ジェームズ・ボンド (架空の人物)
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ジェームズ・ボンドはイアン・フレミング原作小説およびそれをもとにしたスパイ映画007シリーズに登場する主人公である。
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[編集] プロフィール
以下のプロフィールはフレミングの原作小説に準拠する。
商社「ユニバーサル貿易(Universal Exports)」に偽装したイギリス秘密情報部に勤務。階級は海軍中佐。上司は通称「M」と呼ばれる退役提督(本名はサー・マイルズ・メッサヴィー)。Mの部下には有能な専属秘書ミス・マネーペニーがいる。マネーペニーがボンドへ好意を寄せていると推測される言動をとるが、ボンドがそれをさりげなくかわすのが各作品の序盤における定番事項である。
ロンドン市内の高級アパートメントに、子供の頃から付き従う口うるさいが忠実な老メイドと共に居住。正式な結婚歴は1回だが結婚直後に死別(『女王陛下の007(On Her Majesty's Secret Service)』1961年)。
スポーツを好むダンディなプレイボーイ。しかし、ターゲットに一番近い立場にいる女性に手を出してMに怒られたり(『007 ゴールドフィンガー』)、『007 ダイ・アナザー・デイ』では「女たらし」と表現されたこともある。美食家で卵料理(特に鶉卵)を好む(『ネバーセイ・ネバーアゲイン』)。
格闘術(特にボクシングと柔道)に優れ、自動車や銃の扱いにも長ける。
愛車は1933年式ベントレー・コンバーチブル。色は灰色。
ボンドについて、旧ソ連国家保安省に属する殺人機関「スメルシュ」のファイルには以下の通り記載されている(『007 ロシアより愛をこめて』より抜粋)。
- 身長183cm、体重76kg。体格は骨細。
- 目は青、髪は黒。右頬に縦に(3インチほど)、左肩にも傷跡。右手の甲に整形手術の跡。
- 万能選手。拳銃、拳闘、ナイフ投げの名手。
- 外国語はフランス語とドイツ語が堪能。大学時代に日本語も多少習得した。
- 喫煙多量。
- 悪癖は飲酒(ただし度は過ごさず)、他に女。
- 買収は不可能と思われる。
- 1940年代から1950年代にかけて人気のあった作曲家・俳優のホーギー・カーマイケルに似ている。
[編集] 武器
- もとはグリップをテープで巻いた25口径のベレッタM1919を愛用していたが、1956年の『007 ロシアより愛をこめて(From Russia with Love)』でベレッタの作動トラブルによって危機に陥り、1958年の『007 ドクター・ノオ(Dr. No)』からは7.65mm口径のワルサーPPKを使うようになった。この銃は、長さ:148mm、重さ:580gである。設定では、夜、ボンドはこの銃を枕の下に置いて寝ている。1997年の第18作007 トゥモロー・ネバー・ダイ以降は9mmパラベラム弾を用いるワルサーP99を装備する。
- 軍や警察などで長年使用され(タイム・プルーフと言われる)、現在においても信頼性の高い小型のPPKから複雑な機構をもつ中型のニューモデルに安易に乗り換えるのは考証不足ではないかと一部のマニアから批判された。これは、街で目立ちすぎることのないように自動車を時代にあわせて変更していくことの「自然さ」とは対照的である。
- また、ボンドはフェアバーン・サイクス(ナイフ)をよく使用する。このナイフは、第2次大戦期のイギリス・コマンド部隊の標準装備である。
[編集] ファッション
- 劇場パンフレットによるとアルマーニのスーツ等の高級品を好む。
- 今のところ、ボンドのお気に入りのテーラーはブリオー二である。
- 小説版シリーズでのボンドはロレックスを愛用。理由はナックルダスターにも出来るため。映画版シリーズで使用される腕時計はロレックスが多かったが、ロジャー・ムーアの中期作品以降ではセイコーのデジタル時計も使用された。5代目ボンドのピアース・ブロスナンと6代目ボンドダニエル・クレイグは、オメガを使用している(007 カジノ・ロワイヤル)。 この時計も「00」諜報員の装備の一つで、様々な機能(作品の楽しみの一つなので詳述は避けるが、一例として通信機など)をもっている。
[編集] 煙草
ライターは燻銀のロンソン。シガレットケースは黒い砲金製。
- 「モーランド」のバルカン・シガレット
- ロンドン、グロブナー街のモーランドに特注しているマケドニア葉のバルカンシガレット。口に三本の金線が入った物を愛用。
- デューク・オブ・デュアレム
- 「サンダーボール作戦」でシュラブランズ保養所の世話になって以来、ニコチンが少ないこの煙草を吸う。
