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高橋信次 (宗教家) - Wikipedia

高橋信次 (宗教家)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

高橋 信次(たかはし しんじ、1927年9月21日 - 1976年6月25日)は日本の宗教家。会社経営者。ハードウェアエンジニア

新宗教・宗教法人GLA創始者。長野県佐久市出身。高電工業株式会社の創業者であり、初代社長。人道科学研究所所長。

目次

[編集] 略歴

信次は1927年9月21日に長野県、佐久高原の農家に十人兄弟の次男として生まれた。旧制中学を二年生(十三歳)で中退し、陸軍幼年学校に進学。ついで陸軍士官学校に進学・卒業して、航空士官として出兵し、終戦の1945年に故郷である長野県に帰郷。上京、大学入学資格検定を受検し、主として日本大学理工学部で学んでいた。また、一時期東京大学大学院にて学んでいたとも言われているが、卒業資格を得る為の論文が、アメーバから大宇宙に至るまで、神的生命がこれらを貫いていると分析する汎神論的世界観を示したものであり、規格外れであった為に教授の失笑を買い、卒業資格を得る事が出来なかったという。[要出典]大学在学中に事業を興すも失敗して、25歳の時に3度目に興した会社がエレクトロニクス系のハードウェアを開発する高電工業株式会社であった。会社経営をしながら、自身もハードウェアを開発するエンジニアとして四百六十数件の特許を持っていた。ほか、八起ビル管理株式会社社長、人道科学研究所所長等を兼務した。

10歳頃(1937年頃)から現在で言う「幽体離脱」現象のような霊現象を体験するようになり[1]、その肉体の自分とは違う霊体の自分を「もう一人の自分」と呼び、その現象に幼心に疑問を持ち、以来約32年間、電子工学や物理学を修めつつ、探求を続けた(ただし、宗教には興味は向かわず、本人は全くの素人だとした)。そして1968年頃から本格的な霊現象が起こるようになり、「ワン・ツー・スリー」や「フワン・シン・フワイ・シンフォー」と名乗る霊からの通信を受け、それから、まもなくして執着を捨てた心の安らぎのある境地に到達し、その後、それらの霊魂は後のGLAの教義で言う「守護・指導霊」であったと明かされたという。

「フワン・シン・フワイ・シンフォー」と名乗った霊魂は、自らを信次の「守護霊」であるとし、後に歴史上のイエス・キリストその人であると知らされた。また、「ワン・ツー・スリー」と名乗った霊魂は、自らを信次の「指導霊」であるとし、後に歴史上のモーゼその人あると知らされた。その後、彼らからの指導を受けて悟りの境地に到達した信次は、宗教家としての道を歩み、その経験を著作として著し始めた。また、人々の過去・現在・未来を見通す能力によって講演会等信次の下に集った人々を導き、また肉体を持たない「」を霊視(文字通り霊を目視すること)し、これと会話したり、人々に憑依[2]している不調和な霊を取り除いたり[3](ただし、よほどでない限り、これらの霊に対して「神理」を説き、その非を悔い改めさせることが一般的であった)等、自身の講演会等において数多くの奇跡を残したとされる(高橋信次『心の発見 現証篇』参照)。また、古代エジプト語ヘブライ語、5世紀の中国語、古代マガダ語マガダ国)等を話した。ただし信次は、これらはあくまで人々を救うため、天上界で予め約束されていた(また証明としての)「方便」であるとし、特に興味本位的に過度に現象にとらわれることを戒めた。これらは、モーセの時代にも、イエス・キリストの時代にも、ゴータマ・シッダールタ(釈迦牟尼仏)の時代にも、現れた現象だとされる(「現証」)。著書や講演会での発言等から見るならば、信次は「慈悲」と「愛」、そしてその実現のための実践として「八正道」、「反省」(キリスト教的には懺悔・悔い改めに相当するとされる[4])を説いたといえる。また、仏教、ユダヤ教、キリスト教、は天上界(いわゆる「あの世」において特に調和された世界とされる。以降を参照)の指導によって作られたものであり、その精神は、「法」(自然の法則、宇宙の法則)に発するものであり、時代の新旧によって道は変わらないと説いた。 会社経営や教団運営、信者の個人指導や著作の執筆等により、信次の睡眠時間は一日3-4時間という生活であったともされる。[5]

1976年5月2-5日、青年部研修会での講演『正法の流転』において、信次は、天上界(天上界とは、いわゆる「あの世」の中でも調和された世界であるとされる。また、他の惑星にも人類は住むとし、地球が属する系として「太陽系霊団」との呼称も用いられている)の最高責任者として「エル・ランティ」という存在を示し、同6月4-5日東北研修会における講演『新復活』によってエル・ランティを中心とする「太陽系霊団」の仕組みを明らかにし、同じく東北研修会での講演『太陽系の天使達』の「現証」(霊言現象の実演)において、地上の人の肉体を通して語るとされた大天使ミカエルにより、信次がこの「太陽系霊団」の最高責任者エル・ランティ(講演『新復活』での信次自身の筆記体での表記はEl Lanty。アール・エル・ランティとも)であると示され(信次が主宰していたGLAの月刊誌『GLA』1976年7月号においても信次がこのエル・ランティであると明記されている。また、同3月21-23日の講演『魂の仕組みと正法』において、信次はある「目覚め」を得たとされているが、このときはエル・ランティの呼称は現れなかった)、その使命として、人々の心と心の調和のとれたユートピアの建設、諸宗教の誤りの是正、いずれもが天上界の指導によって作られたとされる仏教、キリスト教、ユダヤ教、イスラームの統合を目指すとした。[6]

1976年6月4-5日東北研修会の『新復活』『太陽系の天使達』を最後の講演とし、同6月25日午前11時28分、極度の疲労によるとされる肝臓と膵臓の悪化により[要出典]、自身の予言通り(今回は48歳までしか計画していないとする)48歳で逝去した(ただし、信次48歳の1976年3月21-23日、和歌山での講演『魂の仕組みと正法』においては、あと5年間、この世にとどまるとした)。

[編集] GLAについて

信次がイエス・キリストとモーセとの出会いを経て、悟りの境地に到達したとされる頃から、口コミで信次の教えを学ぼうという人々が集ってきて、それらの人々に対して自宅で教えを説くこととなった。当初は毎週土曜日に集まっていた為に、「土曜会」と称していた。1969年4月頃からそれらの人々が百人近くに膨れ上がった為に、当初は超音波温泉やサウナ風呂を開業しようと考えて着工していた都営浅草線浅草駅近くの自身の所有する八起(やおき)ビルを提供して、そこで教えを説くようになった。当時、この団体を、「神の光を顕現する会」という意味で「神光会」と称していた。

そして、当時の大阪において法華経による先祖供養を説く仏教新宗教霊友会系分派教団の「瑞宝会」教団の信者二人が当時の教祖の命令の下に、視察のため、信次が1971年8月に栃木県出流山において開いた研修会へと赴き、面会し、その教えを聴聞した。これを契機としてやがて瑞宝会教団そのものが信次の神光会に集団帰依し、合併するに至った(信次によれば、この瑞宝会による視察は、信次の指導者としての当否、真偽を見極め、本物であれば帰依するためのものであったとされる。この集団帰依は、八起ビル(略歴の節参照)での信次の講演の際、指導霊の指示により予言されていたとしている[7])。その際に瑞宝会教団が宗教法人格を取得している団体であることにより、宗教法人格を取得している団体と一般の団体が合併する場合は、宗教法人格を残さなければならないという法律(宗教法人法第39条)に則し、「宗教法人神光会」となった。その際に当時の「神光会」を国際化を考慮して英語名「God Light Association」とし、その際の頭文字を取った略称を「GLA」、「宗教法人GLA」となった。また、瑞宝会教団は「宗教法人GLA関西本部」となった。この時の名付け親は、経済界主幹の佐藤正忠氏。この瑞宝会教団が神光会に集団帰依する事を信次は当時の信者達にあらかじめ予言していたという。GLAはこの集団帰依の結果、一気に信者が数万人単位に膨れ上がり、本格的な組織作りを求められる状況にあったが、信次が宗教組織を形成する事を嫌っていた為にはっきりとした組織つくりは敬遠されたとされる。

信次没後、その教えを学ぼうと、法人格を持たず有志的に集って活動しているグループ、または個人がみられる。また、弟子等による関連著作が出版されている。オウム真理教麻原彰晃も信次の教えに影響を受けたと言われ(ただし、オウム真理教は主として、古代インド哲学「ヴェーダ」、「ウパニシャッド」、あるいは「チベット密教」等を下敷きにしており、「タントラ・ヴァジラヤーナ」等の教義を破壊活動を目的として引用する等、信次の説くところとは大きな隔たりがある)、幸福の科学大川隆法(初期に霊言集と称して信次の霊界からの伝言であるとする「高橋信次霊言集」を多数発表。後1994年、1991年発刊の『アラーの大警告』を含む高橋信次関係の霊言集を全て絶版とし、同時に信次と同じく「神理」と称していた自身の教義体系を「仏法真理」と改称して教義の内容と用語の改変を行った)等でも有名である。また、信次が創設したGLAやそれから分派した団体などを称して、GLA系諸教団と言われている。

GLA総合本部出版局『ようこそGLAへ』によれば、GLA系諸教団の一つに分類される「GLA関西本部」は、独立した教団であり「GLA総合本部」とは宗教法人として別個であるとしている。[8]

[編集] 宗教家としての実際的活動

信次は、時代が変わっても変わる事のない「正法・神理」(神が定めた自然の法則。「法」とも)、すなわち釈迦、イエスが説いた教えに戻れと主張し、自らの体験に基づくとされる魂の実在、実在界(あの世)の実在を説いた。各人の魂は死後、その人格(魂の光の量として反映。神との調和度が高いほど、光量が高い)に照応した世界に赴くとし、各人の魂の成長及び地上の調和のための方法である釈迦の説いた八正道を基礎とし、上記法則に対しての不調和な想念と行為により人間自らが作り出すとされる魂の曇りをぬぐい、本来魂が受けているとされる神の光を受けるために必要とされる「反省」の重要性を訴えた。また、反省後の想念・行為の実践を重視した(詳細は、以降の教義の節を参照)。また、人々の心と心の調和のとれたユートピアの建設、諸宗教の誤りの是正、いずれもが天上界の指導によって作られたとする仏教、キリスト教、ユダヤ教、イスラームの統合を目指した。

信次は、上記の、自身の説いた「正法・神理」(神が定めた自然の法則。「法」とも)を、自ら実践していたとされ、講演会が地方で行われた場合等、終了後に数時間にわたって自身のあり方に誤りはないか、自らの説く「法」に誤りはないか、等「八正道」に基づく「反省」をしていたとされる。信次は、霊能者(信次は、神仏との調和に適った霊能を、特に「霊道」と呼んだ。「霊道者」)として、「釈迦」の持っていたとされる超能力、六大神通力(天眼通・天耳通・他心通・宿命通・神足通・漏尽通)という能力の全てを持っていたといわれる。例に上げれば、当時のGLAの信者・未信者を問わず訪れてくる人々の人生における過去の全てや、その人がその時々に考えている事を全て言い当てたとされる。

また、ホームレス老人知的障害を持ち家出癖のある女性、ヤクザ者等の社会的に自立して生きていく事が難しいと思われる人々を無償で引き取り、自身の会社経営者としての収益で生活させていたとされ、後にはこれらの人々がかなりの数にのぼり、大家族のようであったとされる。

また、宗教、思想における盲信・狂信を批判、マルクスを踏まえて「盲信による宗教はアヘンである」とし、自身の説く教えについても、信じる前に、あらゆるものに対して疑問を持ち、疑問を持ったならその疑問の追究を怠ってはならず、疑問がすべてなくなったときに到達するものは神理(神の摂理・自然の法則)であるとしている。神理でないものには必ず矛盾が生じるとした。[9]疑問をないがしろにするのではなく、なぜ、どうしてと追究する疑問追究は前進であり、信じたならば実行し体験する。そのときに疑問は解消されるとも。[10]さらに、宗教を生活の糧にするべきではないとし、宗教活動による収益は一切取らず、高電工業株式会社の経営者としての収益で生活していた。反対に、伝道活動や普段の教団の運営費のために、自身の経営者としての収益から生まれる私財を充てたとされる。

[編集] 正法・神理(信次が説いた自然の法則)

[編集] 概要

[編集] 宇宙の本質と現象の諸相

信次によれば、我々の住むこの宇宙は、万生(信次による。すべての生命)万物(すべての物質)の根源であり、転生輪廻(循環)の法則をはじめとする諸法則に従う。大宇宙には、それをつかさどるひとつの大きな意識(「宇宙意識」[11])があり、宇宙はこの意識によって、諸法則が支配されることにより、調和されている。宇宙における万物は、総体として、限りない慈悲の姿を示している。宇宙はこの大意識の体であり、意識の中心を「心」(信次はそのように定義し、呼称している。意識の構造・機能については以降を参照)と呼ぶならば、心は、慈悲と愛の塊であり、大宇宙とこの意識は一体である。この意識こそ「神」(または「大宇宙大神霊」)であり、この宇宙は神の体である。この現象界における太陽は、大宇宙体の小さな諸器官のひとつに過ぎず、地球は小さな細胞である。宇宙体の細胞であるからには、地球もまた、意識を持つ。このようにして、万物はすべて生命であり、エネルギーの塊である。大宇宙は神体であるから、その細胞である地球もまた神体であり、すなわち、大神殿である。人間をはじめとする万物は、この神殿である地球を修行所として、己の魂を磨きつつ、この地球を、神意に沿った、調和の取れた世界である「仏国土」・「ユートピア」とするために輪廻転生をくりかえしている。これらの事実を、魂の、神に対する調和度の上昇の、ある極点で、大宇宙と一体になることによって悟ることを信次は「宇宙即我」(うちゅうそくわれ)と呼んだ。(高橋信次『心の原点』「第6章 心行」及びその解説参照)

[編集] 過去世・現世・来世

信次は、我々の住むこの物質的な世界(いわゆる「この世」)を「現象界」とよび、死後、意識の本質である「」が帰るとされる非物質的な世界(いわゆる「あの世」)を「実在界」とよんだ。人間をはじめとする万物は、過去世、現世、来世の三世をとおして、この現象界と実在界を往復しながら成長(進化)を遂げるとされ、成長とは、神仏との調和度が上昇することであり、慈悲と愛の存在に近づいて行くことである。魂の調和度は、過去世、現世における現象界での日々の心と行い(信次は「修行」と呼ぶこともあった。毎日の生活において苦楽の体験を積み、それによって学ぶこと)の集積の、神仏との調和度によって定まる。この、神仏との調和度により、人間各自の魂に、各々意識の段階が生じる。これが、各々の魂が持つとされる光の量の区域であり、これを、信次は「次元」と呼んだ。魂の次元は実在界の光の量の区域(同じく「次元」)と自然に対応する。現象界を3次元として、実在界のうち、特に調和の取れた世界を天上界(4次元、5次元、6次元、7次元、8次元、9次元、数字の大きさが調和度の高さに対応する)、特に不調和な世界を地獄界(4次元の一部に人間の自由意志によって創造された世界。神が創造した世界ではないとされる。地獄とは、己の意識の状態に相応したものであり、それだけに、自らなした不調和を心から反省することにより、調和された安らぎのある天上界へやがては移行できるとされる)という。すなわち、現象界での心と行いの調和度によって死後の実在界での住まう境涯が変わり、調和度の上昇によって、より高次元の世界に到達する。この、過去世、現世、来世の三世にわたっての、現象界と実在界の間の魂の循環は「転生輪廻(輪廻転生と同義)」と呼ばれる。そして人間は、あの世(実在界)とこの世(現象界)を転生輪廻しつつ自らの魂の成長をはかり、やがて慈悲と愛の存在へと近づいていく存在であるとされる。
転生輪廻について、信次は、人間の本質である魂(意識)に対し、肉体は人生を歩んでいく為の「舟」であるとたとえ、人生を指して「人生航路」と呼んでいた。その舟の「船頭」こそが人間の本質である「魂」であるとした。このように人間は、「魂」が本質で、肉体はあくまでも神と自身の両親から頂いた、人生を歩んでいくための仮の舟であるとたとえた。

※各次元は、3次元「現象界」を起点として4次元「幽界」、5次元「霊界」等と呼称されているが、信次によれば、3、4等の数字はあくまで呼称であって、現実として、これらの段階が、厳然として存在するとされる。それは、自らの心の眼(霊眼)が開いたときに確認できるとされる。[12]

