陸奥国 (1869-)
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陸奥国(むつのくに)は、日本の明治時代に設定された地方区分の国の一つである。領域は現在の青森県全域に岩手県西北の二戸郡を加えた範囲に相当する。
分割前の陸奥国については陸奥国を参照
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[編集] 沿革
明治維新の折、明治政府による天皇を中心とした中央集権体制が敷かれる過程で、江戸時代の各藩の領国支配と異なった単位での地方支配体制が求められ、令制国をもとにした地方区分が試みられた。
その際、面積が広い陸奥国と出羽国は分割されることになり、明治元年12月7日(1869年1月19日)の太政官布告により陸奥国は、陸奥国・陸中国・陸前国・岩代国・磐城国の五つに分割されたが、明治政府の地方支配体制は、その後の廃藩置県によって実現されたため、明治元年の陸奥国分割は、政治的にも地域圏・文化圏成立にもほとんど意味を成さなかった。
なお、陸奥国と同時に分割された出羽国が羽前国・羽後国と筑紫国・豊国・肥国の前例に倣い「前・後」に分割されたのに対して、陸奥国は越国や吉備国が「前・中・後」に分けられて成立した越後国や備後国に倣い「陸後国」となるはずのところを改称されず「陸奥国」の名称をそのまま引き継いだ。その理由については諸説有るが、元より「奥」は「後」と同様に京都から遠いことを表していることと、和銅6年(713年)に丹波国から丹後国が分割された際に改称されなかった前例に倣ったものと考えられる。
歴史的に見れば、8世紀前半までの東北地方は大半が蝦夷の支配地域であったため大和朝廷の支配地域は現在の宮城県一帯を北限としていた。そのため、1869年に成立した陸奥国は1000年前に「陸奥国」と呼ばれていた地域から見ると300kmほども離れた全く別の地域ということになる。
分割時、陸奥国の領域にあった藩は下記のとおりである。
[編集] 一宮
全国一の宮会では分割前の陸奥国と区別するため「津軽国」(つがるのくに)の呼称を用い、岩木山神社(弘前市)を「新一の宮」に認定している。
[編集] 郡
[編集] 人口
明治5年 (1872年) の調査では、人口47万3244人を数えた。
[編集] 関連項目
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