- チェスターフィールド
- 海外勤務時に愛用。
- 東京で愛用。
[編集] 酒
「ステアせず、シェイクしたウォッカ・マティーニ」を愛飲する。
- 自分で配分したマティーニを愛飲。なかでもヴェスパーが有名で、そのレシピは「ゴードンジンを3、ウォッカを1、キナ・リレのベルモットを0.5、レモンの皮を薄く切ったもの」後日、キナ・リレのベルモットをカリフォルニア産の「クレスタ・ブランカ・ベルモット」に替えている。
- スコッチよりもバーボン(含・テネシー・ウイスキー)を好む。I.W.ハーパー、オールド・グランド・ダッド、ジャック・ダニエルズ。フィリックス・ライターより「冷たい渓流水で割る渓流割り」を習う。
- 年代物の「ドン・ペリニョン」を好む(シリーズ第10作「007 私を愛したスパイ」終盤に、「ドン・ペリニョンを好む者に悪い奴はいない」という台詞がある)。他「テタンジェ」、「ブル・ブランド・ブラン」、「ウーヴ クリコ (ロゼ?)」など。映画タイアップの関係からか「テタンジェ・グランダネ」を好んでいる。
- オリエント急行の中でロシアの殺し屋を見破ったのもワインの知識による。主に「ムートン・ロートシルト」の年代物。
- 「マルサラ」、コルシカ産の「クレープ・ブランデー」など。
- 女性にすすめるカクテル
[編集] 年表
年月日 | 出来事 |
---|---|
1922年2月1日 | スコットランドの高地地方に生まれる。父アンドリュー・ボンドはアーガイルのグラスゴー出身のスコットランド人。母モンク・ドラクロアはスイス・ヴォー州の名家出身。(※タイガー田中がボンドを「ネズミ年」と言っている事から割り出せば1924年となるが、ロンドン・タイムズに載った死亡記事の「1941年、19歳になったボンドは・・・」の一節から割り出せば1922年となる) |
1933年 | 両親がシャモニーのルージュ峰登山中に事故死。ボンドは叔母のチャーミアン・ボンドに引き取られ、ケントのカンタベリーに近い小村で育てられる。 |
1934年10月 | 名門パブリックスクールのイートン校(Eton)に学んだが友人の家のメイドと間違いを犯し、2学期で退学になり父の出身校フェティックス校へ裏口入学。 |
1940年 | オックスフォード大学へ入学、心理学と法律を専攻。この頃フランスでクラブを経営する28歳のマルテ・ド・ブランと恋に落ちるが、レ・フェティリエールをドライブ中に事故を起こしマルテは死亡、ボンドは顔に裂傷を負う。 |
1941年 | 父のヴィッカース社時代の同僚の薦めで英国情報部の出先機関「P」支局へ見習いとして入る。 |
1944年 | イギリス海軍に出向。退役時の階級は中佐。 |
1946年2月 | 英国情報部へ復職。本部でマイルズ・メッサーヴィ卿の面接を受ける。最初の任務はワシントンの英国大使館付でCIAとMI6の連絡アタッシェ。(※この時、米国高官の奥方と間違いを犯し、一時情報部をクビになりワシントンの警備会社で働いていたとする説もある)以後、世界各国に駐在武官として1952年6月まで勤務。 |
1952年7月 | 国務省付国家5級公務員に任命されて本部へ帰任。約9ヶ月間の訓練を受ける。 |
1953年1月 | 00課へ転属。しばらくブランクだった部内番号007号を当てられる。当時の秘書はミス・ユナ・トルーブラッド。キングスロードのウェリントン広場30番地の「鈴懸の木の広場の居心地の良いアパート」へ転居。ペットポトムの叔母の紹介でスコットランド人の家政婦、メイ・マッグラーズを雇う。 |
1953年2月 | 007号として初めての任務でジャマイカへ。[要出典] |
1953年8月 | ル・シッフルと対決のためにフランスへ(『カジノ・ロワイヤル』)。 |
1953年9月 | サッフォー号がキプロスのEOKA派テロリストへ、武器弾薬を輸送しているのを探知したG局の依頼でギリシャへ飛ぶ。潜水して吸着機雷を船底へ取り付けて沈没させる。 |
1953年10月 | カジノロワイヤルの任務で、スメルシュの殺し屋に刺青を真似て付けられた切り傷(SとCHを示すロシア文字を象る手の甲の傷)の治療のために整形外科へ入院。 |
1953年11月 | 54年初頭へかけCIAのフィリックス・ライターと協力して「ミスター・ビッグ」と対決するため、ニューヨーク、カリブ海へ(『死ぬのは奴らだ』)。 |
1954年4月 | 英駐留軍司令部爆破事件の調査でベルリンへ。 |
1954年11月 | 亡命を伝えてきたKGBのボトキン大佐護送の任務でヘルシンキへ。実はカジノロワイヤルでボンド暗殺に失敗したスメルシュの殺し屋オボーリンが大佐になりすましていた。 |
