ヒラリー・クリントン
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アメリカ合衆国の政治家 ヒラリー・クリントン Hillary Rodham Clinton |
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生年月日 | 1947年10月26日(60歳) |
出生地 | イリノイ州シカゴ |
没年月日 | |
死没地 | |
出身校 | ウェルズリー大学 |
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所属政党 | 民主党 |
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配偶者 | ビル・クリントン |
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上院議員 | |
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選挙区 | ニューヨーク州選挙区 |
当選回数 | 2回 |
就任日 | 2001年1月3日 |
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ヒラリー・ローダム・クリントン(Hillary Rodham Clinton、1947年10月26日 –)はアメリカ合衆国の政治家、弁護士。ニューヨーク州選出上院議員(民主党)。2008年の大統領選挙(民主党予備選挙)に立候補した。第42代アメリカ合衆国大統領ビル・クリントンは夫であり、1993年から2001年までアメリカのファーストレディーだった。なお “Rodham” は日本では「ロダム」と表記されることが多いが、英語本来の発音は「ローダム」に近い。血液型はB型。
目次 |
[編集] 生い立ちと教育
ヒラリー・ダイアン・ローダム (Hillary Diane Rodham) は1947年、イリノイ州シカゴに衣料品店を営む両親のもとに生まれた。一家はメソジスト教派であり、彼女は白人中産階級が多く住むイリノイ州パークリッジで成長する。父親のヒュー・ローダムは保守主義者であり、繊維業界の大物であった。母親のドロシーは専業主婦であり、ドロシーの両親はドロシーが幼い頃離婚、ドロシーは父方の両親に預けられ寂しい子供時代を過ごした。ヒラリーには二人の兄弟、ヒューとトニーがいる。
ヒラリーは幼少時からスポーツに興味を持ち、テニスやスケート、バレーボールなどを楽しんだ。また早くから政治に興味を持ち、若き共和党員として活動、1964年の大統領選では共和党のバリー・ゴールドウォーター候補を応援するゴールドウォーターガールを務めた。
メイン西高校を卒業後、1965年にマサチューセッツ州の名門女子大であるウェルズリー大学に入学、1年生の時、学内青年共和党の党首に選ばれるが、ベトナム戦争や公民権に関する共和党の政策に疑問を持ち始め、その後辞任。1968年の大統領予備選では、ベトナム戦争介入反対を掲げる民主党のユージーン・マッカーシー候補を支持した。その一方で、同年の夏には首都ワシントンの下院共和党議員総会でインターンを経験、共和党党大会ではニューヨーク州知事ネルソン・ロックフェラーのために働いた。その後ウェルズリー校を優秀な成績で卒業、同大学初の卒業生総代として行ったスピーチが賞賛から非難までさまざまな反響を呼び、地元のテレビ局のインタビューに出演、『ライフ』誌にも取り上げられた。
[編集] 弁護士時代
1969年、ヒラリーはイェール大学ロースクールに進み、そこでビル・クリントンに出会う。在学中はマリアン・エデルマンが始めた児童擁護のための組織で働き、また法律が子供に与える影響について特に学んだ。1972年の大統領選ではビル・クリントンが参加していた民主党のジョージ・マクガバン大統領候補の選挙運動に加わった。1973年のロースクール卒業後は、エデルマンが新たに始めた児童防衛基金 (Children's Defense Fund) で働いた後、1974年には下院司法委員会によるニクソン大統領の弾劾調査団に参加している。
