っていこうとするのはとんでもない話。余りにも拙速。有識者会議には皇室問題について長年研究してきた人が何人入っているかというとお寒い限り」と評した。
  • 民間からは寬仁親王の発言に対し賛否両論あり、朝日新聞は社説のなかで否定的見解を示しており、2006年(平成18年)2月2日付けの社説で『寬仁さま 発言はもう控えては』と題し、政治的発言であり立憲君主制という憲法で定める大原則を逸脱していると主張した。
    • 産経新聞は、翌3日の社説で『朝日社説 「言論封じ」こそ控えては』と反論した。
    • また、週刊文春週刊新潮はそれぞれ『寬仁さまに「黙れ」と命じた朝日新聞論説委員の実名と見識』『寬仁さまに「黙れ」と命じた朝日新聞ってそんなにエラい?』などと朝日新聞を批判した。なお、朝日新聞はこの後のいわゆる富田メモの件では「昭和天皇の意志を重く受け止めるべき」とし、そのことについてもダブルスタンダードではないかとの批判を受けた。
  • 天皇制が国民の意思如何によって成立するという国民主権の象徴天皇制下の皇族でありながら、国民を「民草」と臣下であるかのようによび、天皇制存続以外の選択肢などありえないという発言をしたことから外国のメディアや国内の一部知識人は批判的に捉えた。
  • 国会議員の中には寬仁親王の発言に影響を受けたとする者もあり、この点で親王の発言の政治的影響力を問題視する見方もある[要出典]
  • 旧皇族の皇籍復帰に加え、側室制度についても(現在の世相では難しいだろうとした上で)言及したことが男女平等に違反する、時代錯誤的であるとして国内外で少なからず批判を浴びた。特に皇室典範に関する有識者会議メンバーの岩男壽美子からは「側室制度の復活など時代錯誤」と激しく非難されることとなった。この批判に対しては一方的である、発言を曲解したとして親王を擁護する意見がある。
    • なお1947年(昭和22年)5月1日に廃止された旧皇室典範の明治40年2月11日発布の増補にある第六条「皇族ノ臣籍ニ入リタル者ハ皇族ニ復スルコトヲ得ス」とあり、臣籍降下した元皇族の復籍をそれ以降廃されるまで禁止していた。また現在の皇室典範第15条「皇族以外の者及びその子孫は、女子が皇后となる場合及び皇族男子と婚姻する場合を除いては、皇族となることがない。」と定めており、旧皇族の皇籍復帰にあたっては、この第15条の改正が必要になるのではないかという意見がある。

[編集] 関連項目・外部リンク

上位:
崇仁親王
三笠宮
日本皇位継承権者
継承順位第 6
下位:
宜仁親王
桂宮
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