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連山 (航空機) - Wikipedia

連山 (航空機)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

十八試陸上攻撃機 連山
十八試陸上攻撃機 連山

連山(れんざん)は1943年(昭和18年)に日本海軍から試作発注を受け、中島飛行機が開発した4発陸上攻撃機。記号はG8N、連合軍コードネームはRita。試作のまま終戦を迎えたので厳密には「試製連山」と称するのが正しい。試作年次については資料により「十八試陸上攻撃機」とするものと「十七試陸上攻撃機」とするものがある。(「試作年次について」参照。)

目次

[編集] 概要

連山は大型の新型機開発としては異例の速度である発注後1年ほどの1944年(昭和19年)10月に試作一号機が完成し、初飛行に成功した。1945年(昭和20年)1月に海軍に引き渡された。本機は優れた性能を期待されていたが、実際の試験飛行はほとんど行われなかったため、その本当の性能は不明瞭なまま終わっている。終戦後アメリカ合衆国に接収された機体もあったが(4号機)、アメリカでの数回の飛行試験後、博物館に保管される予定であったものの、保管スペースが確保できなかった上、同時期に朝鮮戦争が勃発した影響もあって廃棄処分され、現存する機体はない。

計画要求書とおりの性能が出ていれば、当時の日本軍用機としては生産性・整備性・速力・爆弾搭載量に優れ、空力的に洗練されており武装も強力な機体となったはずであった。しかし、相当に低下した当時の工業力や資源では信頼性の高い排気タービン過給器が作れず、本機も他の航空機同様過給器に泣かされたといえよう。事実、戦後機体を接収した米軍も試験飛行に際しての整備には非常に苦労したという。アルミニウム資源枯渇対策として、鋼製の機体(連山改)が終戦時設計中だった。

連山は鹵獲したアメリカ陸軍の爆撃機B-17を解体・調査した上で得られた情報や技術を参考に設計されている。機体のデザインこそ海軍の銀河や陸軍の飛龍を4発機にした様な形になっているが、機銃の配置はB-17 と同一である。本機はある意味で「和製B-17」と呼べる機体である。技術的に特筆すべきは、視・射界が極めて良好で空力的にも洗練され、降着装置も初めて前車輪式を採用していた。

[編集] 仕様

十八試陸上攻撃機 連山の三面図
十八試陸上攻撃機 連山の三面図
  • 型式:4発中翼単葉陸上攻撃機
  • 構造
  • 全長:22.93 m
  • 全幅:32.54 m
  • 全高:7.20 m
  • 主翼面積:112.00 m²
  • 発動機:中島」24 — ル型(NK9K-L)空冷式複列星型18気筒(2000馬力1490kW)4基
  • プロペラVDM定速4翅
  • プロペラ直径:4.00 m
  • 自重量:17.4 t
  • 全備重量:32.15 t
  • 最大速度:593 km/h(1t爆弾を搭載した状態で高度:8000 mの場合)
  • 巡航速度:370 km/h(高度:4000 m)
  • 最小速度:149 km/h
  • 実用上昇限度:10200 m
  • 航続距離:3700~7470 km(装備の重量によって変化)
  • 乗員:7人
  • 武装
    • 20 mm機銃6門(胴体前方上方旋回2門・胴体後下方旋回2門・尾部旋回2門)
    • 13 mm機銃4挺(機首旋回2挺・胴体両側旋回各1挺)
    • 爆弾250 kg8発・800 kg3発(最大4000 kg)

[編集] 試作年次について

試作年次については資料により「十八試陸上攻撃機」とするものと「十七試陸上攻撃機」とするものがある。本機の試作の進行は以下のようなものであったとされる。

  • 1942年(昭和17年)の12月末に海軍から中島飛行機に「実用機試製計画番号N-40」として大型陸上攻撃機の開発が「内示」された。
  • 中島飛行機はそれに基づいて計画を進め、翌1943年(昭和18年)9月14日に正式な発注が行われた。

通常、試作の内示はあくまで内示に過ぎず、正式な発注の年次によって「○○試」が冠せられる。したがって連山については以上の経緯から見れば「十八試」であるとするのが妥当である。しかしながら

「N-40の設計主任は天山、深山の設計者故松村技師で内示以来7ヶ月半にわたる基礎計画の結果、ようやく18年9月14日に17試陸攻註文書[1]が発せられ『連山』は試作に入った」

とする資料もあり、通常の内示とは異なるものであった可能性もある。また、前述のように本機は試作発注からわずか1年で初飛行するという異例の速さで開発されており、その点も「内示」が通常の内示と異なる可能性をうかがわせるが、「内示」の内容については手がかりが無く、憶測の域を出ない。本項ではさしあたって正式発注の日付を根拠として「十八試」を用いる[2]

[編集] 脚注

  1. ^ 航空情報編集部・編集兼発行人(今井仁)『日本軍用機の全貌』1953年、酣燈社刊、206頁(1955年改訂増補版222頁)
  2. ^ 中島飛行機では、その前の四発機「深山」の失敗もあって17年から設計検討に入っており、その意味では17の考え方もありますが海軍からの試作命令は18年になっている。(中島飛行機ホームページ担当者の言葉)

[編集] 関連事項

  • 小林彰太郎:自動車雑誌『CAR GRAPHIC』の創始者。当時、海軍技術研究所の「材料強弱」という研究実験部署に学徒動員で配属されていた。この時に、鋼鉄製の連山の開発の研究実験に少なからず関わっていたが、途中で終戦を迎えた(参考文献:二元社・CAR GRAPHIC 2005年9月号)。


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