調査団解散後はビルのいるアーカンソー州に移り、ビルとともにアーカンソー大学ファイエットビル校ロースクールで教鞭を取った。この年ビルがアーカンソー州で下院議員選に出馬するが落選、翌1975年に彼と結婚している。1976年にはビルがアーカンソー州の司法長官に選出されて州都リトルロックへ移るのに伴い、アーカンソー大学での職を辞し、ビンス・フォスターがパートナー(共同経営者)を務めるローズ法律事務所に移った。また同じ年の大統領選では、ビルとともにジミー・カーター民主党候補の選挙戦に参加した。1978年ビルが32歳の若さでアーカンソー州知事に当選するとアーカンソー州のファーストレディーとなったが、弁護士としての活動も続け、1979年にはローズ法律事務所の女性初のパートナーとなった。その一方で、アーカンソー州における質の高いヘルスケアの普及を目的とした地方健康諮問委員会 (Rural Health Advisory Committee) の議長を務めるとともに、児童防衛基金の活動にも参加。またカーター大統領の指名により、連邦議会が設立した非営利団体の司法事業推進公社 (Legal Service Corporation) の理事を務めた。
1980年ヒラリーは娘のチェルシーを出産。ビルは再選をかけた同年の知事選に破れるが(当時のアーカンソー州知事の任期は2年)、次の1982年の知事選で当選してカムバックした。この82年の選挙戦を機に、ヒラリーは結婚後も引き続き使っていた「ヒラリー・ローダム」を「ヒラリー・ローダム・クリントン」に替えている(「名前のこだわり」の節を参照)。
この第二期目のクリントン知事のもとで、ヒラリーはアーカンソー州の教育制度改革を目的とした教育水準委員会 (Education Standards Committee) の委員長を務めた。
1991年にビルは大統領選に出馬。その選挙運動中、ヒラリーが「家にいてクッキーを焼いてお茶を入れることもできたが、自分の職業を全うすることを選んだ」とコメントしたことで、一部から「専業主婦に対して冷淡」とか「急進的フェミニスト」などという批判を浴びることになった。こうした批判は選挙運動中収まることはなく、ヒラリーはその対応に苦慮した。この頃、法律事務所や「ウォルマート」の社外取締役、児童防衛基金の会長などの職を次々に辞している。
同年秋、ビルとクラブ歌手ジェニファー・フラワーズの不倫問題が公になり、この両者の間で交わされた電話の会話の一部を録音したテープがマスコミに流出すると、それまで選挙戦を優勢に戦っていたビルの支持率が急落した。これを受けて、ビルとヒラリーは危険を覚悟で報道番組『60 Minutes』に出演、ここでビルは素直に非を認め、ヒラリーはそうしたビルを一方的に弁護、この一件は「過去のこと」と自信を持って言い切った。このインタビューが1992年1月、全米一の視聴率を誇るスーパーボウル生中継の直後に放送されると、これを好感した世論はクリントン夫妻擁護に傾き、「ヒラリーはこれまでの大統領候補夫人とはまったく違った存在」という認識が一般に広まることとなった。ビルはその後各州における予備選を優位に勝ち進み、同年8月に民主党の大統領候補指名を受け、11月の大統領選では現職のブッシュ大統領を破って当選した。
[編集] ファーストレディー
ビルが大統領に当選すると、ヒラリーは翌1993年から8年間、アメリカ合衆国のファーストレディーとなった。ヒラリーはアメリカでは初の院卒のファーストレディーであり、初の弁護士のファーストレディーであり、したがって初のキャリアウーマンのファーストレディーである。そのため当時アメリカではヒラリーのことを、かつて国連代表を務めたエレノア・ルーズベルトと並ぶ「最強のファーストレディー」と評していた。
就任後早々、ビルはヒラリーを医療保険改革問題特別専門委員会 (Task Force on National Health Care Reform) の委員長に任命した。同委員会は、国主導型の健康保険制度導入を視野に入れた「クリントン医療保険計画」を答申したが(アメリカには日本の国民健康保険制度のような制度がない)、アメリカ医療保険制度の抜本的改革となりかねないこの計画は、保険会社や製薬会社、中小企業などによる大規模な反対活動にあい、民主党多数議会をもってしても支持を得ることができず、結局翌1994年に廃案となってしまった。これに勢いを得た共和党は、クリントン政権の政策を「急進的なリベラル改革」と位置づけて攻撃、同年の中間選挙では大幅に議席を伸ばして両院で多数となり、行政府と立法府のねじれ現象が生じることになった。
後にヒラリーは著書の中で、医療保険改革の失敗は「すべて自分の政治力が未熟であったせい」だと記している。一方当時の政治評論家は一様にこの失敗が「ファーストレディーを国政に参画させるという前代未聞の人事が国民には不適切だと受け止められたということに他ならない」と評した。しかし、1996年の著作It Takes a Village and Other Lessons Children Teach Us はベストセラー本となりヒラリーの子供を中心とした政策課題は過半数の女性には好感を持って迎えられ、また大多数のアメリカ国民は「国主導型の健康保険制度導入ということ自体がアメリカにとっては時期尚早だった」と見ていたことが世論調査などで明らかになっている。
