アンワル・アッ=サーダート
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アンワル・アッ=サーダート محمد أنور السادات |
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エジプト・アラブ共和国3代大統領
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任期: | 1970年9月28日 – 1981年10月16日 |
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副大統領: | ホスニー・ムバーラク |
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出生: | 1918年12月25日 ミト・アブ・アル=クム |
死去: | 1981年10月6日 カイロ |
政党: | アラブ社会党(1977年まで) 国民民主党 |
配偶: | ジャーハーン・サーダート |
ムハンマド・アンワル・アッ=サーダート(محمد أنور السادات Muhammad Anwar al-Sādāt, 1918年12月25日 - 1981年10月6日)は、エジプトの大統領(在任1970年 - 1981年)。日本では新聞報道などで「サダト大統領」と呼ばれており、現在も「サダト」と表記されることは少なくない。
目次 |
[編集] 生い立ち
サーダートはミヌーフィーヤ州のミト・アブ・アル=クムで、貧しいスーダン系エジプト人一家の13人兄弟の中に生まれる。彼は1938年にカイロの王立陸軍士官学校を卒業し、通信部隊に配属された。その後イギリスの支配からエジプトを解放しようという士官達の運動に加わることとなる。
第二次世界大戦中に彼は祖国解放のために枢軸勢力から支援を得ようとしたため、イギリス軍によって投獄される。その後、士官学校の同期で友人のガマール・アブドゥン=ナーセルとともに1952年のファルーク1世国王を追放するクーデターに参加する。クーデター時、彼はラジオおよびテレビ局を占拠し、国民に革命の発表を割り当てられた。
新政府では要職を歴任したのち、1964年にナーセル大統領の副大統領に就任、1966年まで同職を務めた後、再び1969年から1970年まで副大統領を務めた。
[編集] ナーセル政権下で
1970年9月28日のナーセル死去時、サーダートは国民へ大統領の死去を伝えるスピーチを行った。ナーセル政権下でサーダートは1954年に国務大臣、1959年には国家連合長官に任命された。1960年から68年までは国民会議のスポークスマン、また1964年には副大統領および大統領議会のメンバーとなる。1969年12月に再び副大統領に指名され、翌年ナーセルが心臓発作で急死すると共和制第3代大統領に昇格し反対派を一掃、国有メディアはそれを革命の矯正と名付けた。
[編集] 大統領職
[編集] 自由化の推進と第四次中東戦争
サーダートはナーセルの社会主義的経済政策を改めて自由化を進めるとともに、イスラム復興主義の運動を解禁してエジプトの路線を大きく右旋回させる。1973年10月6日に、シリアと共同でイスラエルに開戦し、第四次中東戦争を起こし、イスラエル軍に大打撃を与えた。これにより国民的英雄となった。
[編集] 対イスラエル和平
しかし、以後はナーセルの外交路線を完全に転換してアメリカに接近し、1977年にイスラエルのメナヘム・ベギン首相の招きでエルサレムを訪問。イスラエル・エジプト間の和平交渉を開始し、翌年のキャンプ・デービッド合意にこぎつけた。
この合意は、長年の敵であるイスラエルとの和解のみならず、過去の中東戦争でイスラエルに奪われていたシナイ半島の領土の返還に結び付くものであった。
[編集] 国民からの反発
この歴史的合意により、サーダートはベギンとともに1978年ノーベル平和賞を受賞するなど、世界各国から高い支持を受けた。しかし、このイスラエル=エジプト単独和平は「パレスチナのアラブ人同胞に対する裏切り」と受け取られ、アラブ諸国とムスリム(イスラム教徒)民衆の反感を招き、サーダート政権は次第に孤立する。また、経済自由化と外資導入の結果、エジプト社会に急速に貧富の差が広がり、腐敗が横行したことによる国民の不満も高まっていた。
1979年1月には、イランでルーホッラー・ホメイニーを指導者にイラン革命が勃発すると、サーダートと親しかったモハンマド・レザー・パフラヴィー皇帝をエジプトに受け入れたものの、イスラム教徒を中心とした反発を受けその後パフラヴィーはアメリカへ向かった。
イスラム教徒や知識層からの反発が強まる中、1981年9月に、サーダートは共産主義者、ナーセル支持者、フェミニスト、イスラム原理派、大学教授やジャーナリスト、学生運動家といった知識人および政治的活動家の多くを厳しく取り締まり拘束した。その数はおよそ1,600人におよび、国際的な非難を受ける。その間に経済恐慌と反対派に対する抑圧が原因でサーダートに対する国民の支持はますます減少していった。
[編集] 暗殺
1981年10月6日、サーダートは第四次中東戦争開戦日を記念しその勝利を祝う戦勝記念日のパレードを観閲中に、イスラム復興主義過激派のジハード団に所属する兵士ハリド・イスランブリ中尉により殺害された。
サーダートは4重の警護に守られており、パレードにおける火器使用の規制が行われるはずであったが、その手続きを担当する士官はメッカ巡礼に出かけていた。空軍のミラージュが上空を飛行し、群衆はそれに気が紛れていた。パレードのトラックが大統領の閲覧席前に停止し、中尉が前に歩いてきた。サーダートは彼の敬礼を受けようと起立していたが、暗殺者は手榴弾を投げつけ自動小銃を発射した。イスランブリは「ファラオへの死!」と叫びながら閲覧スタンドに走り寄り、サーダートの遺体へ銃を発射した。外務大臣のブトロス・ブトロス=ガーリ、パレード訪問客のアイルランド国防大臣ジェームズ・タリー、4人のアメリカ軍関係者が負傷した。
続いて起こった銃撃戦ではキューバ特命全権大使、ギリシャ正教司祭を含む7名が死亡し、28名が負傷した。サーダートは病院へ搬送されたが、まもなくその死が発表された。サーダートの後継として、副大統領のホスニー・ムバーラクが大統領に昇格した。ムバーラクもこの攻撃で手を負傷していた。サーダートの葬儀には世界中から多くの高官が参列した。
[編集] 家族
サーダートは2度結婚している。最初の妻エーサン・マジと1949年5月29日に離婚し、エジプト人とイギリス人の混血であるジャーハーン・ラオウフ(当時16歳であった)と結婚した。サーダートはジャーハーンとの間に三人の娘と一人の息子を設けた。ジャーハーン・サーダートは『In Search of Identity』(1977)により2001年にパール・バック賞を受賞している。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- Official website (アラビア語)
- http://www.anwarelsadat.com/
- http://www.elsadat.info/
- http://www.bsos.umd.edu/sadat
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