ヘレン・ケラー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ヘレン・アダムス・ケラー(Helen Adams Keller、1880年6月27日 - 1968年6月1日)は、アメリカの教育家・社会福祉事業家である。自らも重い障害を背負いながらも、世界各地を歴訪し、身体障害者の教育・福祉に尽くした。
目次 |
[編集] 年譜
- 1880年6月27日、アメリカ合衆国のアラバマ州、タスカンビアで誕生。地主の娘であった。
- 1882年、2歳(生後19か月)のときに熱病にかかり、医師と家族の懸命な治療によりかろうじて一命はとりとめたものの、聴力と視力を失い、話すことさえできなくなった。この事から、両親からしつけを受ける事の出来ない状態となり、非常にわがままに育つ事となってしまった。
- 1887年、彼女の両親アーサー・ケラーとケイト・ケラーは聴覚障害児の教育を研究していたアレクサンダー・グラハム・ベル(電話の発明者として知られる)を訪れ、彼の紹介でマサチューセッツ州ウォータータウンにあるパーキンス盲学校の校長アナグノスに手紙を出し、家庭教師の派遣を要請した。3月3日に派遣されてきたのが、同学校を優秀な成績で卒業した当時弱冠20歳のアン・サリヴァン(通称アニー)であった。彼女はその後約50年にもわたってよき教師として、そして友人として、ヘレンを支えていくことになる。
- 1897年、アン、ギルマン校長と衝突する。ヘレンはケンブリッジ女学院を退学、ふたりはレンサムに落ち着く。ヘレンは、もうひとりの家庭教師の手を借りて勉強を続ける。
- 1900年、ヘレンはラドクリフ大学(現ハーバード大学)へ入学した。
- 1902年、『わたしの生涯』出版される。
- 1904年、ラドクリフ女子大学を卒業、文学士の称号を得る。
- 1906年、マサチューセッツ州盲人委員会の委員となる。
- 1909年、社会党に入党。婦人参政権運動、産児制限運動、公民権運動など多くの政治的・人道的な抗議運動に参加する。また、著作家としても書き続ける。
- 1916年に世界産業別労働者組合(IWW)にも共感し、活動に参加した。そして、1917年のロシア革命を擁護した。
ポリー・トムソン、ヘレンとアンのもとにくる。
- 1936年10月20日、アン・サリバン、死去。
- 1937年(昭和12年)、ポリーとともに、日本を訪問。このとき彼女は秋田犬を所望し、後に2頭を贈られた。
- 1946年、海外盲人アメリカ協会の代表として、ポリーとヨーロッパを訪問。
- 1948年(昭和23年)、2度目の来日。これを記念して2年後の1950年、財団法人東日本ヘレン・ケラー財団(現東京ヘレン・ケラー協会)と、財団法人西日本ヘレンケラー財団(現社会福祉法人日本ヘレンケラー財団)が設立されている。
- 1951年、南アフリカを訪問。
- 1952年、フランス政府からレジオン・ド=ヌール勲章を授けられる。
この年から1957年にかけて、中東、中央アフリカ、北欧、日本を訪れる。
- 1955年(昭和30年)、3度目の来日。熱烈な歓迎を受けた。来日の理由には1954年に没した朋友岩橋武夫に花を手向けるためでもあった。ヘレンは空港で岩橋の名を叫び、岩橋の家では泣き崩れたという。
- 1960年、ポリー・トムソン、死去。
- 1961年、病気になり、徐々に外界との接触を失う。
- 1968年6月1日、死去。87歳没。
[編集] 政治的活動
ヘレンは福祉活動のみに限らず、広範囲な政治的関心をもち活動した女性であった。当時として先進的な思想をもち、男女同権論者として婦人参政権、避妊具の使用を主張し、また人種差別反対論者であり、また過酷な若年労働や死刑制度、そして第一次世界大戦の殺戮に反対した。
これらの活動のため、ヘレンは FBI の要調査人物に挙げられている。
[編集] その他
ヘレンは、自身の考える20世紀の三大重要人物を問われて、エジソン、チャップリン、レーニンと答えている。
ヘレンとアン・サリヴァンの半生は、『奇跡の人』(原題:The Miracle Worker)として舞台化及び映画化されており、日本でも何度も上演されている。原題の"The Miracle Worker"には「(何かに対して働きかけて)奇跡を起こす人」といった意味があり、アン・サリヴァンのことを指すが、日本ではヘレンのことと誤解され、「奇跡の人」がヘレンの代名詞として用いられることも多い。
「人生は恐れを知らぬ冒険か、無か。(Life is either a daring adventure or nothing.)」の言葉でも知られる。
その一方で、彼女を快く思わない者も少なくなく、重光葵の手記『巣鴨日記』(『文藝春秋』昭和27年8月号掲載)によると、巣鴨プリズンに収監されている元将官たちの中には、彼女のニュースが耳に入ってきた際、彼女のことを「あれは盲目を売り物にして居るんだよ!」とこき下ろしている者もいた。このことに関して重光は「彼等こそ憐れむべき心の盲者、何たる暴言ぞや。日本人為めに悲しむべし」と彼らを痛烈に批判すると同時に、見解の偏狭さを嘆いている。
[編集] 著作物
- わたしの生涯 (岩橋武夫訳、角川書店、1966年(原著1903年)、ISBN 4-04-314201-3)
- 奇跡の人ヘレン・ケラー自伝 (小倉慶郎訳、新潮社、2004年、ISBN 4102148213)
[編集] 参考文献
- 日本ライトハウス21世紀研究会編 『わが国の障害者福祉とヘレン・ケラー』 教育出版、2002年、ISBN 4316379607。
- さくらももこキャラクター原作 関宏之監修 宮原かごめ漫画 『ちびまる子ちゃんのヘレン・ケラー』 集英社、2003年、ISBN 4083140224。
- そのとき歴史が動いた 世界偉人編 集英社、2007年