[編集] 天上界の計画

信次によれば、神とは光であり、大宇宙に遍満するエネルギーであり、法であり、無限の意志であり、慈悲と愛そのものであるとされる。また、神は、天上界においては、霊的な「第二太陽」(または、「第二太陽のような」。いずれも信次による)として表象され、黄金色の光を放射しているとする(ただし、GLAの月刊誌である『GLA』1976年7月号「太陽系霊団の系図 明かされた高次元世界の仕組み」によれば、「霊太陽」について、「大宇宙大神霊の神の光(太い黄金色の霊子線)」を受けた「エル・ランティ」という人格を持った存在が、「客観的には」あたかも「地上にあっては万生万物(信次の用語。全ての生命と物質)を生かす中天に輝く太陽のようなエネルギーの塊」として9次元「宇宙界」に存在するとし、この「エル・ランティ」をして「霊太陽」と呼称しているとする。そのため、その世界を「太陽界」と称する場合もあるが、普通は、狭義の「太陽界」とは、「真のメシヤの助力者」である「大天使ミカエル」の役割の場である8次元「如来界」上段階を指すとしている。この『GLA』誌1976年7月号の当該の記事の署名はイニシャルの「H」となっている。また、1976年6月4-5日の信次の講演『太陽系の天使達』において、その講義中、信次自身が、エル・ランティとは神ではなく、神は別に存在すると説明して黒板に描いた図よれば、結跏ないし胡坐の姿勢をとった「エル・ランティ」の頭上、右斜め上方より輻射する光として神が描かれている)。これに対して、仏教における「如来」(信次によれば8次元の存在。大天使、または上段階光の大指導霊とも。ただし釈迦、イエス・キリストやモーセら上上段階光の大指導霊を指して「仏・如来」とし、広義には9次元の存在を含めて呼称されることもあった)[13]ユダヤ教キリスト教イスラームにおける「メシア」とは(同9次元の存在。天上界の最高責任者の呼称。上上段階光の大指導霊とも。信次によれば、メシアとは、神ではなく、神の子であるとしている。人間はすべて本質においては神と一体であり、人間はすべて神の子であるとし、人間は、その本質においてすべて平等であるとした。また、これらの崇拝を戒め、ただ彼らの在り方から学ぶことであるとした)とは、神の命を受けその意志であり自然の法則である「法」(「神理」とも)に触れて、人々に、心と行いのあり方を説き、人々を、神の心に適った調和へと導いていく神と表裏一体の、「宇宙即我」(梵我一如)を悟った人々であるとされる。このようにして、人間は等しく神の子であり、幾多の転生を経て自らの魂を成長させることにより、やがて「仏・如来」の境地に到達出来るとする。1971年現在、如来は地球において423人(地上からの逝去に伴って425人[14])である。また、その前段階である菩薩(7次元の存在。光の天使。上段階光の指導霊。ただし上段階光の大指導霊と呼ばれる場合もあった[15]セラ・ビム)がある。さらに、その前段階として諸天善神(6次元上段階の存在。菩薩に至るための修行の段階。ケル・ビム。「光の天使」という呼称については、諸天善神を含めた6次元に住する人々を総体として称する場合[16]、諸如来・諸菩薩を包括して称する場合[17]、また、広義に6-9次元の人々を包括して称する場合があった)がある。悟りの境涯へ到達するための具体的方法は、信次によれば、仏教の開祖である釈迦の説いた「八正道」、そしてそれに基づく反省を、日々の生活の中に、実際に活かすことであるとされた(「行即光」)。この八正道を実践する事により、人間は、神仏との調和度を高め、その果てに「宇宙即我」の境地に到達するとされた(ただし、信次によれば、ひとり仏教のみが「神理」なのではなく、ユダヤ教、キリスト教、イスラームも、神の心であり自然の法則である「法」の存在を示したものであるとされる[18]
この点につき、信次が強調したこととは、すなわち、上記の事実によって、人類は、民族、人種、国籍、性別等にかかわらず、本来、神の子であるからには、皆「兄弟(信次)」であり、地上においては「地球号という宇宙船に乗る同時代の同期生(同)」であって、相争うことは、全くの無知と誤解によるのであるということ、また、すべての人は、あるときはギリシャ、エジプト、インド、又は中国と、国を超え、人種を超え、輪廻転生を繰り返しながら、魂の成長をはかり、また同時に、地上の調和(「仏国土・ユートピア」)を目標としていることである。(そのような大枠での方向性が、天上界においては定まっており、これに沿って、地上への誕生前、実在界において、各自が自らの人生とその「使命」(「役割」)を、自らの手で設計した上で、地上に誕生するとされる。ただし、各自の「使命」、「役割」といっても特別なことではなく、人間らしく生活する中で「魂の修行」を行うことであるとされる。「魂の修行」とは、すなわち自身の意識を調和し、周囲の人々と調和して、明るく生活し、調和に適った仕事をし、またそれにより自身の経済を安定させ、平和な環境を作り出すこと以外になく、それに尽きるとされた)[19]
このように、信次は、特定の、宗教的な"行"を称揚したのではなく、むしろ、強迫的に祈らせる等、日常生活を圧迫するような不調和な"行"及びそれを行わせる団体を、厳しく批判した。特に、お札やお守りを強制的に買わせようとする、あるいは祈ることによってのみ救われるとし、人々を依存させようとする宗教家に己の心を売ってはならないとした。そのような"行"によっては救われる事はなく、単に教団の意のままになるだけであって救いとは何ら関わりはないとされ、調和への方法とは、逆にこれらから離れ、実際に日常生活での自身の不明な点について反省し、行動に移すことであるとされた。そのことにより、自らの不調和により作り出した魂の「曇り」を晴らし、神の光を受け、またそれにより守護・指導霊、あるいは光の天使の助力が可能となり、心の安らぎを得、また平和な環境を得ることができるとされた。
環境の調和の条件として、人間には魂(意識)、肉体、経済(衣・食・住)の三つの要素の調和が求められるとされている[20]が、その本質は、自らの思いと行いを調和することによって、自らが作り出した魂の「曇り」を晴らし、それによって神の光を自らの魂に受けることにあるとされる。人は、生まれてきたときは、誰しもが魂に神の光を受け、そのため霊視者からは、肉体の周囲に「後光」の射した状態として認識されるが、成長する過程において、環境・教育・思想・習慣の影響を受け、あるいはまた己自身の想念と行為の不調和により、魂の「想念帯」と呼ばれる領域に、不調和に相応した「曇り」を生ずる場合もあるとされる(「想念帯」については意識の次元構造の節を参照)、この自身が作り出した「曇り」こそが、病気・事故等の不調和な諸現象を招来する原因であり、その曇りを晴らすことが調和への契機となるとされる(詳細は意識の次元構造の節を参照)。その方法は、心からの「反省」とその後の償い・実行であるとされる。(「反省」については調和への道のりの節を参照)これによって、「曇り」を晴らした魂は、再び神の光を受け、心の安らぎ、さらには環境・肉体の調和を回復することができるとする。さらに、心からの反省は、魂の兄弟、守護・指導霊、さらには光の天使の助力を可能とする契機となる。ここで、彼らの助力について、重要なことは、不調和な意識状態のままでは、その魂の「曇り」が干渉するため光の天使達の意識に同通できず、彼らが協力したくても、それを受けることができず(魂の波動の同調・干渉の原理による)、逆に、調和された生活においては、魂が「曇り」を作らず神の光を受けているため、彼らの協力を得られる状態にあり、これにより一般に「奇跡」と呼ばれるような、現象の調和への転換が可能となることである。「他力」は神仏の慈悲として常にあるが、その光を受けるか否かは人間の自由意志にゆだねられる。それは、各人の意識は各人のものであり、神仏であっても自由にはならず、それだけの特権を人間は神から与えられているからであるとされる(「創造の自由性」)。それだけに、盲目的・他力的な"行"からはなれ、実際の日常生活の一つ一つの思いや行いについて、自身の不調和について心から反省し、改めた結果を実行することが肝要であるとされた。[21][22]

[編集] 調和への道のり

信次は、仏教の開祖・釈迦の説いていた「八正道」を軸に、各人が、みずからの心と行いを「反省」し、その魂のあり方を、自然の法則にかなった全体(自然・宇宙)との調和の方向へと戻していくということを説いた。八正道とは、「正見」「正思」「正語」「正業」「正命」「正進」「正念」「正定」すなわち、「正しく見ること」「正しく思うこと」「正しく語ること」「正しく仕事をすること」「正しく生活すること」「正しく道に精進すること」「正しく念ずること」「正しく定に入ること」の8つの想念・行為の規範であると、信次は規定した(「正業」「正命」「正進(正精進)」についてはそれぞれ「職業」「生活」「対人及び対環境」における規範であると規定されている)。
  • 正しさの判断基準
八正道において、「正しい」という、その規準は、神の心である「大宇宙を生かす慈悲と愛」にあるとされる。その「大宇宙を生かす慈悲と愛」に適った、偏りのない、全体(自然・宇宙)との調和を志向する思いと行いの原則を、仏説にならい「中道」とし、「中道」を原則とする人間の思念と行為(生活)の8つの規範を「八正道」とするとされた。実践的には、私心のない善意の第三者の立場に自分を置いて、物を見、聞き、語る中道に基づく八正道に適った生活を送ることにより、全体(自然・宇宙)とのより高い次元の調和を目指すとされる。「法」すなわち自然の法則・全宇宙の法則は厳然としてあるが、これに対して各人の正しさの尺度には、幽界、霊界、神界、菩薩界、如来界と段階があり、次元が上がるにつれて、自分という立場から、神の心、慈悲と愛に近づいてゆくとされる。[23]
  • 法と中道と八正道と生活
自然の法則そのままに運行されているとする自然、すなわち大宇宙は「神」の体であり、「全」なる神の意識を母体として発生した「個」の意識である人間は、これに対して小宇宙であるとされ、共に意識を持つ存在である「神」(「大宇宙」)と人間(「小宇宙」)は、「心」(意識の中心部、と信次は定義する)を通じて通い合えるとされた。この宇宙には単に物理的のみならず、人間の内面にも適用されるような法則(たとえば、想念・行為における作用・反作用の法則、魂の慣性とも言えるカルマ、物心両面にわたる循環の法則等)があるとし、ここに、法則に対する各人の調和性あるいは不調和性により、すべての苦楽が発生する契機があるとされた。この自然の法則を信次は、「法」、「正法」、または「神理」と呼び、これに沿うことによって、魂は神の光を受け(これが魂の本来の状態とされる)調和とやすらぎを得、逆らうことによって(その自由を人間は許されているとされる。創造の自由性)みずから魂の「曇り」を作り出し神の光をさえぎり、上記法則の結果として苦悩を生じるとされた(善を思えば善が、悪を思えば悪が現象化する、いわゆる「因果応報」である。まいた種は刈り取らなければならない。この「因果応報(循環の法則とも)」を、信次は宇宙の原理であるとしている)。したがって神が創ったとされ、その法則のままに運行される、大宇宙、大自然は、語らずして人生の正しい生き方を教えているとされ、逆に、自然の法則であるところの「法」を学び、これに沿って調和的に生きることが、各人の内面と、その反映である外界の調和をもたらす方法であるとされた。この法則に適う思念と行為の原則が中道(偏りのない、自然・宇宙全体との調和への原則)であり、その中道に即し、宇宙との調和へ至る具体的な実践の規範こそ、かつて釈迦が説いた八正道であるとし、人間は、この八正道を日々、一瞬一瞬の自らの「思うこと」、「行うこと」に対して実行する事により、自らの不調和な想念、行為を原因として、法則に反して(法則を縁として)造り出した苦しみ悲しみ・不調和な諸現象(結果)の悪循環から抜け出すことができ、さらに、このような地道な毎日の生活実践によって、悟りの第一歩は開けるとされた。
  • 外界の諸現象に対する「フィルター」としての八正道
我々の意識は五官を通じて外界と接触している。その中でも、外界の事象を縁として生じる「愚痴」「怒り」「足ることを知らぬ欲望」、すなわち、仏教において「三毒[24]と呼ばれるこれらの不調和な想念(赤・黒・灰のオーラを光子体に生ずるとされる)とは、信次によれば心身の不調和を生ずる原因となる代表的な想念であるとされている。これに対し、八正道とは、外界の諸現象からの影響を通してこの「三毒」を生ずることなく、中道に適った調和のとれた安らぎの意識の状態を保つための「フィルター」の役割を果たすともされた。常に自らを客観的に、善意の第三者の立場に置いて物を見ることにより、諸現象に対してこのような「毒」を食べないように制御することを信次は「フィルターにかける」と呼ぶこともあった(相手が怒っていても、感情的に反発せず、原因を反省し、落ち度があれば素直に謝り、どうしても原因が自分にあると思えない場合は、相手の身になり神に対して相手の心の安らぎを祈る。感情的に反発するときには、既に自分の中に「苦しみ」という感情として「毒」が生じているとされる)。この自分を客観的に見るという「フィルター」を用いて自分の人生を振り返り欠点を浮き彫りにし意識の修正を図ることを信次は以降に記される「反省」と呼んだ。[25]
  • 反省(「正定」の第1段階)
「反省」とは、「悪かった」と事象の表面をたどるのみならず、さらに自身の不調和な想念と行為の内面的な原因を、善意の第三者の立場に自分を置いて振り返ることにより追究し、自身の想念と行為がいかに周囲に軋轢を生み出し、また自らを傷つけていたか、その因果関係に気付き、その結果二度と繰り返さないように改め、改めた結果を無理なく実践できる状態に到達することであるとされる。それにより自身の意識・行為が調和され、結果も調和あるものとなるとされる。このとき、反省者の魂は、霊視者に対してより強く「後光」の出た状態として認識される。反省者は、あくまでも、自らの魂の成長や安らぎ、そして生活する中での周囲の人々との調和のために「反省」するものであることを自覚することとし、いたずらに気負わず、あせらず、一歩一歩前に進むことであるとしている。このように、「反省」自体に執着して日常生活がおろそかになることを戒め、反省の行為自体が中道に沿うことが大切としている。この「反省」によって自身を客観的に、第三者の立場から見ることができるようになったときに、博愛の心は芽生え、他人の言動をはじめとする外界の諸現象に対して毒されることのない自分を確立できるとされる。「正定」において、その第1段階である「反省」の後段階として、反省後の心の統一(第2段階)、守護・指導霊との交流(第3段階)ないし釈迦・イエス・モーセの瞑想(第9段階)等、段階があるとされる。[26]

※ただし、仏教のみが「神理」なのではなく、仏教、キリスト教、ユダヤ教、イスラーム、これらはなべて天上界より地上に伝えられたものであり、教えの根幹は一つ、「法」であるとされる。[18]八正道が「法」に即した規範であることにより普遍性を持つ。信次によれば、釈迦もイエス・キリストも、その恣意によってではなく、自らの内に大宇宙を発見した事実を契機として、その法則であるところの「法」を説いたとされる。[27]また、「法」について、広義には「法」及び「法」に即した人間の想念と行為(生活)のあり方の規範(すなわち「八正道」等)を包括して指す場合もあった(すなわち「釈迦の正法」、「イエスの神理」と)。