いずれにしても、大統領選挙キャンペーンでビルがヒラリーとのコンビを「ひとつ分のお値段で、ふたつ分のお買い得 ("get two for the price of one")」と言っていたように、ビルがヒラリーを「最大のアドバイザー」と評して全幅の信頼を置いていたのは事実であり、ヒラリーはその後もクリントン政権を通じて閣議に臨席するという特別な存在であった(これはケネディ大統領が信頼する実弟のロバート・ケネディを司法長官に任命して常に傍らにおいた例を踏襲したものだといわれる)。
こうした立場のヒラリーは彼女に批判的な人々から「共同大統領 (co-President)」や「ビラリー (Billary)」と呼ばれた。こうしたあだ名は、彼女のややもすると他者を小ばかにしたかのような話し振りが、鼻持ちならない性格として批判者たちの憎悪を増幅しているためでもある。またヒラリーは、イーストウィングにあるファーストレディーとしてのオフィスとは別に、大統領執務室や閣議室のあるウエストウイングにも異例のオフィスを構えたが、そうした彼女のスタッフたちを、ヒラリー自身も含めて周囲は「ヒラリーランド (Hillaryland)」と呼んだ。
医療保険改革や中間選挙での敗北と逆風が続いたヒラリーだったが、中華人民共和国の中国共産党政府の人権侵害に反対する人権擁護団体や一部の議員が出席に反対する中、1995年9月、北京で開催された国連世界女性会議に米国代表団の名誉団長として出席、演説の中で「女性の権利とは人権である」と訴えた。1996年1月には初の著書となる『村中みんなで (It Takes A Village)』を出版した。
同じ頃、「ホワイトウォーター疑惑」関連で、紛失したとされていたローズ法律事務所時代のヒラリーによるマディソン・ギャランティ貯蓄貸付組合のための法律業務の記録がホワイトハウスで突然見つかった。1月26日ヒラリーはスター独立検察官の召喚により、紛失したとされていた記録について大陪審の前で証言を行った。
[編集] 上院議員
2000年、長年ニューヨーク州選出上院議員を務めた民主党のダニエル・パトリック・モイナハンが引退を表明すると、ニューヨーク市市長で共和党のルドルフ・ジュリアーニが出馬を表明した。ジュリアーニ市長の高い支持率を危惧した民主党は、冷めることないクリントン人気に期待をかけ、ヒラリーに白羽の矢を立てた。選挙区の住民でもなく、しかもファーストレディーの国政選挙出馬は前代未聞で、現職市長相手の選挙は接戦が予想されたが、ジュリアーニが前立腺癌治療のため出馬を取り止めると、共和党の後継候補ラヅィオ下院議員では勝負にならず、ヒラリーは得票率で55%を得て当選した(なおこの出馬も1964年にマサチューセッツ州出身のロバート・ケネディ司法長官が民主党に乞われて上院選にニューヨーク州から出馬し当選した例を踏襲したものだと言われる)。
ファーストレディー時代は左派色が強く、夫のセックススキャンダルについて「右派の陰謀」とまで言い切ったこともあるが、上院議員になると世論に同調した柔軟性も見せるようになった。
一貫して青少年の保護を主張し、「グランド・セフト・オート」(“Grand Theft Auto”) シリーズなどの暴力的な内容のコンピュータゲームに登場するセックスシーンなどを問題視して、未成年者に対するこれらの販売を禁止する法律の制定に積極的な立場をとっているが、こうした姿勢はゲーム業界や徹底した表現の自由を主張する勢力からは批判されている。
再選をかけた2006年の上院選では、共和党候補に得票率で67%対31%という大差をつけて勝利した(このため「ヒラリー当確」は全米一早く出た)。この圧倒的な再選をうけ、かねてより噂になっていたヒラリーの2008年大統領選への出馬は現実の選択肢として取沙汰されるようになった。また選挙後ビルが複数のインタビューで「ヒラリーが大統領選に出馬するかしないかは分らないが、ヒラリーが大統領になったとしたら素晴らしい大統領になることは間違いない」と彼女の出馬を言外に臭わせたことから、ヒラリー出馬説は一層真実味を帯びるようになった。
[編集] 政治的立場