1954年12月 | アメリカのドワイト・D・アイゼンハワー大統領のヨーロッパ訪問に際して舞い込んだ匿名の脅迫についてCIAと協議するためにワシントンD.C.へ。 |
1955年2月 | 中華人民共和国へ潜入した002をマカオとの国境から脱出させるためにマカオへ。 |
1955年4月 | ウラン235強奪事件究明のため、スイスとフランスへ。 |
1955年5月 | ヒューゴー・ドラッグスのムーンレイカー事件のためドーバーへ。愛用のベントレーを大破させる(『ムーンレイカー』)。 |
1955年7月 | 南アフリカの鉱山からのダイヤモンド密輸事件調査のためにアメリカへ(『ダイヤモンドは永遠に』)。 |
1956年8月 | ティファニー・ケイスとチェルシーのアパートで同棲。 |
1956年10月 | 政府の閣僚警護のためパリへ。帰国後、ティファニーがアメリカ大使館付武官と結婚。 |
1957年4月 | スメルシュがボンド暗殺を謀って仕組んだ罠へ挑戦するためにイスタンブールへ。スメルシュのグラニツキーと対決(『ロシアより愛をこめて』)。 |
1957年7月 | スペクターのローザ・クレップから受けたフグの猛毒治療のためにパリの療養所へ。 |
1957年8月 | ロンドンへ戻り再び療養所へ。 |
1957年9月 | 年内いっぱいを休養と再訓練に充てる事になる。 |
1958年3月 | カリブ海支局のストレングウェイズ暗殺究明のためジャマイカへ。現地でDr.ノオと対決。Mの推奨で愛用のベレッタM1919をワルサーPPKへ替える(『ドクター・ノオ』)。 |
1958年9月 | イギリス情報網指揮のために潜入した009救出のためハンガリー・ブタペストへ。ボンドの活躍も空しく009は死亡。 |
1958年12月 | 国際麻薬組織殲滅のためにメキシコへ。 |
1959年2月 | 再び訓練期間。 |
1959年4月 | ゴールドフィンガー事件のためスイスへ(『ゴールドフィンガー』)。 |
1959年6月 | 国家公務員4級へ昇進。 |
1959年10月 | ダレス国務長官辞任に伴うCIAとの事務打ち合わせのためワシントンD.C.へ。 |
1960年3月 | 帰国途中に滞在していたパリで欧州統合総司令部の伝書強奪事件調査(『バラと拳銃』007号の冒険)。 |
1960年6月 | 麻薬事件調査のためイタリアへ(『危険』007号の冒険)。 |
1960年9月 | 休暇でインド洋のジャングラン島へ(『珍魚ヒルデブラント』007号の冒険)。 |
1960年10月 | エコー湖でフォン・ハマーシュタイン狙撃のためカナダ、ノース・バーモントへ(『読後焼却すべし』007号の冒険)。 |
1961年3月 | Mの命令によりシュラブランズ治療所で約1ヶ月の保養。同年、ベントレー・マークIIコンチネンタルを購入。 |
1961年4月 | NATOの原爆強奪事件調査のためジャマイカへ(『サンダーボール作戦』)。 |
1961年12月 | 本部の部屋割り異動で8階の小部屋へ移る。Mは6階から7階へ。秘書のポンソビーが結婚退職。後任の秘書はメアリー・グッドナイト。 |
1962年2月 | 亡命ロシア人ボリス護送のため、カナダ・トロントへ。 |
1962年3月 | 春から夏にかけて生き残ったブロフェルド調査のため各地へ。 |
1962年8月 | 東西両陣営の原潜事件究明で地中海へ(『私を愛したスパイ』)。 |
1963年2月 | イラクのクーデターに関わる武器密輸調査のため中東へ。 |
1963年4月 | ロワイヤル・レゾーで休暇。ユニオン・コルスの娘、テレサ・ディ・ヴィセンゾ(トレーシー)と出逢う。 |
1963年6月 | ブロフェルドとスイス・アルプスで対決(『女王陛下の007』)。 |
1963年7月 | テレサ・ディ・ヴィセンゾと結婚。テレサは新婚旅行中に死亡。妻の死が原因で同年はほとんど働かず、医師ジェイムズ・モロニー卿から「働け」と言われながらも酒浸りの生活を送る。そのため00課から降ろされる。7777号が新しいコードネーム。 |
1964年1月 | 777号として日本の暗号解読機利用のため外交官の肩書きで日本へ。 |
1964年2月 | 九州でブロフェルドと対決(『007は二度死ぬ』)。九死に一生を得るが事実上行方不明に。ボンドが死亡したという記事はロンドン・タイムズにも掲載される。 |
1964年3月 | ロンドンに姿を現す。ロシアによる洗脳で廃人同様になったボンドはMを暗殺しようとするが失敗。そのまま意識不明となり数ヶ月間ジェイムズ・モロニー卿のもとで加療。ロンドンへ姿をあらわすまでの間、ロシアへ行っていたとも思われるが強度の記憶喪失により明確ではない。 |
1964年10月 | 00課へ復職。スカラマンガと対決するためにジャマイカへ(『黄金の銃を持つ男』)。 |