  • 宗教の変遷と神理への道
1.現代へ
信次は、現代(信次が活動した1960-70年代)における仏教やキリスト教が、長い歴史の流れの中で人々の知と意により、学問・哲学化、宗派の乱立・派閥的闘争を見、あるいは形式化・行事化し、他力信仰と化し、人々の心から遊離してしまったと説き、これに対して、釈迦イエス・キリストの時代に帰れと『人間・釈迦』をはじめとして様々な著作において説き、さらに、釈迦もイエスも他力の思想は一度も説いておらず、また、現代のように哲学化した一部の者の為の仏教やキリスト教というような難しいものではなく、生きた人間の実生活の中に存在するものであったと主張した。信次は、鎌倉新仏教の宗祖日蓮親鸞にみられる他力的思想について、鎌倉時代武家勢力の台頭によっての絶えない厳しい時代において、人々の心を救い、調和へと導くにはこのような方法でなければ難しかったと、日蓮親鸞らを擁護しつつも、人間の魂の自由意志性の観点からすれば、他力的思想は誤りであり、正法とは自力であるとした。人間は、自由意志を持ち「宇宙即我」を悟る権能を神から与えられており、その魂の「曇り(スモッグ)」は全託によっては除かれず、他力によって救われたという人は、それを縁として自分の心と行いを修正した人であるとしている。[10]また、題目や経を何万言上げたかということではなく(すなわち回数によって救われる・救われないではなく)、「南無」すなわち帰依するという言葉を心として日々の生活をすることにより魂はその曇りをぬぐい、神仏の光を受けることができるとされた。[28]それは、キリスト教においても同様であり、その教えを生活の中に生かすことが正しい道であるとしている。[29]1975年5月3-5日の講演においては南伝がむしろ正しく伝わっているかもしれないともしている。[30]ただし、信次は、魂の機能の観点から見れば自力で悟ろうとするゆき方自体に問題はないとしつつも、自我への執着(自己保存)に立脚した自力のあり方についてはこれを批判している。座禅とは日常生活を生かすための方法に過ぎず、また座禅を組むこと自体を目的とすることには問題があり、座禅のみによっては人は絶対に悟ることはできないとし、日々の生活の中において、自身の思いと行いを「神の慈悲と愛」に適う中道に保つように努力するところに悟りがあるとしている。反省のための反省ではなく「慈悲と愛」にもとる(すなわち中道に反する)自身の思いと行いに対して反省を行うことであるとする(信次は、このような、日常生活に慈悲と愛の心を生かそうとする「神仏の子としての自覚によった(信次)」自力の在り方を「調和の絶対自力」と呼ぶともしている)。[31]北伝においては、天台智顗が法華経を中国に伝えこれを説き、伝教大師天台宗を中国から日本へ伝えた頃までは、正法は生きていたされるが、このとき、中国において難しく学問・哲学化されたために多くの衆生を救うには至らなかったとされる。信次によれば、仏教には本来大乗も小乗もなく、個の悟りと全体の平和は調和するものであるとされ、また八正道とは恣意的なものではなく自然の法則に即した規範であるとした。[32]。このようにして、自然の法則との調和の方法である、中道(神の心である「慈悲と愛」に適った、偏りのない、私心を去った、全体(自然・宇宙)との調和を志向する、思いと行いのあり方の尺度・根本原則)を原則とする八正道と「反省」の生活の中での実践こそ、自己の内面や、その反映である環境を調和(前者においては心の安らぎさらには悟り、後者においては調和された環境さらには仏国土ユートピア)へと導く方法であるとした。ただし、仏教キリスト教ユダヤ教イスラームも、教えの根本は同じで、釈迦が説くところにしても、イエスが説くところにしても、信次によれば、これらは、思弁的に形成された思想や哲学などではなく、神が定めた自然の法則(「法」)を根拠とするものであるとされる。しかるに、時代の変遷に伴って、時々の権力者の意図、あるいは数多くの学者の解釈等を受けて変質し、その心はやがて失われ、諸説が入り乱れ、難しく学問化され形骸化する。そのようにして、彼らがいた当時に比べて、形式的にも、内面的にも純粋でない部分がある場合もあるとされた(このような事態を受けて、天上界はキリスト教におけるルターカルヴァンのような「光の天使」を地上に派遣し、その誤りを修正するとされる[33])。また、この自然の法則を、自我我欲のために意図的に曲げて人々に伝え、これを苦しめるものには厳しい反作用が訪れるとされた。これは法則であるとされる)。このようにして、自然の法則に適った、調和への方法(すなわち神の意思であり自然の法則である「法」と、「法」に適った全体(自然・宇宙)との調和を志向する原則である「中道」及びそれに基づく実践の規範である「八正道」)を学び、実践するところに、(自然の法則に適うため)内面の調和、外界(この現象界)の調和は現れるとし、これを外れる事により、(自然の法則に反するため)病気(純粋な身体の疲労あるいは肉体遺伝による場合もあるとされる)[34]、天変地変等、不調和が訪れるとされた(現象界と実在界の次元構造の節を参照)。信次は、この「法」を伝える人を「光の天使」と呼び、神の意思にもとづいて、彼らは、人々を調和へと導くために「法」を説くとされた。[35]
2.太古から紀元前後へ
B.C.3億4500(すなわち1976年現在から見て3億6500年前)[36][37]調和されたベータ(ベルタ)星という星から反重力光子宇宙船(UFOのこと)に乗って、新天地を求めて地球を訪れたエル・ランティとミカエルら七大天使を指導者とする宇宙船団の第一艇団は、現在でいうところのエジプトナイル渓谷東部の三角州に定住をはじめ、やがてそこに人類最初のユートピアを、エル・カンタラーと呼ばれる地に築いた。[38]それは、現在ではエデンの園としてその名をとどめる。エル・カンタラーの人々は、魂と肉体を自由に分離(幽体離脱)することができ、そのため天上の世界と自由にコンタクトを取ることができた。やがて、宇宙船団の第二艇団が地球を訪れ、その中から、一部道を外れ、調和を乱す人々が出始めた(その頃既にエル・ランティは地上を去り、天上界よりその経綸を見守っていた)。そこで指導者であるミカエルは、この一部の人々を他の場所に移し、その思いと行いを反省するよう諭した。しかし、場所を移されたところの人々は、エデンの園エル・カンタラー、及び天上界との人々との交信を断ち、やがて死後、天上の世界へ帰ることなく、その不調和な想念により、それまでは存在しなかった地獄の世界を作り出した(あの世は非物質の、意識による世界であり、思念こそが創造の根源である)。やがて、天上界の命により彼らの救済のためにサタンという名で人間として地上に出たルシフェルは、自身の地位と名誉におぼれ、天上の世界に帰ることなく、地獄の世界に堕ち、現在(少なくとも1976年)まで地獄の帝王として君臨する。それから幾多の文明の変遷、ルミジア、ムー大陸等の沈没を経て、文明は、B.C.7000頃アトランティス大陸に移る。やがて文明は高度に発達し、人々の生活も豊かであったが、心を失った時代であったアトランティスの末期、王として出たアガシャ(後のイエス・キリスト)は、失われた人々の心に愛、慈悲の神理を説いた。しかし悪魔に心を売った人々によって彼を除く(『心の発見 神理篇』において登場するファウリヤリイなる当時の人物の霊によれば、アガシャもこのとき処刑されたとされる)光の天使は処刑され、アガシャを信ずる人々も見せしめとして生き埋めにされた。その不調和な想念と行為により、アトランティスは、巨大な黒い想念に覆われ、その反作用として、大陸は沈没した(このような、大陸の沈没あるいは隆起といった「ノアの方舟」的な現象を人類は幾度となく体験して来ていると、信次は説明した。これにより知識・技術・材料等の伝達が困難となり、高度の文明であっても一夜にして原始的生活に回帰するとしている。「エデンの園」、アトランティス、ムー等、幾度もの文明の進歩と破局を繰り返し、人類は現在に至るとされている。このような経過を経て、現在、地球は「最終ユートピア」を築く段階に入っているとされた[39])。滅亡するアトランティスから逃げ延びた人々は、エジプト、ナイル渓谷へと文明を伝え、当時の七十数カ国を統合し、ユートピアを築き、エジプト文明の萌芽をなした。この当時に出た光の天使として、クラリオ(後のイエス・キリスト)、クレオ・パロータ(あるいはクラリオと同一人物か)らがいる。やがてギリシャに文明が興り、B.C1500頃アポロ(大天使長ミカエルの転生)が出る。彼は、人生の目的と使命を人々に伝え、エーゲ文明を築いた。東方での釈迦の誕生を予言し、アポロは地上を去る。その遺命を受けた彼の三十数名の弟子達により、その教えは東方のインドに伝えられ、やがて、バラモンと呼ばれた。一方、B.C.1180頃、人心が荒廃し、権力者はサタンの跳梁(憑依)を受け、底辺の人々には自由のないエジプトに、モーセが出た。当時エジプトの奴隷とされていたイスラエルの人々の中に生まれ、王宮の子として育てられたモーセは、やがて自らの奴隷の子としての出自を知り、支配者と被支配者の矛盾に目を開き、奴隷解放に立ち上がる。かくしてモーセは、ヤハウェの導きを受け、エジプトの奴隷であった60数万の民[40]を連れ、十戒をよりどころとし、カナンの地を目指した。後B.C900頃、イスラエル。モーセの教えは廃れ、偶像の崇拝、あるいは人の子の供犠を要求するバアル信仰が栄える中、エリヤ(大天使長ミカエルの転生)が出た。エリヤは、ヤハウェの命を受け、バアルを祭らせるところのアハブ王や宗教家達に対して一人立ち、数々の奇跡を行いこれらを打ち破り、モーセの十戒をよみがえらせた。B.C.32イスラエルイエス・キリスト(インマニエル)が誕生した。イエスは、ローマの圧政下にあったイスラエルにおいて、貧しい人、病んだ人をなぐさめ、癒し、また形骸化された律法に愛の心を取り戻すべく、時の権力者や律法主義者達の迫害により薄氷を踏むような日々の中、弟子(使徒)達と共に愛と、神の国に至るための悔い改め[41]を説いた。十字架上の死を経て、その後の復活により弟子達に臨んだ。やがて弟子達は、異国の言葉を語り、その教えを伝えていった(やがて、時を経て、時の権力者や教皇(法王)らによってゆがめられた教えを修正するため、天上界はミカエルの再来であるマルティン・ルター、ガブリエルの再来であるジャン・カルヴァンらを出した)。バラモンとして伝わったアポロの教えは約1000年の時を経てやがて化石化されたB.C.654インド(現ネパール)のカピラヴァストゥに、ゴータマ・シッダールタ(釈迦。上上段階光の大指導霊カンターレの再来)が誕生した。釈迦は、クシャトリヤ(武家)として生まれ育ち、長じるに従って、自身をその命と引き換えに生んだ母マヤ、戦乱の絶えない当時の世相、自身の住むカピラの城の中は優雅であっても、一歩外に出ると目にする貧しい人々、これらに疑問を募らせ、ついに出家を決意する。6年間の様々な修行の末、死を覚悟して菩提樹下に座した釈迦は、36年間の人生を省み、不調和な想念と行為を改めた。それに伴い光明の世界を垣間見、それが自身の心の調和度に照応していることに釈迦は気付き、また、その悟りを妨げようと立ちはだかった魔王パピアス・マラーとその配下をその慈悲の光によって懺悔せしめ、救いに至らしめた。これらにより己の悟りへの方法の正しさに確証を得た釈迦は、反省を進め、やがて「意識の拡大」の末、宇宙と自身が一体であることを悟った(梵我一如、宇宙即我)。悟りに到達した釈迦は、梵天(アモン、クラリオ、モーセ)の要請を受け、伝道を始めた。当時バラモン、クシャトリヤ、ヴァイシャ、シュードラの4つの身分を定めたカーストにおいて、知と意に偏った学問に明け暮れるバラモン、一見優雅であるが、戦争の不安と苦しみの絶えないクシャトリヤ、激しい貧富の差のあったヴァイシャ、シュードラ、これらの中にあって分け隔てなく、慈悲と、八正道による自己確立の道を説いた。やがて、釈迦の教えは北伝(大乗)、南伝(上座部)とわかれ、天台智顗により中国において中興、東方へと伝わり末法の時代、釈迦が予言したジャブドーバー(東方の国)のケントマティ(都会)において、天上界での計画に即して、その教えは再来した。[42]

[編集] 魂(意識)

[編集] 意識の起源

宇宙において、物質の発生は1.宇宙の大意識(神)を出発点として、2.熱、光、電気、磁気、重力のエネルギーとして分裂、これらの相互作用によって、3.物質の現象化(エネルギーの集中)が行われるとされ、一度物質化されたエネルギーは、時間と共に、分裂という過程を経てエネルギーに再変換され、このエネルギーの集中、分裂によって、物質、エネルギーの2相が永遠に循環するとされた(循環の法則)。意識においても同様に、1.宇宙の大意識(神)を出発点に、2.個としての生命が実在界(あの世)に誕生し、3.現象界に姿をあらわすとされ、一度生まれた意識は、あの世(エネルギー)、この世(物質)を両親を縁として循環しながら成長するとされた(ただし個としての個性は存続するとされた。如来も死後存続するとされる、神との一体感は持ちながらも[43])。[44][36]

[編集] 意識の次元構造

  • 精神
信次の定義によれば、「神の精(または、神仏の精、神のエネルギーとも)」、「心」、「魂」の三つを包括して精神と呼ぶとされた。
人間の意識は、「神の精」を中心点として、「心」、「魂」と、この順番に同心円的構造を持つものとして図示された。[45]
  • 「神の精(神のエネルギー)」 - 意識の最内奥
意識の中心点から発散される神のエネルギーであり、神そのもの。エネルギーそれ自体。慈悲と愛そのもの。人間は、誰しも神の精を内蔵し、自分自身の心(神の精を中心とする魂の中心部。神の精を受ける)をつくり、魂(心を中心として同心円状に展開する場。下記)を形成しているとされる。神の精を内蔵していることが、人間が、人間であるゆえんであり、人間の魂において、主客を弁別し、一切の事象を認知する能力すなわち自我意識、および大宇宙と自己との一体感(「宇宙即我」)は、魂の中心である心より流れてきたこの神の精(神のエネルギー)の波動に由来するという。
  • 「心」 - 意識の中心
神の精を受ける、器。意識の中心。慈悲と愛の織り成す光体そのものの場。心とは、神につながる基点でもあり、絆でもあるとされる。信次のいう「反省」において、心に問う、心に聞く反省の相手は、意識の中心であるこの「心」のことであるとされた。信次によれば、神とは、神社や仏閣や教会の中にあるのではなく、曼荼羅や形作られた偶像の中にあるのでもなく、一人ひとりの「心」の中にあるとされ、他人に嘘をつくことはできても、自分に対して絶対に嘘をつくことができないのは、神に通じたこの「心」のためとされる。あの世においては、超越的な存在ではなく、自らが、嘘のつけない自分自身の「心」で自分を裁くとされる。信仰とは、この神に通じた己自身に嘘のつけない善なる「心」を信ずることであるとされる。[46]また、「法」を説く人々である釈迦・イエス・モーセらのような上上段階光の大指導霊、すなわちメシヤとも呼称された人々についてはその人を拝むのではなく、その言葉である法を生活に生かすことであるとしている。[47]信次は、この心を通じて、は、神と通じ合えるとした。[48]各人の「魂」(意識)はこの「心」の波動を受けながら、向上・進歩してゆくとされる。信次はまた、この「心」を「霊子体」とも称している。[49]
  • 「魂」 - 意識の全体
心を中心として、9次元宇宙界[13]、8次元如来界、7次元菩薩界、6次元神界、5次元霊界(ここまでが90%の潜在意識)、4次元幽界(想念帯)、3次元現象界(10%の表面意識)がこの順番に同心円状に展開されている(10%の表面意識以外の90%を潜在意識と呼ぶ)。信次によれば、これら八重の同心円の全体を魂と呼ぶとされた。信次は、「意識」を「魂」を同義(「意識すなわち魂」)、又はその部分(「10%の表面意識」「90%の潜在意識」のように)として用いた。ただし、「心」「潜在意識(下記参照)」「想念帯(潜在、表面両意識の中間にある想念と行為の記録層。下記参照)」「表面意識(下記参照)」の相互作用のあり方によっては必ずしも「意識」の全体といえない場合もあり、善なる「心」「90%の潜在意識」の働きかけが「想念帯」の「曇り(黒い想念)」に阻まれ「表面意識」のみの五官に明け暮れた生活となる場合は「迷える魂」と呼ばれる状態にあるとされる。このため一般には「意識」の全体を指すが、狭義には「表面意識」と「想念帯」を合わせたものを指すとされた。
  • 「90%の潜在意識」 - 魂の潜在層・・・魂のうち、心、9次元、8次元、7次元、6次元、5次元が相当する部分。信次によれば、この層は、心に通ずる世界であり、創造と自由と智慧、慈悲と愛に満ちた、無限の宝庫、泉、空間であるという。また、摩訶般若波羅蜜多[50](内在された智慧の宝庫)とも。内界の次元は外界の次元に対応。人間は小宇宙であるといえ、魂の中心部である心に近づくほど精妙な波動を持っているとされる。精神のエネルギーの周波性については下記参照。守護、指導霊の住む世界であるとされる。各人の魂において、この潜在意識のどの層(次元)が強く作用するかが、すなわちどの次元に自分の意識が通じているかが、その人の人格として現れ、これには厳然とした段階があるとされる。[36]
  • 「想念帯」 - 潜在意識と表面意識の窓・・・4次元部分。潜在意識と表面意識の中間にある想念・行為の記録層。その位置は、人によって異なり、心に近いほど「心の問題」の理解度が高く、それは、過去世・現世の修行及び心の調和度によって定まるとされる。想念帯そのものも意識の一部であり、エネルギーから成り立っているとされ、潜在意識と、表面意識(五官を通した日常現れている意識のこと。以下参照)、それぞれの波動が混ざり合った部分とされる。想念帯は過去世・現世における想念と行為、すなわち先天・後天的経験全ての記録層としての役割を持つとされ、一日どこで何をしたか、あるいは考えたことまで細部にわたり記録されているとされる。現象界(この世)での運命はこの想念帯により制御されており、想念体をフィルムに例えるならば、現象界での生活とはその投影されたところの映像にあたるとされる。ただし、その運命には上限と下限があり、想念と行為が法に適うことにより上方へ移動し、反することにより下方に移動するとされる。各人の教養、特性、ものの見方、考え方、行動ないし心理状態、感受性は、表面意識の作用もあるが、この全経験の記録層である想念帯の影響が特に強いとされる。その事実は、いわゆる「ゲバ学生」、あるいは体系だった学問を学んでいないが立派に役割を果たす大企業の経営者の姿等を見るときに理解できるとされる。また、前記のとおり、この想念帯においては、たとえばとりわけ慈悲深い行為は金、というように、自身の思念と行為に相応した色として、人生におけるすべての思念と行為が、きわめて精妙に、細大漏らさずレコーダーのように記録されるとする。ただし、心からの反省によって改め、つぐなうとき、赤色等といった中道を逸した不調和な想念行為に相応した記録も、想念行為の記録は記録として残るのだが、反省の事実が、不調和なその部分の隣に記載されるという。この魂の機能は、神仏の慈悲によるとされた。この想念帯の色調が、死後に赴く世界を決定するとされる。それだけに、信次は、反省と、その後の調和の取れた行為が大切であるとした。なお、一般に「あの人の心は美しい・汚い」というが、信次の定義においては、これは、「想念帯」内部の想念が「美しい・汚い」ことを指しているとされる。ただし、これでは一般に通用しないため、信次においても想念帯を指して「心」と称することもあった。信次の定義する意識の中心としての「心」とは、神仏に通じた「慈悲と愛」のみの領域のため、「美しい・汚い」の相対的観念を超越しているとされる。
  • 「10%の表面意識」 - 魂の顕在層・・・いわゆる顕在意識。五官の世界。(げん。視覚)、(に。聴覚)、(び。嗅覚)、(ぜつ。味覚)、(しん。触覚)の五官、そして、これらを通しての判断の基点となる(い、意識)、があるとされた。五官による認識自体は万人に共通であるが、その情報を感受し自身の行動を決断する「意」(すなわち魂)に各自の個性が現れるため、同じ事象に対して各自相異なる感情、判断等を生ずるとされる。例えば、目で見たもの、聞いた言葉を通して、喜怒哀楽の感情を発生し、行動し、循環の法則(因果の循環)を縁として苦楽の諸現象を招来する。このようにして、人間の苦の原因は、すべて、人間の五官六根(五官+意識)にあるとされ、それは、これらの表面意識の作用(地位、名誉、容貌等の表象)にとらわれることから生ずるとされた。ここにおいて、中道に基づく八正道・反省の実践により五官・六根への執着から少しでも脱皮し、潜在意識(すなわち守護・指導霊の存する善なる領域)へと意識を向けることが求められるとされる。
  • 「業(カルマ)」・・・信次は、意識(魂)に対し持続的に作用しこれを方向付け、あるいは規制する作用(同じ因果を繰り返し繰り返し現出する循環的想念)を、仏教の基本的な概念にならい「業(カルマ)」と呼んだ。カルマの類型とその作用は以下のとおりである。
  • 「カルマの三つの類型」・・・カルマとは1.先天性のカルマ、2.両親による肉体遺伝、3.環境の3つを包括したものを指すとされた。第1の先天性のカルマについては、各人の気質として現れるとされた。すなわち意志の強弱、内向・外向型、悲観・楽観的という気質として。このような気質は修正に手間がかかるとされた。第2の両親による肉体遺伝とは、血液型、内臓諸器官の強弱、色盲等。こうしたハンディによってものの考え方や生活の仕方を変え、その自らの意識のあり方に自らとらわれ苦しみを生ずる。第3の環境とは、自身が育ってきた中での、環境・教育・思想・習慣によって作られるカルマ。このような先天的・後天的な条件を縁として各人の意識の中に形作られた偏った、中道を逸した考え方・物の見方が執着(「これは自分のものだ」「自分は有能だ」「死にたくない」等意識がもの・ことにとらわれること)となり、想念帯に「黒い想念(曇り)」を生ずる。執着が強くなると心と肉体のバランスを崩し、病気がちになり、対人関係、仕事の面においても不調和になってくるとされる。
  • 「想念と、その一形態であるカルマ」・・・信次によれば、「想念」(すなわち思うこと)とは、潜在意識と表面意識の混合されたエネルギー活動を指すとされ、想念体を隔てた内部(すなわち潜在意識)と外部(すなわち表面意識)の活動比は通常2対8ないし1対9ぐらいの比率であるとされる。したがって、両意識の混合した部分である想念帯は、表面意識の影響が非常に大きい部分であるとされた(五官に意識をとらわれやすく、環境の影響に左右されやすいとされる)。視覚、聴覚といった五官を通した表面意識の作用に魂がとらわれ(「執着」。前出の「カルマの三つの類型」参照)、場合によっては「自己保存」(他人はどうなっても、自分さえよければとする見解。信次によれば、悪とはすなわちこの「自己保存」を指すとされた)の想念を起こし、これらに基づく不調和な行為をなすことにより、想念・行為の記録層である想念帯及び表面意識に「黒い想念」が生じ、やがて、時を追ってレコーダーの再生と同様にその「黒い想念」が自身の事故・病気等の不調和として現象化するとされた。ただし、この「黒い想念」の現象化は、心からの反省及び償いによって、相殺ないしはその分量を減少することができるとされる。表面意識を正し(五感にとらわて、他を省みることなく欲望のままに突き進むことの無いようにすること)、想念帯を浄化する(思いと行いを正すことによって魂の曇りをぬぐう)ことは、潜在意識(善我)の作用を、この想念帯や表面意識に作用させる契機となるとされた。それは「心」や「守護・指導霊」の「光」が表面に到達するということを意味する。ただし、潜在意識のどの層が強く作用するか、すなわちどの次元に自分の意識が通じているかが、その人の人格として現れ、これには厳然とした段階があるとされる(前出の「90%の潜在意識」「想念帯」の説明を参照)。また、この作用が「霊道」(すなわち霊能力を発現する回路。詳細は現象界と実在界の次元構造の節参照)[51]の開発を伴うかには守護霊の意図、あるいは本人の状態により個人差があるとされる。このような表面意識の制御、想念帯の浄化の方法として、「八正道」及び「反省」が要請される。
  • 「光子体」 - 魂の乗り舟・・・また、魂を包み、実在界における体として機能する「光子体」がある。肉体を持った人間においては、光子体と原子肉体(物質界・現象界の肉体。信次による)は「霊子線」という無限に伸び縮み可能な「管」によって結ばれ、一体化し、電磁的に、双方向に、情報のやり取りをしているとされ(睡眠中は、肉体から離脱した魂が実在界で精神のエネルギーを補給するとされる。ただし、霊子線は接続されたままである)、脳は演算装置に過ぎず、記憶の中枢は光子体にあるとされる。この霊子線が切れ、光子体と原子肉体とが完全に分離したときが死(すなわち魂の、実在界・あの世への帰還)を意味するとされる。[52]

