国枝利通
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
国枝利通(くにえだ としみち、1920年6月23日 - )は、岐阜県出身の元プロ野球選手。右投右打で、ポジションは二塁手。
目次 |
[編集] 来歴・人物
岐阜商では第15回選抜中等学校野球大会と第24回全国中等学校優勝野球大会に出場。春は東邦商に準決勝で敗れ、夏は決勝で平安中にサヨナラ負けし準優勝だった。翌年に明治大学へ進み、大学卒業後は地元の社会人野球チームの大日本土木に所属。1946年と1947年にエースの中原宏らと共に都市対抗野球大会を2年連続で優勝した。1948年に中日ドラゴンズへ入団。1年目に自慢の俊足で34盗塁を記録した。3年目は二塁のレギュラーを獲得し、133試合に出場して自己最多の39盗塁をマークした。1952年は116試合に出場し、打率.303と初の打率3割を打ち、リーグ8位の記録だった。1954年は井上登の活躍もあって試合出場も減り、またプロ入りして間もない頃に頭部に受けた死球の後遺症などもあってリーグ優勝したこの年に引退した。引退後は東海テレビの開局と同時に同局専属第1号の解説者に就任(同局は1958年12月25日開局の為、翌59年の公式戦から)、その後中日の球団職員を経て株式会社ナゴヤ球場→株式会社ナゴヤドーム(同一法人が社名変更)の取締役を歴任した。
[編集] エピソード
- 国枝の中日入団当時、同球団のユニフォームは本来と異なる「Doragons」という誤ったスペルが書かれており、それを着た国枝の写真がベースボール・マガジン社発行の書籍に度々掲載されることがある。
- 東海テレビ解説者時代には、同じ二塁手でもある高校の後輩・高木守道の中日入りに一役買っている。
- また、国枝が東海テレビ解説者を務めていた期間、同局制作のプロ野球中継はラジオ東京テレビ(現TBS)・朝日放送系(1959年のみ)→日本テレビ・読売テレビ系(1960~62年)→フジテレビ・関西テレビ系(1963年~現在に至る)と、2回ネットチェンジしている。
[編集] 通算成績
701試合 2322打数 633安打 10本塁打 201打点 192盗塁 打率.273
[編集] 背番号
- 3 (1948年~1954年)