京阪80形電車
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京阪80形電車(けいはん80がたでんしゃ)は、かつて京阪電気鉄道の京津線で使用されていた電車の1形式である。
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[編集] 概要
京阪神急行電鉄時代の1949年8月7日に発生した四宮車庫の火災と、これに伴う同車庫在籍車の焼失後、復旧の過程で京津線には併用軌道区間での乗降が可能な低床のステップ装備車[1]が集められ、併用軌道上に停留所が存在する三条~浜大津間の各駅停車ではこれらが専用されていた。
ところが、1956年の国鉄東海道本線の全線電化完成以降、国電区間の延長もあって京津線沿線の宅地開発が急ピッチで進展した結果、京津線の乗客数はこの時期以降、明らかな急増傾向を示すようになり、これらの併用軌道区間専用車ではラッシュ時の輸送力が不足すること[2]が明らかとなった。
しかも、これらの在来車はいずれも老朽化が進んでおり、特に主力車であった20形は京津電軌16形に由来する木造車で、小型であったことなどから収容力が致命的に不足[3]しており、また車両火災対策の観点からも早急に車両代替を実施する必要があった。
こうして1961年に京津線の各駅停車用として近畿車輛で設計製作されたのが、本形式である。
路面区間用の20・50・70の各形式のみならず、60形の代替も含めて1970年までに81~96の計16両が近畿車輛で製造された。
カテゴリ的には、「旧性能車」に分類されるが、コンパクトな低床車体の路面電車ながら当時の高速電車で一般的な「新性能車」を凌駕する内容を備える高性能車両であった。単純に「吊り掛け駆動=旧性能車」とは言えない例である。
[編集] 車体
エクステリアデザインは近畿車輛の若手デザイナーが担当したとされ、窓の下辺を境界線としてそれより下が絞り込まれ、上が僅かに内傾する、独特の車体断面を備える。
準張殻構造の15m級軽量設計車体[4]であり、ラッシュ時対策として3扉とされたため、窓配置は1D(1)31D(1)3(1)D1(D:客用扉、(1):戸袋窓)となった。なお、側窓は扉間の戸袋窓以外が上段固定、下段上昇式の2段窓で下段に2本の保護棒が付き、両端が下降式の1枚窓である。
併用軌道区間の停留所の乗降を容易にするため、ドアと連動して開くホールディングステップを車体に組み込んでいる。またその関係で、床は高さ910mmの低床車である。
前面は両脇に曲面ガラスを使用し、中央をポール昇降の必要から下降式の1枚窓とするユーロピアンスタイルの優美なデザインとされた[5]。
塗装は窓周りと車体の裾を緑色、それ以外を淡緑色に塗り分けた本形式専用のもの[6]が採用され、これは誤乗防止の必要性もあって最後まで維持された。
[編集] 主要機器
[編集] 駆動システム
本線では既にカルダン駆動車が量産されていたが、本形式では完全新造車であったにもかかわらず吊り掛け駆動が採用された。
これは、
- 併用軌道区間の敷石区間で異物を巻き込んで高価な電動機や駆動系が損傷する恐れがあった
- 低床・カルダン駆動・走行性能の鼎立を図るには主電動機の絶縁種別向上等によるコンパクト化が必要で、その製造・保守コストが過大
などの事情、特に京阪線でも淀屋橋開業や高架複々線区間の延長工事などといった社運を賭けたビッグプロジェクトが続いていて巨額の設備投資を要し、京津線に大きな予算を割けなかった当時の京阪の財政事情から吊り掛け式とされたもので、その出力設定には使用線区が急勾配区間[7]を擁する路面電車としては異例の山岳線であり、かつ後発の急行に追いつかれる前に終点である三条あるいは待避線のある四宮まで逃げ切ることを可能とする、あるいは必要に応じて準急・急行運用にも投入可能とするという、ある意味矛盾した走行性能が求められたことも大きく影響していた。
なお、ギア比は59:14=4.21と吊り掛け駆動車としては異例の高ギア比設定となっており、この条件下で3.2km/h/sという高加速性能を実現した。