[編集] 魂の本体と5分身

信次によれば、人の魂は、1人の本体と5人の分身からなるとされ、その組成には

  • 1.男本体1、男分身5
  • 2.女本体1、女分身5
  • 3-1.男本体1、男分身2、女分身3
3-2.女本体1、女分身2、男分身3

の、3系列があるとされた。[44]本体と分身は、正確的長所や欠点について同じような特徴を持っているとされ、本体は自らに加え、各分身が作り出した「カルマ」までも解消する役割を持つとされた(分身は自身の「カルマ」解消のみでよいとされた)。これらを、信次は「魂の兄弟」と呼んだ。6人のうち1人が地上に出た際には、残りの5人のうち1人が守護霊をつとめるとされる(肉体先祖がつとめる場合もあるとされる[53])。「魂の兄弟」とは別に、地上の人間が就いている専門の職業について、実在界から指導する霊を指導霊と呼ぶとされ、これは、それぞれ物理学なら物理学、法律なら法律といった地上にいる人各々の専門分野に応じた霊がつとめるとされる。その指導は努力に比例し、絶対に不平等はないとされる。[54]

※これに対して動物の魂は本体1分身5、植物は本体1分身4、鉱物は本体1分身は各元素の原子番号の数(すなわち原子核中の陽子数ないし核外電子数)とされた。[55][36]

※精神はエネルギーそのものであるとされ、魂の、中心(心)の波動は細かく(周波数が高く)、次元を下げて、その表面に近づくほど荒く(周波数が低く)なっていくとされた(実在界・現象界等の外界の次元も同様であるとされる)。[56]

※「神の精」は「神仏の精」とも表現されたが、如来界、宇宙界の人々の魂の構造一般をも包括して説明するため、ここでは前者で統一している。

※「神」を大地、「魂」を樹木、「心」を樹木の根にたとえるとすると、大地(「神」、「神の精」、「神仏の精」、個の意識の母体)から生えた樹木(「魂」個の意識の全体)において、その枝(「心の機能」、人間が普段体験する「感情」、「意志」等のこと)は、根(「心」意識の中心、根源。神につながる部分)を起点として、9次元、8次元と、魂の表層へ向かって幹(「潜在意識」意識の90%に相当するとされる)が伸び、3次元(「表面意識」表層の意識。日常生活の中での五官を介した意識。全体の10%程度に相当)に至って、6つの枝(領域)に分岐する。この6つの領域を、信次はそれぞれ「想念」、「本能」、「感情」、「知性(智性)」、「理性」、「意志」と呼び、これらはそれぞれ個別の心的作用を持っているとした(これらは、ほぼ字義通りにとってよい。「知性(智性)」は体験を通して学んだ気付きの総体。「理性」は「本能」や「感情」に対する制御機構、ブレーキ、暴走を食い止める)。これらの相互作用により、想念、行為が発生する。このときに生じる各領域の不調和(感情なら怒り等)が、個別のカルマを形成し、苦楽の人生を形作るとした。これらの調和をはかることが「八正道」であるとされた。表面意識と潜在意識は想念帯という想念が記録された壁によって(想念「帯」という名のとおり)さえぎられているが、「八正道」に基づいた日々の生活によって表面意識と想念帯が浄化される(これが八正道の効果とされる)と、想念帯の壁が崩れ、心の内部の潜在意識が表面意識に流れ出し(「霊道」)、これまで学んだことのない過去世の言葉や智慧が生じてくるとされ(摩訶般若波羅蜜多、すなわち内在された智慧)、また上記の節で説明されたように、不調和なカルマ(自然の法則に対しての不調和な想念行為とその影響)を造らないため、内面、周囲の環境ともに調和された結果が生じはじめるとされる。表層においては分岐し、独立して働いている心的作用の6領域は、心の根源部分においては統合、すべての領域が調和され、慈悲、愛、智慧、建設、義務、責任、使命といった神の子の己に帰り人間と大自然の仕組みが理解され、神の恵みを心から受け取ることができると信次は表現した(信次は最晩年の講演『太陽系の天使達』でこれを「心の眼」、「心の耳」等と表現した)。「宇宙即我」の大我(真我、以下参照)とは心の根源部分に表面意識がつながり、発現された姿であるとされた(釈迦、モーセ、イエス・キリストの悟り)。信次は、「自我」を、通常の字義通り、主体と客体とを区別し、主体として自覚される「自分」という意識として用いている。信次はさらに、この自我を「偽我」、「善我」、「真我」と区分し、上記の6つの領域のうち「本能」、「感情」、「知性」、「理性」のいずれかが、単独で「意志」に結びついたときに「偽我」として現れ、各々個別の欠点として現れるとされる(霊視者には各所に凹凸のあるいびつな心として観察される。これは理論や思想ではなく、事実であるとされる)。また、「反省」によって、欠点を修正した時に心の各領域は調和され(霊視者には丸い心として認識される。このときに、柔らかい金色のオーラ・後光が出ているとされる)善我を自覚できるとする。さらに、現象の世界においては別々であっても人と自分は本来一つであり、神の心の中で生かされていることを自覚する「宇宙即我」(梵我一如)を悟った「真我」があるとされる。このようにひとくちに「自我」といっても、「心」、「潜在意識」、「想念帯」、「表面意識」の相互作用のあり方により、「偽我」、「善我」、「真我」の三つの相(あり方)を持つとされる。[57]


[編集] 現象界と実在界の次元構造

[編集] 概説

信次は、神仏との調和度により、人間各自の魂に、光の量の区域が生じると説いた(現象的には光子体の「後光」として表象する。後光にも段階がある)。この各人の魂の光の量が、天上界(実在界)、あるいは地獄界と自然に対応しており、5次元、6次元、7次元(数字が大きいほど調和度が高い)のような階層構造を発生させる契機となっていると説いた。天上界(実在界)は非物質的な世界(波動の精妙な高次元の意識界)として地球を包む同心球状に展開しており、地球からはなれるほど調和度が高い(次元が高い)、「美しい心の状態によって作られた精妙な世界」であるとされる。また地獄界とは、4次元「幽界」の一部に、神ではなく人間自身の不調和な想念によって創造された領域であるとされる。この3次元現象界(この世)は地獄以外のさまざまな次元から地上に来た人が生活を共にしているとされる(これに対してあの世は、意識の調和度、すなわち光の量によって各次元が構成されており、低段階から上段階へは単独では上昇が難しく上段界の光の天使や指導霊が一緒でなくてはたとえ一時的であっても行けないとされる。これは心境すなわち魂の光の量による。逆は可で、自由に行き来できるとされる)。地獄以外からの出生となるのは、地獄に落ちた人は、地獄から直接現象界(この世)に生まれて来ることはできず、地獄において自らの不調和な想念と行為への反省を遂げ、魂の光の量の増加に伴って、守護・指導霊や、6次元の諸天善神と呼ばれる霊たちに導かれて天上界へ至り、天上界での更なる反省を経て、ようやく地上に生れてくることによるとされる(そのとき、地獄の霊においては、反省・悔悟にともなって、あの世での「意識・魂」の乗り舟である「光子体」と呼ばれる人体と瓜二つの体の容貌も調和の方向へ変化する)。そのとき悔悟し、改めた霊は、再び地上へと生まれ変わるにあたって、新生を志し、地上に降りてくるという。その際に、みずから困難な人生をあえて選択する霊もあるとされる。出生にあたっては、本体や分身といった魂の兄弟との相談、また上段階の光の指導霊の計画によって(その際も本人の希望が重視されることはいうまでもないとされる[58])、あの世の役所と呼べるような機構に出生を申請する。その仕組みは一寸の誤差もなく、この現象界の電子計算機などよりも精妙な設備が設置されている場所であるとされる。このようにして、各々の人生を計画した上での出生となる。このようなことから、生まれたての赤ん坊は、例外なく「きれいな魂」(客観的には、魂がその中心部の神の光を受け、いわゆる「後光」が射している状態)を持つと言われた。[59]生まれたての赤ん坊の頃は、守護霊が見え、しかも、対話できるとされる。しかし、長じるに従って、普通は、そのような、いわゆる超感覚的知覚ESP)と一般に呼ばれているような感覚は閉ざされていくとする。あの世においては全意識の90%程度が顕在化し、残る10%が潜在化するのにたいし、この世においてはあの世と比率が逆転し、誕生時に意識が一度100%潜在化した後、10%が顕在化、90%は潜在化する。かかる意識状態において、自身のカルマ(想念帯に形成された同じ因果を繰り返す循環的想念。ここでは先天的カルマである自身の「気質」のことを指す)の修正、魂の成長、同時に人と人との心の調和のとれた平和な安らぎのある環境を作り出すことが、人間の役割であるとされた。赤ん坊の頃にあったこれらの能力の、長じるに従っての解消について、信次は、それは、異常なのではなく、この世での修行(このように信次は呼んだ。すなわち魂の進化)のために、あらかじめ定められているのだとされた。信次は、これら「見えたり」「聞こえたり」の能力を保持した状態「如心」、「観自在」と著書において表現した(10%の顕在意識と90%の潜在化された意識の間にあってこれらの「窓」の役割を果たす「想念帯」と信次が呼んだ部分の浄化が進むことによって潜在意識と顕在意識の回路である「霊道」が開き、仏説で「摩訶般若波羅蜜多」と呼ばれる過去世からの記憶すなわち「内在された叡智」が表面意識に対して解放されることにより、生きながら過去世等を自覚すること[51])が、かかる能力を、取り立てて過大視したり、GLAに集う人々にこれらの超能力の獲得を推奨したのではなかった(むしろ、霊能目的の修行を常に戒めた。[51])。信次は、慈悲と愛を根底におき、その実行による、各人の心の調和(それは自然に神仏との調和度の上昇も意味する)と、それに伴う地上の平和を説いた。そして、逆に、こういった「肉体行」と信次が呼んだ、超能力の獲得のための修行では、何がしかの能力が得られることはあったとしても、悟りを開く[60]ことは絶対にないとされた。悟りを開く契機となるのは、いつにかかって慈悲と愛の想念、そして、それに基づく日々の行為(すなわち中道を規準とした八正道、反省の日常生活の中での実践)による魂の光の量の上昇のほかはないとされた。[61]

このようにして、各人の神仏との調和度による光の量の区域が発生することになる。この区域を信次は「次元」と呼び、7つの次元を示した(それ以外の10次元や11次元といった次元があるかは示されなかったが、1976年6月5日の高橋信次講演『太陽系の天使達』によれば、メシヤとは神の意識へと到達する寸前の魂を持つとされ、また同6月4日、高橋信次講演『新復活』による太陽系霊団の系図によれば、神の光は、9次元、8次元、と次元を下って3次元にまで至る流れを持っており、少なくとも、7つの次元の最上位に神がいることは確かである)。これらの次元は以下のとおりである。


[編集] 天上界

  • 9次元「宇宙界」[13]
  • 直接神の光を受けている真のメシヤ[62]
  • エル・ランティ[63](高橋信次[64]
  • エル・ランティの光の分霊(魂の分霊、メシヤ)
  • 8次元「如来界」
  • 7次元「菩薩界」
菩薩界の文明は、地上の人々の想像を絶するほど香り高いとされ、8次元「如来界」とほとんど変わらない社会生活が営まれているとされる。その様子は、中央都市とその近郊のような印象を受けるとされる。
  • 6次元「神界」
医学、天文、物理、哲学、文学等、一切のエキスパートが、百般の研究を続ける。地球上とは比較にならないほど文明が発達しているとされる。
  • 5次元「霊界」
相当数。党派、人種を超え、人類は兄弟であると自覚する世界。幽界より精妙化され霊域(光の量の区域、「次元」)が高い。
  • 4次元「幽界」
相当数。この現象界とは比較にならないほど調和度の高い世界。上段界の世界に比べて現象界に近い暮らしを営んでいるとされる。

※上記()内部は、転生時の名前である。

※7次元上段階は特に「梵天界」、8次元の別の呼称は「金剛界」、8次元上段階はこれを「太陽界」とし、「太陽界」については広義に9次元を含んで呼ばれる場合もあった(ただし、9次元は、通常、狭義におけるところの「宇宙界」と呼称される)。

※各次元人口は、1971年5月10日現在の地球におけるものである(信次によれば、他の天体にも人は住むとされたが、上記においては地球のみの統計である)。 [75]

※信次最晩年の講演『新復活』(於1976年6月4日山形県蔵王)において、釈迦、イエス・キリスト、モーセの天上界での呼び名はそれぞれカンターレ、アガシャ、モーセであるとされた。また、同年5月2-5日講演「正法の流転」において、イエス・キリストの前の生命(すなわち前世)をアガシャ、アモンであるとした。このように『心の発見 科学篇』とは相違点が見られる。

※6月4日の高橋信次講演『新復活』及びそれに基づく太陽系霊団の系図によれば、イスラームの開祖ムハンマド(マホメット)は大天使ガブリエルの指導を受けており、同系図においてガブリエルの下位、諸菩薩・諸天善神の上位に配置されている、如来界あるいは梵天界(菩薩界上段階)の光の指導霊である。ムハンマドが一方において平和を唱え、他方において武力を行使したことについて、信次はこれを自己矛盾であるとし、釈迦、イエス、モーセ[68]の生き方を見るとき、目的が平和であるならば、手段も平和でなければならないことがわかるとした。[76]