ヒラリーは従来リベラルな立場をとっており、そのため同年代女性層や都市部の非白人層から強い支持を得ていた。アメリカで常に論争となる人工妊娠中絶についても女性の権利としてこれを支持していた。しかし上院議員に当選後はアメリカで根強いキリスト教右派層や保守層の支持を得るため一定の中道ないし保守的な立場も見せ、これによって民主党内の「ヒラリーだけは絶対にダメ」という反ヒラリー派の懐柔にある程度の成功をみたが、一方でそうした日和見的な姿勢によってかつての支持層の一部が離反していくというジレンマを経験している。
[編集] 大統領選
2007年1月20日、ヒラリーは大統領選準備委員会を設置2008年大統領選出馬を正式に宣言した。
詳細は「2008年アメリカ合衆国大統領選挙」の項を参照。
[編集] 名前のこだわり
アメリカ人の女性が結婚すると、通常は旧姓のあとに夫の姓をつけたものを正式な名前とする。ただしそれはあくまでも記録上のことであって、実際には「ローラ・ウェルチ」が「ジョージ・ブッシュ」と結婚して「ローラ・ウェルチ・ブッシュ」になっても、彼女は日頃から自分のことを「ローラ・ブッシュ」と名乗り、周囲も彼女のことをそのように呼ぶ。アメリカでは夫婦別姓が可能だが、多くの女性は伝統的に夫の姓を使用している。
ところがヒラリーは、アーカンソー時代に「ヒラリー・ローダム・クリントン」を名乗り始めて以来、一貫してこの「旧姓込み」の名前を使用している。ホワイトハウス時代にもファーストレディーとしては異例の「The First Lady Hillary Rodham Clinton」と呼ばれることが多く、ここでもヒラリーは他のファーストレディーとは一線を画していた。このヒラリーの旧姓へのこだわりは、保守派には「典型的なリベラル」とか「70年代のウーマンリブを思わせる」などと評判が悪かったが、一般には「いかにも自己を埋没させようとはしないヒラリーらしい」と肯定的に受け止められていた。
2000年の上院選に出馬を表明した頃には、これを機会にまた元の「Hillary Rodham」に戻すのではないか、という憶測も流れたが、ヒラリーはためらうことなく「Hillary Rodham Clinton」を維持した。ただし選挙戦では、ポスターからテレビ広告に至るまで、ありとあらゆる媒体に「Hillary」の一語のみを使用した。「Clinton」はビルを連想させて余りある、というイメージ戦略が公の理由だが、政権末期にあっても高い人気を誇るビルを連想させて選挙戦が不利になるはずもなく、つまりはこれもヒラリーの「自己へのこだわり」なのだと一般には解釈された。
このようにファーストネームで選挙戦を戦うというのは極めて異例である。今日ではマスメディアの多くが彼女のことを一般に「Hillary」と呼ぶようになっている。上院議員としての呼称や敬称をつけた名称こそ「Senator Clinton」だが、彼女が「Hillary Clinton」と呼ばれることが比較的稀であることに変わりはなかった。ところが2007年1月に大統領戦に正式に立候補すると、ヒラリー陣営では今度は意識的に「Rodham」を抜いた「Hillary Clinton」を前面に打ち出すようになった。メディアではこれを一様に「保守層への気兼ね」などと分析しているが、これが「ローダム色」の払拭を狙ったものなのか、あるいは「クリントン色」の上塗りを意図したものなのか、その辺の事情については依然として推測の域を出ていない。
[編集] 受賞歴
1997年:第39回グラミー賞最優秀ポエトリー・アルバム (Best Spoken Word Album) 受賞。
[編集] 参考文献
[編集] 著書
- 繁多進、向田久美子(訳)『村中みんなで 子どもたちから学ぶ教訓』 あすなろ書房 1996年4月 ISBN 475150181X
- 原著: Hillary Rodham Clinton, It Takes A Village: And Other Lessons Children Teach Us, Simon & Schuster Published, Jan 1996, ISBN 0684818612, ISBN 0684825457
- 酒井洋子(訳)『リビング・ヒストリー ヒラリー・ロダム・クリントン自伝』 早川書房 2003年12月23日 ISBN 4152085274
- 原著: Hillary Rodham Clinton, Living History , Simon & Schuster, 2003, ISBN 0743222245; Scribner, 2004, ISBN 0743222253
[編集] 関連文献
- ジュディス・ウォーナー(著)、河合伸(訳)『ヒラリー・クリントン 最強のファーストレディ』 朝日新聞社 1993年7月 ISBN 4022566426