[編集] 主電動機
端子電圧150V時定格出力45kWの直流複巻整流子電動機である東洋電機製造TDK-543/1-Bが新規設計され、これを4基永久直列接続として各台車に2基ずつ搭載した。
当時、他都市の路面電車で新造されていた和製PCC車と呼ばれる高性能路面電車群では大阪市交通局3000形の三菱電機MB-1432A[8]×4基搭載が出力面での最大級であり、これを凌駕する出力のTDK-543/1-Bを4基搭載する本形式は、単行運転を基本とする路面電車としては破格の大出力設計であった。
しかも、このTDK-543/1-Bは出力面で不利な直流複巻整流子電動機でありながら、同一条件の下では出力確保の点で有利な筈の直流直巻整流子電動機であるMB-1432Aを上回る定格出力を実現しており、またこの大出力にもかかわらず床面高910mmの低床設計が実現していることから、カルダン継手のためのスペースを犠牲にして吊り掛け式とすることで磁気回路を無理なく収め、さらに歯数比が示すように絶縁材や駆動系の許容する範囲で可能な限り高い定格回転数とすることで出力と寸法の両立を図り、これら2つの条件を実用的なコストの範囲でクリアした[9]ことが判る。
[編集] 主制御器
京阪線用2000系「スーパーカー」のシステム面での枢要をなす東洋電機製造ACRF-M475-751Aを基本としつつ、これを簡素化の上でダウンサイジングしたACRF-M445-256Aが採用された。
これは磁気増幅器を用いた分巻界磁制御で力行から回生制動まで自在に遷移可能とすることでノッチ位置による定速度制御を実現する、2000系譲りの高度な機能を備えた超多段電動カム軸式制御器であり、低床の路面電車の床下に艤装するため、その設計と保守には大変な苦労があったという。
[編集] 集電装置
81~93までは京津線の集電方式がトロリーポールであった時代に竣工したため、先端に焼結合金製のスライダーシューが取り付けられたトロリーポールを前後に装着していたが、集電装置の変更とこれに伴う架線の張り替え工事[10]が完成した1970年以降に新造された94~96は通常の菱形パンタグラフを搭載して竣工し、在来車も全車パンタグラフ搭載に改造されている。
[編集] 台車
シンプルなプレス鋼材溶接組み立て構造の軸ばね式空気ばね台車である、近畿車輛KD-204を装着する。
[編集] ブレーキ
急勾配区間でのブレーキ力を確保し、かつ小直径車輪の摩耗を避ける目的で回生ブレーキを常用する設計とされたため、空気ブレーキは補助的な使用に留まったが、2両連結運転を可能とする非常弁付き直通ブレーキが搭載された。
もっとも、この回生ブレーキは制動時に負荷となる、つまり力行を行って回生電力を消費する相手が存在しなければ失効して空気ブレーキのみでの制動を強いられることになる。このため、三条変電所の母線を介して余剰回生電力を京津線から電力消費の大きい京阪線のき電系統へ送ることで回生失効を阻止していた。ただし、この対策は1983年12月3日の京阪線の昇圧で不可能となったため、三条変電所に回生電力吸収装置として定格出力200kWのSIVを設置し、これとタイトランスにより余剰電力を交流6600Vに変換、京阪線の付帯高圧系統へ給電して京阪三条駅の照明電源などで消費するように変更されている。
[編集] 運用
第1陣の竣工以来、主に本来の製造目的である三条~浜大津間各駅停車の普通として使用されていたが、ダイヤ上の都合で準急や急行(現在は両種別共に廃止)として使用されることもあった[11]。
81~93はスライダー式ポールを装備した両運転台車として登場し、単行で運用された。
1970年に京津線はパンタグラフに集電装置が変更されたが、この際本形式は車体高が低いため、パンタグラフは屋根上にやぐらを組みその上に設置された。
これに伴い、ポールを操作するため開閉可能だった正面中央の窓がHゴムで固定された。同時に電動式ワイパーを窓下に設置したため、窓の下辺が左右の窓より高くなった。
また、パンタグラフ化後に片運転台の94~96が製造されている。こちらは前述の通り当初からパンタグラフを装備していた。