ヘーゲルマルクス(ただし、信次は、共産主義、及び、旧ソ連北朝鮮等の共産主義国家については、サタンの跳梁を許しているとして批判した)、コントスペンサー等、これら人文・社会諸科学の哲学者・思想家についても、1976年5月2日-5月5日の講演「正法の流転」において信次は言及。社会思想の改革のために天上界より使わされた光の天使であったとされた。次元は不明。[77]


[編集] 仙人界・天狗界(5次元、6次元の裏側)

  • 「仙人界」
  • 「天狗界」
信次によれば、これらは「肉体行」によって自分を悟ったものが行く世界であるとされる。彼らは、心に慈悲と愛の心を持つことなくこの世を去ったため、死後に行くとされる世界は(意識の同通する世界は)この仙人界・天狗界であり、そこでは死後もなお、彼ら自らの魂が作り出した、カルマという一種の慣性によって、つまり自らの魂によって、さらに厳しく修行を続けさせられるとされる。A.D.1800以前に起こっていたとされる神隠し(地上から忽然として人がいなくなること)とは、仙人界・天狗界の住人が実力試験として3次元(地上)の人間を実在界(あの世)に連れ去って行ったことによるとされ、その人間達を戻すことができず騒ぎを起こしたことがあったとされる。彼らはその事件のため、実在界の指導者である上段階光の指導霊(菩薩)や光の大指導霊(如来)によって、その力を封印されるということがあったとされる。それ以降は、取り締まり強化のためいたずらもなくなったとされた(1971年現在)。これに対して信次は、この地上界は自己満足を得るだけの場ではなく、多くの人々の共同生活によって成り立つ社会であり、周囲の人々に手を差し伸べることが大切であるとした。[78]

[編集] 地獄界(4次元の一部に、人間の自由意志によって創造された不調和な世界)

[編集] 概説
  • 地獄界の形成
地獄界は、「人生航路」における修行結果の不調和な想念と行為(恨み、ねたみ、怒り等の想念とそれに基づく破壊的な行為)に比例した世界として存在しているとされた。その誤りを悟るまで、自分の意識が通じている地獄で反省しなければならないとされる(魂の波動がその世界に同通するため。信次は、よく、ラジオ等の周波数に例えた。『心眼を開く』第5章 用語解説「意識の同通」参照)。地位、名誉、経済力、学歴の一切は、あの世では通用せず、通じるのは、己の心の調和度と、毎日の正しい(「正しい」とは神の心である「慈悲と愛」に適った、全体に対しての調和的な想念と行為の在り方をしていうとされる。調和への道のりの節参照)行為とその努力の集積であるとされた。[79]あの世の天上界・地獄界はいずれも意識の世界であり、この現象界にも「因果応報」として貫いている自然の法則が、現象界においてはタイムラグがあるのに対し、あの世とは、意識の内容が、即座に現象化する世界であるとされる。善を思えば善が、悪を思えば悪が、その心的内容に即して、きわめて敏感に現象化されるとする。前記「現象界と実在界の次元構造 - 概要」の節のとおり、ここにおいて、各自の想念・行為の神仏に対する調和度により、厳然とした段階が発生する。それだけに、気付いたならば自らの思いと行いを正すことが大切であるとされる。天上界、地獄界、いずれにしても、自分の魂の「想念帯」(生前自らがなした想念と行為が記録される魂の一領域。意識の次元構造の節を参照)の記録が、自分の行くべき世界を決めるため、死後の裁きは神や仏等の超越的な存在によるのでなく自らなすものであるとされ、それだけに情状酌量は一切なく、かつ嘘は通じず、正確無比で、厳しいものであるとされた。このようにして、地獄界とは、人間の自由意志に基づく想念によって形成された世界であるとされる(一念三千)。[80]地獄界に落ちた魂は、一般に、長くとも2-300年で、天上界へ進化して行き、1000年、2000年も地獄で生活して悟れない者はほとんどいないとしている。この間、魂の兄弟や、守護・指導霊があらゆる方法で、彼らの自覚を促すための援助を続けるとされる。[81]
  • 地獄界の解消とユートピアへの道
上記のとおり、地獄界は、神が創造した世界ではないとされる。人間は、神の子であり、親が子を思うのと同じで神は人間に慈愛の念を送りこそすれ、人間に罰を与えるなどということはなく、それだけに、罰を与えると称する神がかりの者、組織からは勇気を持って離れることであるとされた。己の想念・行為が調和されている限りにおいて地獄に落ちるなどということはないとされる。罰とも呼べるような現象は、自らの想念と行為が調和を外れた片寄ったものとなり、中道を逸脱した分量だけ法則の反作用を受けて苦しみとして現象化しているにすぎないとされる[82]。地獄界は、人間のありとあらゆる不調和な想念行為の集積による魂の曇りの度合いに照応している。つまり、神が人間の自由意志を認める限り、さらに、人間が不調和な想念行為を繰り返す限り、地獄界は存在し続ける可能性を持っている。地獄界も天上界同様、神仏との(不)調和度によって階層構造をなし、この世と違って自らの想念に対して結果が瞬時に現象化する世界であるとされる。すなわち、悪念を抱けば悪が、善念を抱けば善が、瞬時に眼前に現出するとされる。このようなことから、自らの過ちに気付けば反省が早い(より調和度の高い世界に脱出できる)が、反面、心の曇りが深ければ深いほど、自身の不調和な想念に比例した過酷な世界が現出するために、その反省の暇もなく(その過酷な現象が、実は、自らの想念が引き起こしているという過ちに気付かない、あるいは気付いていても抜け出すことが難しい)、自分が誰であるかを忘れるほどに、現象に翻弄されるという。このことから、この地上に生きている間に想念行為を正すことが肝要であるとされた。さらにこのことから、地獄の低段階(「魔王」)に至るほど、自力での反省は難しい(彼らも本来は神の子であるが、神の子としての善なる本性を見失ってしまっているという。しかし、彼らもやがては自らの誤りを自覚し、悔い改めることによって救われていくとした)とされ、地獄の救済は、まず、不調和の程度の浅い人々からとされた。この地獄界に堕ちた人々を救済することによって地獄界を解消すること、それが、地上に生きる人間の役割でもあるとされた。地獄に落ちた人々は霊視によって、この現象界の成り行きを見守っており、彼らの子孫である地上の人間の生活態度によって、不調和度の浅い人は、自らの過ちを悟り、やがて天上界に至るとされる。それによって、彼らよりやや不調和な(やや深い層の)人々も自らの非を悟り、天上界へ至るとされる。このようにして、順次、何層にも澱が溜まっているともいえる不調和な世界へと、神の光がだんだんと射すようになるという。このように、救済といっても、何か宗教的に特別な"行"をするということでなく、現在、地上に住む人々が各々心を調和し、周りの人々と協力して、平和で安らぎのある環境を、神頼みするのではなく、自力で形成して行くことであるとされた(神ですら侵さない人間の自由意志性による)。その努力によってこそ、神の光は射し(地獄界だけでなく地上においても神の光の射さない地域はあるとし、人間が、自ら作り出した不調和な想念が渦巻く、たとえば、スターリン体制下の旧ソ連等においては、彼らが自覚し改めるまで、食糧危機、自然災害等が、指導者の専横や人心の不調和等に照応した自然現象として発生するとされた。このように、神の光と現象の諸相は相互作用しているとされる)、さらに、自覚と努力に相応して守護・指導霊の協力もあるとされた(地上の人が不調和な思念と行為の波動を持つ限り、その波動に相容れない守護・指導霊は、彼らが協力したくともすることができない。魂の波動の、同調・干渉の原理による。信次によれば、精神はエネルギーそのものであり、人の想念は周波性を持つとしている。そのため想念と行為にもそれに相応した波動があり、行うことによって発散される。これにより、思念と行為に相応・同調した苦楽の諸現象を招来するとされる。因果応報。それだけに、自身の意識を調和することが重要であるとされる。前記意識の次元構造の節参照)。地獄界が解消され(すなわち地獄に落ちた霊がすべて、もといた天上界に帰り)、地上においては、精神・肉体・経済(衣食住)が調和され、また人と人との心の間の調和がとれ、信頼と愛のある平和な世界を信次は「仏国土・ユートピア」と呼んだ。[83][62]

[編集] 地獄界の諸相
  • 「地縛霊・浮遊霊が特定の執着によって地上界の一部に形成する地獄界」
特定の執着(死への恐怖から自身の肉体への、あるいは特定の「もの」への執着等)を持つ霊が、その執着により地上界の特定の場所(事故現場、自殺現場、戦死箇所等)から離れられず、その場所に地獄界を展開する。このような霊を地縛霊・浮遊霊と呼ぶ。同じような意識を持つ人に憑依しその人生を狂わす場合もあるとされる。彼らに対しては、特定の人が、特定の経文を上げても救われず、経文や祝詞が理解できる霊なら地獄には落ちることはないとされる。お経や賛美歌等、声の波動を通して意識や霊域を調和することは可能であるが、最も重要なことはその内容を実践することであるとされる(声や音の波動については高橋信次『心の原点』「第6章 心行」で触れられている)。地獄の霊達は、人間の心の中を見る能力を持つため、地上の人々は、自らの心と行いを正した上でその執着の間違いを教え、地上界が本来の住処でなく、天上界こそが本来帰還すべき場所であることを教えることが大切とされる。それにより彼らは執着の苦しみから解脱し、足ることを悟るとしている。[84]
  • 「憑依」 - 意識の同調現象
憑依については右のリンク先の註を参照[2]
  • 「無意識界」
魂が無意識状態にある世界。精神的によりどころなく、悩みを抱えたまま死を迎えた人が陥る[85]とも、不調和な生活をして道を踏み外して無意識状態でこの地上界を去った人が100年ないし200年間陥る[86]ともされた。前者においては、信次がイエス・キリストの協力を得て、その人の意識を揺さぶり、目覚めへと導いた例がある。
  • 「暗黒界」
自殺者の世界。一寸先もわからぬ穴倉のようなところに閉じ込められての苦しみの連続。鼓膜が破裂するような轟音の鳴り響く世界等、一様でない。この世では、頭痛や幻想に襲われても麻酔や疲労が救いとなって眠ることができるが、あの世では意識は克明なのでそれが叶わない。[87]
  • 「血の池」
生存中、情欲に心が燃え、他人を省みることなく人生の大半をその中でしか生きてこなかった人の世界。「血の池」で溺れる。彼らの意識に同通する女性の子宮内部に形成される。人体は小宇宙であり、細胞・臓器にも意識がある。一個の細胞からすれば胃・腸といった臓器は、人間が仰ぐ大宇宙に等しい。この細胞意識のほかに、生前欲望の渦に巻き込まれ翻弄された人々(数百ないし数千)の意識が、肉体を持つ人の意識と同通することにより、局所的に地獄界が形成される。[88]ただし、このほか、「色情が強く、常に肉体的な欲望の強い人々が、その欲望を満たすことができない、常に精神の不安定な生活の続く」世界があるとされる。[79]それが、この「血の池」に相当するか包含関係にあるか等は不明。
  • 「火炎地獄」
放火を行ったものが行く世界。[79]
  • 「冷寒地獄」
  • 「煉獄」[89]
苦しみや悲しみの世界。常に心の中に闘争と破壊の渦巻いている人々の世界で、安らぎはないとされる。人をそしる人、怒る人、偽善者、狂思想者等が陥るとされる。[79]
  • 「修羅界」
栄達のみを望む者、闘争に明け暮れている者、不調和な教義を諸人に説く指導者、組織の細胞と化している者など心に平和のない人々は、この阿修羅界に通じ、生きながら阿修羅地獄で生活をしているとする。[79]また、戦争は人間最大の犯罪であり、その指導者、それを喜ぶ者は、生ける地獄の阿修羅であり、その償いを地獄界で行わなければならないともされる。国家権力による命令によって戦争に巻き込まれても、できれば否定することであり、常に正しい自分自身の「心」に問うて、正道に適った行動を実践することであるとした。聖戦などという戦争は存在しないとされた。[90]
  • 「餓鬼界」[89]
金銭欲の強い人、この世に未練や執着を持つ人、己自身に足ることを知らぬ人々が陥るとされる。現象界においても、物質経済の奴隷となり、常に自我我欲と自己保存に徹している人々はこの餓鬼界に意識を通じ、生きながらして地獄の生活をしているとされる。[79]
  • 「畜生界」
情欲のみで、他人より自分だけの欲望の心の世界。「動物的本性丸出しの人」が陥る世界とされる。[79]動物霊に完全に支配され、人間自体の五体までもが動物と化すとも。[91]また、偶像崇拝について、祀ってあるものを盲目的に祈りの対象物とすることは危険であるとされる。それは、動物霊に手を合わせて祈っている場合が多いとされる。[92]ただし、動物霊においても、善なるものは畜生界には陥らず、天上界へと帰還するとされる。そればかりか諸天善神の下で修行し、神仏の使いとして人々を助ける場合もあるとされる。
  • 「無間地獄」[93]
現世において多くの人民を犠牲にして我欲を果たした人々が行く世界。多くの人々の恨みの想念が晴れるまでそこで無限に苦しまなくてはならないところとされる。[79]
地獄の各段階を支配。我慢を心の中に蓄積しているとその意識を魔王に蹂躙され、肉体的、精神的に不調和を起こし病気の原因となるとされる。また、精神的に錯乱状態となり、廃人同様の人生を送らされることになるとも。それだけに、正法においては我慢して怒りや恨みを表面に出さないからその限りで悟ったとはいわず、このような憑依を呼び込む不調和な想念すなわち、怒り、恨み、妬み、みだらな情欲の想いといった想念を捨て去り、こだわりを持たないことであるとしている。[79]

[編集] 現象界

  • 3次元「現象界」

※輪廻転生について、信次によれば、インドカーストのように階級差別の根拠を輪廻転生に求める思想は誤りであるとされる。信次によれば、人は、あえて、自らの意志で、貧しく厳しい環境に生まれてくることもあれば、経済やいわゆる家柄の恵まれた環境に生まれることもあるとし、いずれも、その中からより豊かな自分をつくり、恵まれない人の力になることが道であるとした。地位や名誉や家柄とは、人間が作り出したものであって、その人の人格には関係のないものであり、太陽の熱・光が万人に平等に与えられるように、神仏の慈悲も平等に注がれるとしている。[95]前世のカルマ(業)や悪事はあの世である程度修正して、しかる後に、それが修正できているかを試すために自らの意思で環境を選択して現世へ生まれてくるとされ(修正の度合いは60%、80%、95%と個人差があるとされる。そのために過去世のカルマに強く引かれる場合とそうでない場合があるとされた。ともあれ、過去世のカルマが現世においてストレートに現出するのではない)、現在の環境の条件とは、カルマの深い、浅いではなく、調和の心を維持し、自分の心を広げるための魂の修行の一手段に過ぎないとされる。[96]自分の現在の姿とは、過去・現在を集約した一点であるとされ、自分の過去は現在の自分の姿から知ることができるとされる。それゆえに、過去にとらわれるのではなく現在の自分を作り上げて行くこととされた。[97]ただし、子供の身体的な障害とは、本人に原因があるのではないとされる。それは、隔世遺伝、不調和な薬品等の外的要因、家庭内の不調和による母親の精神的動揺、怨念のある家庭、の4つのいずれかが原因であり、後二者の場合は家族一同の反省と心の浄化を図る正しい生活によって安らぎを得ることが望まれるとされた(ただし、信次はまた、人が生まれてくる環境は、これを自身で選択し、両親と約束してこの世に出て来るとし、肉体的な欠陥についても、生前にその事実を知り、自らの希望によって出生するとしている。「肉体舟」に欠陥があろうとも、その「船頭」である魂がしっかりと生きる喜びを知ったなら問題はないはずなのだとする。それは、その環境を通して人生に疑問を持ち、やがて心を悟れる道として選んできたということが真実であり、人間の基準は生まれた環境ではなく、正しい心の在り方を悟り、新しい人生におけるより豊かな学習をいかに修得するかにあるとしている。このことは人種の問題に関しても同様であり、あの世では人種差別もなく、人類は皆兄弟であるということは誰でも知っており、あの世の上段階に行けば国境もなく、地球は一つの修行場としてしか考えられてはおらず、人間は皆平等だと自覚しているとする[98])。また、2、3歳で事故に会い障害を持つ場合、あるいは子供の病気一般についても子供に原因があるというよりは、むしろ家庭の不調和に原因がある場合が多いとされた。いずれの場合においても、肉体と心は別であり、子供達に対しては、不自由な体を乗り超える広く大きい心を育てるように、周囲の者が絶えず心がけることが大事であるとされた。[99]また、飢餓とは、カルマによるものではなく、地上の人々の責任によるとされる。それは、1.国家間で連携して食料をプールする仕組みがないこと、2.地上の人々の、生活の条件を考慮しない無計画な出産(天上界での親子の約束は途中で変更することができないため、親、子、孫と無計画な出産が続くと、出生が30ないし40年早まる人が現れ、その場合出生前に天上界において予定した環境と異なるため、地上は混乱するとされた)にあるとされ、いずれも、一にかかって、地上の人たちの責任にあるとされた。本来の調和された地球においては人口の許容量は現象界約90億人(すなわち実在界においては本体・分身の関係からその5倍の約450億人)であり、許容量に到達するのは数百年先(1976年現在)とされたが、現実の許容量はこのような食糧の不均衡等の文明の進歩の度合いに影響されるものであるとされた。[100]しかしまた、やがて、そう遠くない将来(それは人類の長い歴史から見た時間的距離とする)に人口の増加が頭打ちとなるときが来、その時代には人類の魂のレベルが総体的に上昇し、菩薩界(原文はボサツ界)が新生するともしている。菩薩界とは菩薩心を得たものが社会の各ポストに就き人々を調和へと導く世界としている。このことは既に実在界の計画により未来図が描かれており、現象界はそれに従って進んでいるとされる。[101]