- 原著: Judith Warner, Hillary Clinton: The Inside Story, Signet, January 1993, ISBN 0451178084, Aug 1999, ISBN 0451198956
- ノーマン・キング(著)、武者圭子(訳)『ヒラリー・R.クリントンの歩み 大統領の最強のパートナー』 小学館 1994年1月 ISBN 4093871078
- 原著: Norman King, Hillary: her true story, Birch Lane, Jul 1993, ISBN 1559721871
- リチャード・コーザー(著)、鳥居千代香(訳)『ヒラリー・クリントン 素顔のファースト・レディ』 東洋書林 1999年12月 ISBN 488721376X
- 原著: Richard Kozar, Hillary Rodham Clinton: Women of Achievement, Chelsea House Pub Published, April 1998, ISBN 079104713X, Bt Bound Published, Oct 1999, ISBN 0613116305, Apr 2003, ISBN 0791047121
- ゲイル・シーヒー(著)、櫻井よしこ(訳)『ヒラリーとビルの物語』 飛鳥新社 2000年9月 ISBN 4870314371
- 原著: Gail Sheehy, Hillary's choice, Random House, Nov 1999, ISBN 0375503447, Aug 2000, ISBN 0345436563
- 角間隆 『ヒラリーが大統領になる日 スキャンダルとアメリカ国民の政治意識』(『小学館文庫』)、小学館 2001年4月 ISBN 4094036954
- クリスチヌ・オックラン(著)、鳥取絹子(訳)『ヒラリーという生き方 女性が夢を実現する方法』 ベストセラーズ 2003年10月 ISBN 4584159718
- 原著: Christine Ockrent, La double vie de Hillary Clinton, French & European Pubns, 1st Jan 2001, ISBN 2221093380, 17 Jan 2002, ISBN 226611879X
- 岸本裕紀子 『ヒラリーとライス アメリカを動かす女たちの素顔』 PHP新書 2006年11月 ISBN 4569657737
- ディック・モリス+アイリーン・マクガン(著)、大須賀典子(訳)『ヒラリー vs ライス 次期アメリカ合衆国大統領をめぐる闘い』 アスペクト 2007年3月 ISBN 9784757213456
[編集] 関連項目
- ファーストレディー
- ビル・クリントン
- チェルシー・クリントン
- アメリカ大統領選挙
- 2008年アメリカ合衆国大統領選挙
- 著名な女性政治家一覧
- ジョージ・クルーニー(第80回アカデミー賞授与式での発言)
[編集] 外部リンク
[編集] 公式
- Senator Clinton’s official website
- HillaryClinton.com: HillaryClinton.com (campaign website)
- White House Biography of First Lady Hillary Clinton
[編集] 非公式
- Hillary Rodham Clinton for President 2008 website
- 2008 Presidential Wire - Sen. Hillary Rodham Clinton
- Hillary Clinton news digest site
- Clinton Leads Online Panel on “Non-Traditional Students”
[編集] 2000年上院選挙関連
- Clinton's positions in 2000 Senate Race
- Clinton enjoys strong support from Jewish voters
- Allegations during the Senate Race
- Jewish Vote Crucial
- Results & Demographic Breakdown of Votes
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