次いで1971年にかけて両運転台車は片方の運転台を撤去の上、撤去跡に貫通路を設置して2両編成化された[12]。そのため、後述の冷房化工事まで前照灯を撤去した跡が残されており、両運転台時代を垣間見ることができた。 1989年より冷房化工事が施工された。当初冷房化の予定はなかったが、京都市営地下鉄東西線の開業がずれ込んだため延命措置が図られることになったものである。このときは冷房装置を設置するために屋根のかさ上げが行われ、パンタグラフのやぐらは不要になった。また正面右側窓の上に京阪のエンブレム(6000系以降採用されたもの)を取り付けている。
京都市営地下鉄東西線・三条京阪~御陵間の開通前日、1997年(平成9年)10月11日の京津線区間廃止時に同時に廃車。番号が同じ8から始まる800系に取って代わられた。2006年現在、唯一解体を免れた82号車(錦織車庫に保管)の保存運動がなされている。
なお、廃車に際しては福井鉄道が旧型車置き換え導入を目指して譲受を検討していたが、橋梁荷重オーバー、特殊な機構を備える電装品の保守の難しさ、それに廃車時期と補助金申請のタイミングが合わなかったことなどの諸事情から断念され、実現に至ることはなかった。
[編集] その他
京阪の歴史で80形を名乗る車両は、石山坂本線の三井寺以南を建設した大津電車軌道の1形電車が京阪への合併後に80形を称したのが最初で、本形式は2代目となる。
[編集] 脚注
- ^ 石山線で使用されていて錦織車庫所属であったために焼失を免れた20形22~27と、事故復旧のために東洋機械興業に入場していたとされる70形72、それに焼失車の中で損傷の程度が低かったものを修復した50形55・56の合計9両。
- ^ このため、この時期には朝のラッシュ対策として低床用ドアを備える京阪線直通用車であった60形連接車をこの区間に投入することが行われている。
- ^ それゆえに輸送密度の低い石山線に転用したにもかかわらず、四宮車庫火災でやむなく京津線に戻したものであった。
- ^ これにより、複雑な機構を備えるにもかかわらず自重は20tと260形(自重23.5~23.8t)などを下回っていた。
- ^ そのデザイン故にモダンチンチン電車の元祖と紹介されたこともあった。
- ^ 山々の緑にとけ込むとして近畿車輛側から提案されたものであったという。
- ^ 、蹴上付近にある碓氷峠や東急玉川線の「道玄坂越え」(いずれも当時)並みの66.7‰や逢坂山の61‰などの急勾配区間が線内に点在する、通常の路面電車では考えられないような急峻な線形であった。
- ^ 端子電圧300V時定格出力41.25kWの直角カルダン駆動用電動機。
- ^ カルダン継手を採用した場合、出力を維持するには容積の削減による低下分をより高回転・高発熱設計とすることで補わざるを得ず、その場合は電機子や界磁の絶縁にH種などの高価な絶縁材料を使用せざるを得なくなる。また、冷却系や整流子の設計・保守もクリティカルになり、この面でもコストが増大する。
- ^ ポール集電とパンタグラフ集電では架線の張り方が異なり、また架線吊り金具も交換する必要があったため、複雑な工事が必要となる。
- ^ ただし、あまりに長年に渡って本形式が各停に専用されていたため、準急・急行への充当時には乗客の誤乗(乗客には車両の色で列車種別を判別する慣習があった)や乗務員による通過停留所停車といったトラブルが後を絶たず、極力両運用に本形式を充当しないよう、またどうしても充当の必要がある場合には乗客への案内や乗務員点呼時の徹底といった措置がとられていた。
- ^ 片運転台への改造工事が完了するまでの間、パンタグラフ装備の両運転台車が存在した。
[編集] 外部リンク
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現役の車両 | |||||||||
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過去の車両 | |||||||||
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