※安楽死については、人間的な配慮のように思われるが、事実はそうではなく、苦痛を感じているのは肉体ではなく本人の意識であるため、意識の問題を取り除かない限り、あの世でもその苦痛は持続するものであるとされる。そのため、病気となった原因を反省することが、酷なことだが大事とされ、表面的な理由での第三者による安楽死は避けるべきで、それは反省の機会を剥奪することになってしまうとする。それはまた、家族の反省にもつながっているとされる。このようなことから、安楽死の是非が理解できるとしている。[102]

※自殺は、問題の解決にはならないとされる。人生の諸問題は、自身の想念と行為が作り出したもの、あるいは厳しい環境であったとしても、自ら定めてその中でより豊かな自分をつくることを決意してあの世から誕生して来たとされ(本人が定めてきたといえども、その運命には上限と下限があり、さらには己自身は孤独ではなく、本人の自覚と自助努力に対して、天上界の守護・指導霊及び光の天使の助力があり、道は切り開かれて行くとされる)、自殺は転生のカルマ(思い方、行い方の癖とそれにまつわる自助努力で解くべき課題)を持ち越すだけのことだからであるとされる。また、生き恥をさらすよりは潔く死を選ぶ、という思想におぼれてはならないとした。その思想は突き詰めれば自己保存(自分の「名」、自意識へのこだわり)に行き当たるとされた。自殺の理由においては、戦時中の異常事態、家族の迷惑を考えてひと思いに等、一様でないが、重要なのは形ではなくそのときの想念の在り方にあるとされる(いずれも避けようとすれば避けられたとされるソクラテスの毒杯、イエス・キリストの十字架は、いずれも自殺にあたらないとされる[103])。自殺者の心理は自己保存の極点に近く、その想念は「光」を否定するものであるため暗黒地獄(一寸先もわからぬ暗闇の世界に囚われ、その中でも轟音のなる場所等様々とされる)に匹敵し、わけても、客観的に理由の説明できない自殺者の死後の苦しみは長期にわたるものとされる。それだけに信次は、ゆめゆめこのような想念に支配されてはならないとした(自殺者の霊が耳元で誘うこともあるとされるが、自殺後の世界についてどのようなうまい話を聞かせられようとも、かかる霊と同調現象が起こる時点で危険であるからには対話してはならず、生きている人間とまず対話を心がけることが肝要とされた)[104]

※これら、魂や外界(実在界・現象界)の次元構造については、高橋信次『心の発見 科学篇』、『心の指針』等の著書に詳しい。 また、上記「宗教家としての実際的活動」の節にもあるように、信次は、これらを鵜呑みにしてしまうのではなく(妄信するのではなく)、各自の判断によって徹底的に吟味することが大切であるとした。その疑問追究の過程において、自ら行うことにより、事実と理論の一致という解答で裏付けられてゆくとしている。ただし、その際、守護霊によって、解答が事実となって現れる場合と、そうでない場合があるとされる。すなわち、運命の岐路ともいえる人生の転機においては、守護霊が直接的な解答を提示し神理の神理たるゆえんを教えてゆくとされ、やがて神理がわかり以前のように五官や六根に左右されなくなったと見れば、本人の意識を磨くために、より高次の疑問を提示して、自らの意識で悟るように仕向けるとしている。その方法は、意識・魂の状態によって様々であり、一概にはいえないとされる。このようにして、自ら行うことにより、解答という悟りを得、信は深まりまた疑問は高次元化し、その追究が極まれば、やがて神理へと到達するとした。[105]このように、自らの「理解と行い」が大切であるとしている。[106]

[編集] 主な著作

[編集] 単著

  • 『心の原点 失われた仏智の再発見』三宝出版、1973年9月1日、ISBN 4879280062(1980年10月30日、新装改訂版)
  • 『心眼を開く あなたの明日への指針』三宝出版、1974年7月8日、ISBN 4879280090(1980年11月10日、新装改訂版)
  • 『心の指針 苦楽の原点は心にある』三宝出版、1974年1月5日、ISBN 4879280070(1980年11月10日、新装改訂版)
  • 『心の対話 人のことば天のことば』三宝出版、1976年6月21日、ISBN 4879280135(1981年2月15日、新装改訂版)
  • 『人間・釈迦』[107]
  • 1.偉大なる悟り三宝出版、1973年4月1日、ISBN 4879280046(1980年10月31日、新装改訂版)
  • 2.集い来る縁生の弟子たち三宝出版、1974年5月5日、ISBN 4879280089(1980年11月20日、新装改訂版)
  • 3.ブッタ・サンガーの生活三宝出版、1976年11月24日、ISBN 4879280127(1980年12月15日、新装改訂版)
  • 4.カピラの人々の目覚め三宝出版、1976年11月24日、ISBN 4879280143(1980年12月15日、新装改訂版)
  • 『悪霊』
  • I あなたの心も狙われている三宝出版、1975年3月10日、ISBN 4879280100(1980年10月25日、新装改訂版)
  • II 心が作る恐怖の世界三宝出版、1975年7月15日、ISBN 4879280119(1980年10月25日、新装改訂版)
  • 『愛は憎しみを越えて』(『餓鬼道』改題)三宝出版、1974年、ISBN 4879280151(1979年12月21日改訂第一版、1981年2月15日新装版)

ISBN-10: 4879280151

  • 『原説般若心経 内在された叡智の究明』三宝出版、1971年12月15日、ISBN 4879280038(1981年1月15日、新装改訂版)
  • 『心の発見』(『縁生の舟』改題)
  • (現証篇)三宝出版、1973年4月20日、ISBN 4879280054(1981年1月31日、新装改訂版)
  • (科学篇)三宝出版、1971年5月10日、ISBN 487928002X(1981年1月31日、新装改訂版)
  • (神理篇)三宝出版、1971年1月15日、ISBN 4879280011(1982年1月10日、新装改訂版)

[編集] 共著

  • 高橋信次(著)、蓬田やすひろ(イラスト)『釈迦物語 天と地のかけ橋』三宝出版、1980年9月、ISBN 487928016X

[編集] 未刊の著作

  • 『新・復活 よみがえる聖書の原点』(1976年7月、信次が逝去した時点では近刊予定であったが、刊行されなかった)

[編集] 作詞

  • 混声二部合唱曲『心の讃歌』

[編集]

  1. ^ 1976年3月21日-23日の講演によれば、これは、大天使ミカエル(8次元上段階「太陽界」の大天使長)が、信次誕生前の天上界においての信次との約束を果たすために、すなわち、幼い日の信次に霊的自覚(人間の本質は肉体ではなく永遠の魂であるということ)を促すために、その魂を天上へと導いたとされた。(高橋信次『高橋信次講演集 カセットブック 38 '76関西3月研修会』「魂の仕組みと正法」)
  2. ^ a b 憑依とは、精神的な同調現象とされる。人間の精神がエネルギーであり、周波性を持つ限りにおいて(意識の次元構造の節参照)、電磁波等にみられる波動の同調・干渉の原理と同じく類は友を呼ぶの言葉どおり、同様な心的傾向を持つ霊同士が引き寄せあい、調和、不調和の諸現象を発生させること。地獄に堕ちた霊によるとされ、その苦界から逃れるために、自らと同じ、不調和な想念を持った人間に同調し、その体を一時の宿とするとされた。このとき、憑依された人の心身には、倦怠感、痛み等、不調和な諸現象が訪れるとされた。逆に、心身の不調和の中には、こういった憑依によるものもあるとされた。(高橋信次『心眼を開く』第5章 用語解説「意識の同通」参照)病気の80%近く(高橋信次『心の発見 神理篇』227頁参照)アルコール依存症のほとんど(同223頁参照)、またノイローゼその他の精神異常の100%は憑依現象によるものであるともしている。(高橋信次『高橋信次講演集 カセットブック 40 '76GLA青年部研修会』「正法の流転」)
  3. ^ 信次によれば、憑依について、地獄霊と、憑依されている本人の意識が同通するかぎり、何度これを取り除いても、波動の干渉や同調の原理と同じく、再び憑依されてしまうとされる。逆に、意識が同通しなくなれば(すなわち憑依霊に似た恨み、憎しみ等の不調和な想念を持つことさえ止めれば)いつでも、憑依から脱却できるとし、さらにはそれにより己を省みた憑依霊をもが同時に救われる(本来の故郷である天上界に帰還すること)場合もあるとされる。したがって、憑依の防止及び解除のためには、苦しいからと言って教祖や拝み屋と呼ばれるような人等を拝むのでなく、盲目的に信仰に走るのでもなく、何よりも優先して、本人の意識が調和されることであるとされた。(高橋信次『悪霊 I・II』参照)また、憑依の原因となっているみずからの執着にかたまった心をほぐすのには、肉体的な運動も効果があるとされた(高橋信次『心眼を開く』第5章 用語解説「憑依」参照)。また、緊急の措置として、諸如来(大天使)、諸菩薩(セラビム)、諸天善神(ケルビム)の加護を祈ることにより彼らの保護・助力を受けることにも効果はあるとされるが、この場合も一時しのぎであり、本人の意識の調和がまずもって第一義であるとされる。(高橋信次『心の原点』69頁参照)
  4. ^ 高橋信次『心の対話』59-62頁「聖書と輪廻について」参照
  5. ^ 高橋信次『心眼を開く』53-55頁「一日一生」参照
  6. ^ 高橋信次『高橋信次講演集 カセットブック 39 '76GLA青年部研修会』「正法の流転」参照。また、諸宗教の統合に関連して、信次は、1976年3月21-23日の講演において、信次達の実践している「事実」はやがて、世界人類の道へと変わって行くとしている。信じようと信じざるに関わらず道は一つであり、それは、慈悲と愛の道であるとしている。それ以外に光明の道はなく、真のユートピアが建設されていくのは、人間が物から解放されていくときであるとしている。心優先の時代で無ければならないとも。(高橋信次『高橋信次講演集 カセットブック 38 '76関西3月研修会』「魂の仕組みと正法」参照)
  7. ^ 高橋信次『心の発見 現証篇』295-302頁参照
  8. ^ GLA総合本部出版局『ようこそGLAへ』参照
  9. ^ 高橋信次『心の原点』179、239頁、高橋信次『ブラジルへのメッセージ』参照
  10. ^ a b 高橋信次『高橋信次講演集 カセットブック 24 '75GLA東北研修会』「正法と実践」
  11. ^ 高橋信次『心の対話』53-55頁「心のエネルギー」参照
  12. ^ 高橋信次『高橋信次講演 実在界と現象界 1972年9月9日関西本部』参照
  13. ^ a b c 信次はその著書『心の発見 科学篇』(1971年初版、フェイス出版社)204頁において、釈迦、イエス・キリスト、モーセの三人を上上段階光の大指導霊、またこれに対して423人の上段界光の大指導霊を「如来」とし、さらに同245頁において、上段階光の大指導霊(如来)の住する次元を「如来界」と呼称したが、このとき上上段階光の大指導霊が住する次元であるとされる「宇宙界」の呼称は用いられなかった。のち『心の原点』(1972年初版、三宝出版)において「宇宙界」の呼称が用いられている。
  14. ^ a b 高橋信次『瑞法会準支部長以上との座談会』(於1971年10月23日)、高橋信次『心の発見 現象篇』186頁
  15. ^ 高橋信次『心の発見 現証篇』281頁
  16. ^ 高橋信次『心の発見 科学篇』246-247頁参照
  17. ^ 高橋信次『心の原点』「第6章 心行」参照
  18. ^ a b 高橋信次『高橋信次講演集 カセットブック 40 '76GLA青年部研修会』「正法の流転」参照
  19. ^ 高橋信次『心の発見 神理篇』136頁、高橋信次『心眼を開く』157頁、高橋信次『心の対話』34、35頁、高橋信次『高橋信次講演集 カセットブック 40 '76GLA青年部研修会』「正法の流転」、高橋信次『高橋信次講演集 カセットブック 41 '76東北研修会』「新復活」
  20. ^ 高橋信次『高橋信次講演 真の経営者の道』「因果律」、「魂の修行」
  21. ^ 高橋信次『心の発見 現証篇』213-217頁、高橋信次『心の指針』139、同158-160頁「他力本願」、高橋信次『心眼を開く』37-39頁、『高橋信次講演集 カセットブック 40 '76GLA青年部研修会』「現証」参照)
  22. ^ 信次によれば、祈りの本質とは、地上に肉体を持っている人間(10%の表面意識)が、守護・指導霊(90%の潜在意識)に対して意識を向けることにあるとされる。絶えず意識を向けることによって、守護・指導霊が守り、指導しやすくなり毎日の生活が安心と喜びに満たされるのは当然の帰結であるとされる(これは重要なことであるとされる)。ただし、祈る際の目的が、調和を目指すものか、あるいは自己保存のためのものであるかによって、結果に大きな差が出てくるとされる。やがて、祈りは、生かされていること自体への感謝の祈りと日々の生活の中での報恩の行為へと高められることが望まれ、それによって10%の表面意識と90%の潜在意識は同通し、真の安らぎ、環境と健康の調和を得、人生の目的と使命を自覚することができるとされる。(高橋信次『心眼を開く』111-113頁「祈りについて」参照)また、人を殺しても念仏をあげれば成仏できるとする考えは誤りであり、また、祈りを頼ることであるとする考えは誤りであるとされる。天上界においては、意識の90%が顕在化、霊達の行為は光となって四方に放ち、その結果が即座に現象化するため、誤りに対する反省もしやすく、特に上段界においては慈悲と愛の心のみとなり祈りの必要がないとされるが、これに対して、地上においては10%の意識量での生活となり、1時間、1分後の自分の運命もわからぬ状態となるため、その想念と行為に過ちがないよう、己の意識を神仏、光の天使(諸如来・諸菩薩)、あるいは守護・指導霊に対して調和する(後述の「祈願文」参照)ことを期して祈るのであり、過ちなき行為こそ祈りの真髄であるとしている。(高橋信次『心眼を開く』123-125頁「正法と祈り」参照)また、人が自身の思いと行いを心から反省して祈る場合には、自分の守護・指導霊や、あるいはより次元の高い天使によって、実際、手がさしのべられるとしている。ただし、自身の運命は自らの想念と行為によって作り出したものであり、その責任はほかの誰でもなく自分自身にあり、その償いを自ら行うことが神の子としての人間の定めであるとされる。それだけに、自らの過ちを改めないままの祈りが無条件に受け入れられるのではなく、その過ちを心から懺悔し償うときに、魂は神仏の慈悲と愛の光を受け、調和を回復することができるとされている。(高橋信次『心の指針』第五章 祈りの意義と祈願文参照)このようにして、「真心のない祈り」、「反省と行為のない祈り」は通用せず、また祈れば救われる、拝めば何でもかなえられるということではなく、まず人間とは神の子として神より創造の自由性を与えられており、「正念」を持って自身の意識の調和をはかり、環境を調和してゆくものであり、それによって神は、祈らなくてもその人を守ってくれるものであり、本来そういうものであるとしている。(高橋信次『心の指針』199-201頁「念力と祈り」参照)信次はまた、1976年6月4-5日の講演において、祈りの際は、みだりに固有の天使の名を呼ばないことであるともしている。それは、彼らも、天上界において役職をもち、それぞれの分担を受け持っており、その妨げになってはならないからであるとしている。そのため祈りの際は、広く、諸如来、諸菩薩、諸天善神等(あるいは一般に光の天使等)と呼びかけ、あるいは、自身の守護・指導霊に呼びかけることであるとしている(守護・指導霊は地上の人々を導くことが役職であるとされる)。(高橋信次『高橋信次講演集 カセットブック 41 '76東北研修会』「太陽系の天使たち」参照)また、信次が伝えた祈願・経文として、大宇宙大神霊(神)、諸如来(大天使)、諸菩薩(セラビム)、諸天善神(ケルビム)、守護・指導霊に対して自らや周囲の人々の心に対する「光と安らぎ」の加護を祈り、彼らや先祖代々の諸霊、動植鉱物を含めた万象万物への感謝を祈る「祈願文」(高橋信次『心の指針』「第5章」所収)、神による大宇宙の創造と、神の子である人間の日々の心と行いのあり方を説いた「心行」(高橋信次『心の原点』「第6章」所収)がある。
  23. ^ 高橋信次『心の指針』167頁、高橋信次『心の対話』49-52頁「正しい規準」参照
  24. ^ 高橋信次『心眼を開く』78-80頁参照
  25. ^ 高橋信次『高橋信次講演 真の経営者の道』「魂の修行」、高橋信次『高橋信次講演集 カセットブック 41 '76東北研修会』「太陽系の天使達」参照
  26. ^ 高橋信次『心眼を開く』95、171-173、228-232頁、高橋信次『心の原点』115-130頁、高橋信次『心の指針』「第2章 八正道と中道」参照
  27. ^ 高橋信次『心眼を開く』81頁参照
  28. ^ 高橋信次『心の発見 現証篇』213-217頁、高橋信次『心の指針』191頁、高橋信次『高橋信次講演集 カセットブック 15 '75関西5月講演会』「不退転の心」、高橋信次『高橋信次講演集 カセットブック 40 '76GLA青年部研修会』参照「現証」
  29. ^ 高橋信次『高橋信次講演集 カセットブック 40 '76GLA青年部研修会』「現証」参照
  30. ^ 高橋信次『高橋信次講演集 カセットブック 14 '75GLA青年部研修会』「他力信仰と正法」(1975年5月3-5日)参照
  31. ^ 高橋信次『心の指針』191-193頁「他力と自力」参照。
  32. ^ 高橋信次『心眼を開く』62-64頁「他力の誤り」、同64-66頁「大乗思想」参照
  33. ^ 1976年4月11日の信次の講演『心の中に内在される英智』の「現証」(霊言現象)において、信次立ち会いのもと、地上の人の肉体を通して語るとされた大天使ミカエルによれば、キリスト教の歴史について、ニカイア公会議(話の経緯から第1ニカイア公会議に比定される)の前に起こったとする火事は、ローマによるものであるとされ、このときに「信じるものよ汝は救われる」との文言が「疑ってはならない。疑いこそ汝を滅ぼす」と変更されたとする。そこには、権力者やローマ教皇(法王)らによる封建的政治体制の確立の意図があったとされた。モーセも、イエス・キリストも、このような形式化された教会を作ることを教えたのではなく、また、聖書を読み、教会に来なければ救われないと教えることを望んだのでもなく、ただ、神の愛と、自身の心を振り返り、多くの人に愛を与えることを教えたとされた。しかるに、時代の変遷に伴って今の教会やあるいはまた仏教におけるお堂のような形となったとされた。(高橋信次『高橋信次講演集 カセットブック 39 GLA7周年記念講演会』「質疑応答・現証 1976年4月11日 両国・日大講堂」参照)
  34. ^ 病気の原因とは、過去世・現世で作り出した不調和な想念が想念帯(想念・行為の記録層)に病巣を作ることであるとされる。人間は、過去世の業(カルマ)を大部分修正した後に現象界に出てくるようになっているのだが、未修正の残りの業が現れる場合があるとされる。過去世の業については、現世での後天的な善行為によりその作用を相殺し、10の業を5ないし3ないし1とすることができるとされる。そのほか、原因として、自覚を促すための守護霊の作用、純粋な身体の疲労あるいは肉体遺伝による場合もあるとされる。(高橋信次『心の指針』151-153頁「病気」参照)
  35. ^ 高橋信次『心の原点』「第6章 心行」参照
  36. ^ a b c d 進化論に関して、信次によれば、動物、植物も(高橋信次『心眼を開く』139-141においては鉱物も)、人間と同じく不滅の魂を持ち、あの世とこの世の転生輪廻を続けているとされる(高橋信次『心の発見 神理篇』129頁参照)。また、動物とは、「万物の霊長」である人間に進化する過程の意識を持つとしている(高橋信次『心の発見 現証篇』171、208頁、高橋信次『高橋信次講演集 カセットブック 19 '75金沢講演会』「心の原点」参照)ただし、その肉体は進化せず、動物は動物、人間は人間の肉体を保持し続けており(高橋信次『心の発見 現証篇』158-162頁「ダーウィンの進化論について」参照)、このことは、人間に進化する過程の類人猿が現在の地球に生存しないこと、現在の人間の骨格と100万年前の人間の骨格において大差がないこと等からもわかり、それは将来いっそう明らかになるであろうとしている(高橋信次『心の原点』49頁参照)また、信次によれば、「意識の起源」の節同様、生命の発生は、人間・動物・植物・鉱物(信次は、生命の概念について、広義には「ものの用に役立つもの」であるとし、鉱物もまた生命エネルギーの一形態であるとしている。高橋信次『心の対話』78-80頁参照)に関わりなく、1.意識界(実在界)において神の意識より分かれて個体の意識が発生、2.現象界に物質化、3.輪廻転生による意識界・現象界間の循環といったプロセスを持つとされる。現象界の地球における個体の発生は、数億年前にまず微生物が、つづいて植物、動物、と段階的に発生。一度「爬虫類時代」を経て、その「恐竜の時代」が下火になった頃(約2億年前。ただし最晩年には約3億6500年前とした)人類は他の天体より円盤に搭乗し飛来したとしている。(高橋信次『人間・釈迦 1.偉大なる悟り』158、159頁参照)
  37. ^ 人類の他惑星からの円盤に乗っての地球への飛来について、高橋信次『心の発見 現証篇』159頁、『人間・釈迦 1.偉大なる悟り』159頁、『心の原点』47頁(いずれも1973年)においては2億年前、高橋信次『高橋信次講演集 カセットブック 40 '76GLA青年部研修会』「正法の流転」においては3億4千数百年前、高橋信次『高橋信次講演集 カセットブック 41 '76東北研修会』「新復活 1976年6月4-6日 山形県蔵王」においては約3億6500年前、同「太陽系の天使達 1976年6月4-6日 山形県蔵王」においては3億6千数百年前としている。
  38. ^ エジプトのスエズ地峡部の地名に「Quantara」があるが、これに比定されるかは不明。
  39. ^ 高橋信次『心の対話』152-154頁、高橋信次『高橋信次講演集 カセットブック 40 '76GLA青年部研修会』「正法の流転」、高橋信次『高橋信次講演集 カセットブック 41 '76東北研修会』「新復活」参照
  40. ^ モーセと共に、エジプトを脱出した人数について、『旧約聖書』「出エジプト記」12章38-42節には、女子供を別として、60万の人々とある。
  41. ^ 信次によれば、洗礼とは、悔い改めの証としてなされたものであり、儀式がすめば形式的にどのような悪人でも即座に救われるという意味ではなく、本質は悔い改めにあるとされる。また、キリストの再臨とは人々の心にその教えがよみがえるという意味であり、終末に再臨したイエス・キリストが、形式的に洗礼の儀式を済ませた者を救い、そうでない者を地獄に落とすという意味ではないとされる。天国と地獄とは、自らの心次第であり、懺悔により自らの過ちを改め、行うことにより、心は神の光にみたされ救われるとされる。(『心の対話』59-62頁「聖書と輪廻について」参照)
  42. ^ 高橋信次『心眼を開く』24-30頁「魔に負けるな」、同45、46頁「正法の変遷」、同104-106頁「ジャブドーバー」、高橋信次『心の原点』111、112頁、高橋信次『心の発見 神理篇』「第二章 転生の葦」、高橋信次『高橋信次講演集 カセットブック 40 '76GLA青年部研修会』「正法の流転」、高橋信次『高橋信次講演集 カセットブック 41 '76東北研修会』「新復活」参照
  43. ^ 高橋信次『心の発見 現証篇』274、275、283-285頁参照
  44. ^ a b 高橋信次『心眼を開く』128-130頁「五人の分身」参照
  45. ^ 高橋信次『心の指針』124頁参照
  46. ^ 高橋信次『高橋信次講演集 カセットブック 39 GLA7周年記念講演会』「心の中に内在される英智」参照
  47. ^ 高橋信次『高橋信次講演集 41 '76東北研修会』「太陽系の天使達」参照
  48. ^ 現象界においても実在界においても、神を直接認識し、その意思を確認できるのは、釈迦、イエス・キリスト、モーセのような9次元の上上段階光の大指導霊(メシヤ)達に限られるとされる。(高橋信次『人間釈迦 2集い来る縁生の弟子達』81-84頁参照)これが神の心である法を信じるという行為の契機となっている。ただし、信次は、これらメシヤを崇拝するのではなく、その人を信じ、その言葉を信じたならば、その言葉である法を生活の中に生かすことが大切であるとしている。(高橋信次『高橋信次講演集 カセットブック 41 '76東北研修会』「太陽系の天使達」参照)
  49. ^ 高橋信次『心の原点』57頁参照
  50. ^ 摩訶般若波羅蜜多。信次はマーハー・パニャー・パーラミターと発音。パーリ語の発音に近い。信次は自身の発音を古代マガダ語としている。
  51. ^ a b c 信次によれば、同程度の意識(の次元)の人であっても、霊道が開くか否かは、本人の意識、環境、本人の守護霊の判断等いろいろな事情が加味されるものであって、霊道によって意識の高低を一概に判断できるものではないとされる。すなわち、霊道は開いていなくとも、意識の高い人はおり、逆に霊道は開いているが、低い人もいるとされた。霊道を開き、自分の過去、現在、未来等を自覚した後にも、意識の次元には遥か先があり、信次は、4次元から9次元まで厳然とした段階があるとした。特に、信次は、霊能(霊視、霊聴等)は悟りへの一過程にすぎず、悟りとはほど遠いとして戒めた。事実、肉体行の行者等が、想念帯の浄化を伴わずに霊道を開いたために、その回路を通して、通常は想念体によって干渉、防御されるはずの、自身の不調和な想念と行為に比例した不調和な他の霊に憑依され、翻弄される例は、『悪霊 I・II』に見られるように、枚挙に暇がないとされる。霊道を開くことにより、幼時の状態がそうであったように守護霊をはじめとして、指導霊ほか、より高次元の霊とも対話等の交流ができる反面、一歩間違って、自ら不調和な想念を発すると、ちょうどラジオやテレビの受振・発振において、特定の周波数が特定の局に対応するように、自らの想念と行為に相応した不調和な霊が憑依してくる(逆に、調和の取れた想念と行為の場合には自身の守護霊や、あるいはより高い次元の「光の天使」に通じていくとされる)ので、霊道は諸刃の剣であるとされた。その厳しさは、霊道を開かない人の比ではないとされる。霊道を開いていない人に対しては、肉体的に肩が重い、頭が痛い、腹の調子が重苦しいという現象が現れ、一方、霊道が開いている人に対しては、あたかも指導霊や守護霊が語るかのように、語り出し、または現象を見せるとされ、最終的には分裂病(統合失調症)に至るとされた(統合失調症については、脳梅毒、肉体的な遺伝を原因とする場合もあるとされる。その際は専門的な医療を受けること以外に治療の見通しはないとされた。高橋信次『心の発見 科学篇』182頁参照)。ただし、魔王をはじめ、これらの不調和な霊に憑依され、たとえ分裂的な傾向を呈した場合でも、四六時中これらの支配下にあるわけではなく、そのため、憑依が外れた時間帯に反省の機会は必ずあるとされた。それだけに、その機会に、自分の内面、行為のあり方について、「中道」(偏らない、自然・宇宙全体との調和を志向する原則)を逸していないか、反省することが大切であるとされた。中道に基づく反省とは、現在不調和な霊に通じている(すなわち「怒り」、「憎しみ」等、不調和な霊に似たような)自らの不調和な想念と行為の過ちを反省し、改めることであるとされ、そのときに魂はその「曇り」を晴らすことにより神の光を受け(魂の波動の周波数が高まり)これらの支配から解放される(不調和な波動と同調も干渉もしなくなるため、彼らとの関わりを絶つことができる)とされた。このように、信次は、興味本位の霊能現象(盲目的な信仰、こっくりさん等)、あるいは反省による「想念帯」の浄化を伴わない霊能目的の瞑想・修行をも危険であると戒めた(上記のとおり、その人の魂の「曇り」に比例しただけの不調和な霊が憑依してくるため)。(高橋信次『心の指針』141-144頁、高橋信次『心眼を開く』第5章 用語解説「霊道」、高橋信次『悪霊 I・II』参照)
  52. ^ 高橋信次『心の原点』146頁、高橋信次『心の指針』「第三章 人間の精神構造とその機能」、同174-176頁「精神活動」、同180-182頁「業(カルマ)」、高橋信次『心の対話』20-22「魂の性質」、高橋信次『人間・釈迦 1 偉大なる悟り』「用語解説」参照
  53. ^ 『心の発見 科学篇』216頁参照
  54. ^ 高橋信次『心の発見 科学篇』210頁参照
  55. ^ 高橋信次『心眼を開く』139-141頁参照
  56. ^ 高橋信次『心の指針』125頁参照
  57. ^ 高橋信次『心の原点』199頁、高橋信次『心の対話』67-70頁「自我」参照
  58. ^ 高橋信次『心の発見 神理篇』91頁参照
  59. ^ 流産・堕胎について、信次によれば、いわゆる「水子」は何一つとして悪を犯していないため、そのままもといた天上界に帰還するとされる。それゆえに、「水子のさわり」などはないとされる(あろうはずがないとしている)。子供の魂は受胎して3ヶ月ないし4ヶ月で肉体に入るとされ、そのため魂が肉体に入ってからの経済的その他の理由での堕胎は殺人に等しく、このような場合は、二度と同じ過失を犯さないようにすると同時に、人々に多くの愛をほどこすよう努めることが大事とされる。この場合、あの世に帰った子供の魂は、魂の兄弟達によって育てられ、子供の魂は、成長の過程をあの世で再現し、あの世で成人するとされる。また、流産の場合は、入る予定であった肉体の不調和が原因であり、この場合は、魂の光子体は成人のままであり、天上界において、次の誕生のため待機し、何年後かに、母親が再び身ごもったときに子供として生まれてくるとされる。いずれにしても、地上の波風を受けていない子供達が地獄に落ちるなどということはなく、例外なく、皆が天上界に帰るとされた。なお、親子の縁は天上界での相互の約束により結ばれるとされ、それは過去世からの深い縁によるとされる。また、養子として育てる場合もやはりこのような縁があるとされた。(高橋信次『心の対話』126-129頁、高橋信次『心の発見 科学篇』「第4章 業の章」参照)夫婦生活についてはその目的として1.子孫を残し、未来をよりよくすること、2. 精神的、肉体的により円満な安らぎある家庭をつくること。3.夫婦生活は社会の原型であり、これを否定すれば社会と人間を否定することになるということ、とし、夫婦の性生活については、それは神から与えられた慈悲であり、許されたものであるとしている。ただ、その中において、受胎調節のための不妊手術はそれをしないと母体の危険がある場合以外は避けることが望ましく、中絶もまた母体に悪影響を及ぼし宿した生命をあの世にとんぼ返りさせるものであるためやはり避けることが望ましく、そのためこうした手段をとるのではなく、そこに夫婦の協力による計画性を持つことが大切とされた。また、本能は、その問題点として肉体的執着につながりやすく、特に性の本能は複数の中でその機能を果たすだけに様々な問題を含むため、理性を通してこれをコントロールし、調和ある生活を作るよう心がけることが大事としている。さらにまた、正法を信じ、行じる過程において、執着の所在を理解し、苦楽の原因を取り除く努力が自然と内側から起こってくるものであるとし、そのための反省を勧めている。(高橋信次『心の対話』197-199「夫婦生活」202-205「受胎調節」参照)
  60. ^ 信次によれば、悟りとは「宇宙即我」のこととされるが、広義においては、自分の一つ一つの心のゆがみを修正することであるとされた。毎日の日常生活において、自分が気づいた欠点を修正し、その正した事柄が、無理なく自然に行えるようになったときに一つの悟りを開いたと言えるとされた。そして、一つの悟りは、大きな悟りを開く鍵を握っているとされた。「八正道」について、正しく見ることができれば、正しく思うことも語ることも、自然に整ってくるものであり、だからこそ、身近な現実の自分の想念と行為について、一つでもいいから悟るように心がけることであるとされた。(高橋信次『心の原点』203-211頁、高橋信次『心の発見 科学篇』23、124、125頁、高橋信次『心眼を開く』209頁「一つの悟り」高橋信次『心の対話』46-48「実在界」参照)悟りとは己自身の「心」を知ることであり、正しい普遍的な神理を、己の心と行ないの物差しとして生活をしていった時に、真の己を知ることができるとする。己の「心」を知ったときにはじめて、人生の目的と使命を知ることができ、それは他力ではなく、自力であるとしている。(高橋信次『高橋信次講演集 カセットブック 41 '76東北研修会』「新復活」参照) また、想念停止によって悟ることは魂の機能上ありえないとされ(高橋信次『心の指針』129頁参照)、いわゆる三昧の境涯とは、無念無想となり気持ちのよい状態をさすのではなく、八正道及び反省の実践によって、心の曇りを晴らし、想念帯の浄化によって、心を含めた魂の90%の潜在意識層にあたる大我(別名は無我)の自分が躍動してくることとされた。現象面では、守護・指導霊との対話が可能となり、天上界への訪問、天上界の人達との交流等が可能になるとされた。信次によれば、反省は、釈迦、イエス、モーセいずれもが行じてきとされ、反省の具体的作法については、誕生から現在まで、経時的に、自分と、身近な人、ことがらとの関係において、不調和な心をつくらなかったか、また行為をしなかったか、また、その原因は奈辺にあったのか、反省することであるとされた。(高橋信次『心の原点』「第5章 8 瞑想的反省の意義」参照)
  61. ^ 高橋信次『心の発見 科学篇』212、213頁、高橋信次『心の指針』191-193「他力と自力」参照
  62. ^ a b 真のメシヤとは、神の命を受けた天上界の最高責任者の呼称であり、「太陽系霊団」の中心であるエル・ランティのみならず、他の天体においても、真のメシヤは存在し、相互に連絡を保っているとされる。人類はやがて、物質至上主義や闘争と破壊の不調和な社会を克服し、人類の相互協力・調和の自覚をし、エネルギー革命を果たし、光・電気・磁力のエネルギーを応用した乗り物の発明を経て、22世紀、23世紀にはその生活圏を空間・海底へ拡大し、ふくらみのある地球国家的環境を確立し、国家群の目は、宇宙組織へと向けられてゆくとされる。ただし、この時点において完全に調和されているわけではなく、この間も、人間の不調和な想念によって発生する局所的な天変地変によって反省が促されることとなるとされている(高橋信次『心の発見 科学篇』64-66頁参照。人間の想念と、自然現象の相互作用については、地獄界の節を参照)。また、上記とは別に、科学の進歩により、宇宙空間に人類の居住できる天体を発見し、地球以外にもよりすぐれた生物の生存していることを発見し、海底の「古代の生物」を発見するとし、エネルギー革命によって海底での生活が可能となるとしている。それまでに、地中に埋蔵されていた硫化物や二酸化炭素が空中に放出され、特定の公害が多発し、大きな社会問題に発展するとも。しかし、やがて硫化物や二酸化炭素をはじめとして、生物に害を与えるような物質は無害化され応用されていくとされる。心を失った文明により作り出された公害に対しては、人類に課せられた重要な問題となり、その中和のために、人類の知恵は集中されていくであろうとも信次は予言している。また、熱・光・電磁力の応用が発達し、科学は急速な発展を遂げるともしている。(高橋信次『心の発見 科学篇』207頁参照)現在の集積回路も、人間の大脳細胞から見るとまだまだ初歩にしか過ぎず、ダイオードもやがてさらに小型化され、トランジスタも有機質の細胞を応用したものへと変わって行くとする。(高橋信次『心の発見 神理篇』201頁参照)2005年ないし2015年までに、軌道上を走行するのではなく、磁気のエネルギーによって走る乗り物が発明されるともしている。また、このような経過を経て、28世紀頃になると地球の文明は高度化し、完全に調和され、各家々から光のエネルギーを利用した乗り物によって飛び立ち、他の天体への訪問が可能となるともしている。このような文明の急速度の発展が可能となるのは、物優先から心優先の価値観に人類が目覚め、人類が兄弟であると自覚したときであるとされる。(高橋信次『高橋信次講演 真の経営者の道』「ユートピアへの道」)また、同じく文明の高度化を見、地球が完全に調和され、天体から後光が放射されるようになった頃には、安定な、反重力場の、光によって操作できる乗り物によって他の天体と交渉を持ち、発展的な移住も行われるようになって行くともされている。(高橋信次『高橋信次講演集 カセットブック 40 '76GLA青年部研修会』「正法の流転」参照)
  63. ^ 信次によれば、B.C.約3億4500(すなわち1976年現在、信次によれば約3億6500年前)、現在でいうナイル三角州付近に、ベータ星(ベルタ星)より反重力光子宇宙船に乗り飛来したエル・ランティと、ミカエルをはじめとする7大天使を指導者とする人々により、地球人類最初のユートピアが、エル・カンタラーと呼ばれる地に建設されたとした。そして、それは、現在では、「エデンの園」として、その名を残すのみとされた。(高橋信次『高橋信次講演集 カセットブック 41 '76東北研修会』「新復活」参照)
  64. ^ 信次は、自身がエル・ランティであると活動当初から明言していたのではなく、その名が明らかにされたのは最晩年の1976年のことである。信次の講演全集においてエル・ランティの呼称が初めて現れるのは1976年5月2-5日の講演『正法の流転』においてであり、その後信次は、エル・ランティという方、と呼び(6月4日の講演『新復活』、6月5日の『太陽系の天使達』)自称はしなかったが、信次最後の講演である6月4-5日『太陽系の天使達』の「現証」(霊的現象の実演)の時間においては、信次同席の場で、ミカエルにより「エル・ランティが語られましたが、まさにそのとおりでございます」等信次がエル・ランティであると言及されている。このように、信次自らというよりは、他の人の言及を信次が認める形となっている(その後のGLA会誌『GLA』1976年7月号には信次がこのエル・ランティであった旨が明記されている)。信次は今生、いずれもが天上界の指導によって造られたとされる仏教、キリスト教、ユダヤ教、イスラーム、これらの教えを一つにする使命があったとされた。また、ヤハウェアッラーについて、これらは、一般に前者はユダヤ教及びキリスト教における、後者はイスラームにおける、唯一にして絶対とされる「神」の名として知られるが、信次によれば、これは、神ではなく、天上界にいたエル・ランティが、地上に出たイエス・キリストモーセ、或いはムハンマド(マホメット)に対して通信を送る際に使用した名前とされる(ただし、イエスに対しては「エホバ」と名乗ったとされる)。これに対して、神は宇宙に一つであるとされる。(高橋信次『高橋信次講演集 カセットブック 41 '76東北研修会』「新復活」「太陽系の天使達」参照)
  65. ^ アガシャは、B.C.7000年頃、高度の文明を持ちつつも、悪が栄え、唯物思想が猖獗を極める退廃した末期のアトランティスにおいて法を説いたとされる。しかし、悪魔に心を売ったとされる人々が、彼を除く(N.T子という女性の肉体を借りたアトランティス当時の男性ファウリヤリイの霊が信次に話したところによると、このときアガシャも処刑されたとある)多くの光の天使を大衆の前で、見せしめとして処刑、また、このほか、アガシャを信ずる人々を洞穴の中に押し込めて生き埋めにするなどして処刑した。その荒んだ想念と行為の反作用により、アトランティス大陸は巨大な黒い想念に覆われ、神仏の光をさえぎり、結果として海中に没したとされる。このアトランティス崩壊から逃れた人々によって、エジプト文明が開かれたとされる。『心の原点』45頁によれば、ルミジア、ムーという名の両大陸も同様に、暗い想念に包まれた結果、海中に没したとされた。
  66. ^ アモンは、1970年代当時から四千数百年前、およそB.C.3000-B.C2000ごろに、アフリカにおいて法を説いたとされる光の大指導霊。釈迦が悟りを開いた際に現れた梵天の一人がこのアモンであるとされた。釈迦在世当時のインドにおいて、実子阿闍世(アジャセ)に、夫である頻婆娑羅王(ビンビサラおう)を殺されみずからは幽閉の憂き目にあった韋提希夫人(イダイケぶにん)に、釈迦が法を説いたときに言及された阿弥陀如来とは、信次によれば、このアモンのことであるとされる。(高橋信次『高橋信次講演集 カセットブック 40 '76GLA青年部研修会』「現証」参照)
  67. ^ マタイ伝27章46節によれば、イエス・キリストは、その、はりつけの死に際して「我が神よ、我が神よ、何ぞわれを見棄てたまいし・・・・・・」と言ったとされ、また、ルカ伝23章46節によれば「父よ、我が霊を御手にゆだぬ」と言ったとされるが、実際は、「神よ、人々を見捨てたまうな、その為す所を知らざればなり」だったとされた。イエスは、自身の死については、もとより覚悟をして、人々に道を説いていたとされた。(『心の指針』155頁参照)
  68. ^ a b 1976年4月11日の信次の講演『心の中に内在される英智』の「現証」(霊言現象)において、信次立ち会いのもと、地上の人の肉体を通して語るとされた大天使ミカエルによれば、ヤハウェモーセに人を殺せと命じたことはなく、モーセも殺したのではない。アマレクをはじめとする異教徒の民に対しても、相手の気持ちを考え、40年の歳月をかけて、約40万の人々を連れて、シナイ半島を流浪、人々に神の心を伝え、多民族の平和的な統合をはかったとされる。(高橋信次『高橋信次講演集 カセットブック 39 GLA7周年記念講演会』「質疑応答・現証」参照)
  69. ^ アポロについては、現在では、神話的・神的存在と考えられているが、信次によれば、ギリシャエーゲ文明(B.C.1600-B.C.1500頃)当時に人間として肉体を持ち人々に「法」を説いた光の大天使であったとされる。(高橋信次『高橋信次講演集 カセットブック 40 '76GLA青年部研修会』「正法の流転」参照)
  70. ^ ラファエロレオナルド・ダ・ヴィンチ、これらの人々は、芸術を通して天上の世界を表現、その真実を人々に伝えてゆく使命があったとされた。(高橋信次『高橋信次講演集 カセットブック 40 '76GLA青年部研修会』「正法の流転」参照)
  71. ^ 聖書に登場するエロヒムとは、信次によれば、正しくはエルシムと呼称され、このエルシムとは、ヤハウェではなく7大天使のこととされる。7大天使であるところのエルシムは、エル・ランティの秘書的な立場に立ち、エル・ランティの命を受けて、菩薩・セラビム、諸天善神・ケルビムに指令を出すとされる。(高橋信次『高橋信次講演集 カセットブック 41 '76東北研修会』「新復活」参照)
  72. ^ 高橋信次『瑞法会準支部長以上との座談会』(於1971年10月23日)。高橋信次『心眼を開く』147頁においては、菩薩界の伝道者とされている。
  73. ^ マイトレーヤは、仏教において弥勒菩薩として知られているが、釈迦が法を説いたときに、その助力者の一人となったバラモン出身の実在の女性のことであったとされる。(高橋信次『心の発見 現証篇』135-137頁、高橋信次『心の発見 神理篇』78頁参照)
  74. ^ 高橋信次『高橋信次講演 '71GLA関西本部』「神と人間」参照
  75. ^ 『心の発見 科学篇』204、205頁参照
  76. ^ 高橋信次『心の対話』150-152頁「平和のための手段」参照
  77. ^ 高橋信次『高橋信次講演集 カセットブック 40 '76GLA青年部研修会』「正法の流転」参照
  78. ^ 高橋信次『心の発見 科学篇』212、256-258頁参照
  79. ^ a b c d e f g h i 高橋信次『心の発見 科学篇』「第4章 業の章」参照
  80. ^ 高橋信次『高橋信次講演集 カセットブック 40 '76GLA青年部研修会』「現証」参照
  81. ^ 高橋信次『心の発見』219頁参照
  82. ^ 高橋信次『心の原点』95、96頁、高橋信次『高橋信次講演集 カセットブック 24 '75GLA東北研修会』「正法の実践」、高橋信次『高橋信次講演集 カセットブック 39 GLA7周年記念講演会』「心の中に内在される英智」参照
  83. ^ 高橋信次『心眼を開く』32-34頁「供養」、高橋信次『心の対話』56-59頁「地獄救済」、高橋信次『心の発見 科学篇』「第4章 業の章」、高橋信次『原説般若心経』69-71頁、高橋信次『高橋信次講演集 カセットブック 39 GLA7周年記念講演会』「心の中に内在される英智」、高橋信次『高橋信次講演集 カセットブック 40 '76GLA青年部研修会』「現証」、高橋信次『高橋信次講演集 カセットブック 41 '76東北研修会』「新復活」参照
  84. ^ 高橋信次『心の発見 神理篇』212、213、220頁、高橋信次『心の発見 現証篇』121頁参照
  85. ^ 高橋信次『高橋信次講演集 カセットブック 41 '76東北研修会』「新復活」参照
  86. ^ 高橋信次『高橋信次講演集 カセットブック 39 GLA7周年記念講演会』「心の中に内在される英智」
  87. ^ 高橋信次『心の指針』186-188頁「自殺」参照
  88. ^ 高橋信次『悪霊 II』「第6章」参照
  89. ^ a b 餓鬼界=煉獄地獄ともしている。(高橋信次『高橋信次講演集 カセットブック 14 '75GLA青年部研修会』「他力信仰と正法」参照)
  90. ^ 高橋信次『心の発見 神理篇』163頁参照
  91. ^ 高橋信次『高橋信次講演集 カセットブック 40 '76GLA青年部研修会』「現証」参照
  92. ^ 高橋信次『心の発見 神理篇』223頁参照
  93. ^ 一般に、人々に対して、大きな影響力を与える立場にいる、宗教家、思想家が、真実とは異なる言説によって人々を誘導し、誤った道へと導き、多くの人々の犠牲の上に立ち自らの欲望を果たすような場合、その反作用は、一般の影響力の少ない人の場合よりも、なお厳しいものとなるとされる。本文(「地獄界」の節)にもあるように、不調和な思想に基づく、闘争と破壊等の不調和な想念と行為は自然の法則である「法」に適わず、魂が通常受けているとされる神の光をさえぎる性質の事柄であるとされる。その思想の信奉者各人は、自らの想念と行為の誤りを自覚し改めるとき、初めて神の光を受けることができるとされる。これに対して、不調和な影響を広範にわたって甚だしく及ぼした指導者においては、その唱導するところの誤った思想、教義によって導かれ、道を誤り、もがき苦しみ、悲しみ、或いは、怒り、情欲におぼれた人々の念、さらには、その生みだすところの闘争と破壊によって累がおよぶこととなり苦しめられることとなった別の人の苦しみ、悲しみ等の念、これらの想念の集積(影響力が大きいほど、自ずと膨大となる)が消えるまで、これら指導者たちは、みずから作り出した作用における、反作用としての人々の念を受け続けることになる。このような誤った思想家、宗教家は、その説くところの思想、教義体系を因とし、人々を縁とする反作用によって無間地獄に堕ちる。指導者の霊が、人々の念によって、ひとつの低い(光の少ない)霊域(光の量の区域)に囚われるからである。逆に、無間地獄とは、こういった思想家、宗教家達が堕ちて行く地獄であるとされた。それだけに、指導者の責任はきびしく、重いとされた。(高橋信次『高橋信次講演 '71GLA関西本部』「神と人間」、高橋信次『高橋信次講演集 カセットブック 39 GLA7周年記念講演会』「心の中に内在される英智」参照)
  94. ^ 大天使ルシフェルは、道を誤り、エデンの園から離れた人々を救うために、かつて、サタンという名で人間として地上に出たとき、自らの地位と名誉のとりことなり、天上の世界と交信をたち、地獄へ堕ち、二度と天上界へ戻って来ることはなかったとされた(1976年現在、サタンは地獄の帝王であるとされた)。(高橋信次『高橋信次講演集 カセットブック 41 '76東北研修会』「新復活」)
  95. ^ 高橋信次『心の発見 神理篇』70、71頁、高橋信次『心の発見 科学篇』179頁、高橋信次『高橋信次講演集 カセットブック 40 '76GLA青年部研修会』「正法の流転」高橋信次『高橋信次講演集 カセットブック 41 '76東北研修会』「新復活」参照。
  96. ^ 高橋信次『心眼を開く』89-95頁「正法と業」参照
  97. ^ 高橋信次『高橋信次講演集 カセットブック 40 '76GLA青年部研修会』「正法の流転」参照
  98. ^ 高橋信次『心の発見 現象篇』198-203頁参照
  99. ^ 高橋信次『心の対話』131-134頁、高橋信次『心の発見 科学篇』179頁参照
  100. ^ 高橋信次『心の対話』184-189頁「人口問題」参照
  101. ^ 高橋信次『人間・釈迦 3.ブッタ・サンガーの生活』167頁参照
  102. ^ 高橋信次『心の対話』200-201頁参照
  103. ^ 高橋信次『心の対話』178頁参照
  104. ^ 高橋信次『心の指針』186-188頁「自殺」、高橋信次『悪霊 I・II』参照
  105. ^ 高橋信次『心の指針』140、141頁、高橋信次『高橋信次講演集 カセットブック 24 '75GLA東北研修会』「正法の実践」、高橋信次『ブラジルへのメッセージ』参照
  106. ^ 高橋信次『心眼を開く』62-64頁「他力の誤り」参照
  107. ^ 資料もなく、ペン一本で大変な勢いで『人間釈迦』第二部「集い来る縁生の弟子達」を執筆する信次を見て、当時三宝出版に勤務していた朽木丈人は、驚くばかりのペン運びだが、どのように書いているのかと質問をした。それに対して信次は、手が自然に動き、書いている場面、人々の顔・姿が、テレビの画面のように、カラーで、声も付いてどんどん出てくる、それを見て書いていると答えた。(朽木丈人『佛の道』194-197頁参照)

[編集] 参考文献

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  • 園頭広周『現代の釈尊高橋信次師とともに ‐ 信仰の指針』(弟子の手記)正法会出版部、1984年1月、ISBN 4915582019(新装改訂版は正法出版社、1992年8月17日、ISBN 4915582272
  • 朽木丈人『佛の道』(弟子の手記)ひかり出版社、1992年11月、ISBN 493878100X
  • 木下俊雄『人生逆転の瞑想法‐運命を変えた霊能力者との出会い』(初期信者の手記)IN通信社、1991年10月ISBN 4872180445
  • 菅原秀『誰も書かなかった高橋信次 ‐ 光の求道者』(初期信者の手記)明窓出版、1995年8月、ISBN 4938660466
  • 林家木久蔵『木久蔵の心霊教室‐不思議を訪ねて』(会見記を収録)潮文社、1983年1月、ISBN 4806311219
  • 佐藤正忠『信仰は力なり』経済界、1990年12月、ISBN 4766701917
  • 高橋信次『心の原点』三宝出版、1973年9月1日、ISBN 4879280062(1980年10月30日、新装改訂版)
  • 高橋信次『心の発見 現証篇』三宝出版、1973年4月20日、ISBN 4879280054(1981年1月31日、新装改訂版)
  • 高橋信次『心の発見 科学篇』三宝出版、1971年5月10日、ISBN 487928002X(1981年1月31日、新装改訂版)
  • 高橋信次『心の発見 神理篇』三宝出版、1971年1月15日、ISBN 4879280011(1982年1月10日、新装改訂版)
  • 高橋信次『心の指針』三宝出版、1974年1月5日、ISBN 4879280070(1980年11月10日、新装改訂版)
  • 高橋信次『心眼を開く』三宝出版、1974年7月8日、ISBN 4879280090(1980年11月10日、新装改訂版)
  • 高橋信次『人間・釈迦 1 偉大なる悟り』三宝出版、1973年、4月1日、ISBN 4879280046(1980年10月31日、新装改訂版)
  • 高橋信次『人間・釈迦 2 集い来る縁生の弟子たち』三宝出版、1974年5月5日、ISBN 4879280089(1980年11月20日、新装改訂版)
  • 高橋信次『原説般若心経 内在された叡智の究明』三宝出版、1971年12月15日、ISBN 4879280038(1981年1月15日、新装改訂版)
  • 高橋信次『高橋信次講演集 カセットブック』全41巻、三宝出版
  • 高橋信次『高橋信次講演集 真の経営者の道』全6巻、GLA経営者研修会


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