辰吉丈一郎
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基本情報 | |
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本名 | 辰吉 丈一郎 |
通称 | 浪速のジョー |
階級 | バンタム級 |
国籍 | 日本 |
誕生日 | 1970年5月15日(38歳) |
出身地 | 日本・岡山県倉敷市 |
命日 | |
死地 | |
スタイル | オーソドックス(右ボクサーファイター) |
プロボクシング戦績 | |
総試合数 | 26 |
勝ち | 19 |
KO勝ち | 13 |
敗け | 6 |
引き分け | |
無効試合 |
辰吉 丈一郎(たつよし じょういちろう、1970年5月15日 - )は、岡山県倉敷市出身で、大阪帝拳ジムに所属するプロボクサー。第50代日本バンタム級、第18代WBC世界バンタム級、第21代WBC暫定世界バンタム級、第25代WBC世界バンタム級王者。正しくは「丈`一郎」のように「丈」の右上に点を書く(機種によっては表示可能→「𠀋」)。愛称は浪速のジョー。自身が幼年期にいじめられっ子であった過去を持つ。入場曲は死亡遊戯メインテーマ(なお、一時期、元光GENJI・諸星和己から提供されたオリジナルのテーマ曲「JOE」を使用したこともあった)。身長164.1cm、リーチ178cm、胸囲99cm、上腕33.5cm、右ボクサーファイター。血液型はB型。デッドリフトのMAX187.5キロ、両手の握力は50キロ以上、左の方が少しだけ強い。
目次 |
[編集] 来歴
ボクシングファンであった父・粂二(くめじ)より幼少のころからボクシングを仕込まれた。中学時代の担任であった依田教諭の勧めで、中学卒業と同時に片道の電車代だけをもって大阪に渡り、大阪帝拳ジムに入門した。
粂二は辰吉にボクシング(喧嘩)の稽古を付けていた時に、構える手の高さは胸の前あたりの方が、相手全体を見渡したり攻撃をかわしやすく、また、喧嘩の相手を掴んだり凶器を奪いやすいと教えた。辰吉の無意識にガードを下げる癖はそこに由来すると考えられる。辰吉自身の解釈は、喧嘩では相手がオーソドックスの場合に右足で蹴ってくる場合が多く、左手を下げておくことで蹴りを払い、右手でパンチを繰り出すことができるからだと映画「BOXER JOE」で語っている。
なお、この時期の辰吉は、サウナや立ち食いうどん屋などでバイトをしながらボクシングに打ち込んでいた。
1987年、17歳で全日本社会人選手権バンタム級優勝。ソウルオリンピックの有力候補だったが、体調不良により予選で敗退した。この後約一年間、諸事情によりジムを離れて半ば放浪同然の生活を送っている。その後、後の専属トレーナー大久保淳一氏が主催するジムでのトレーニングを経て大阪帝拳に復帰。アマで数試合をこなす。この頃から辰吉の試合記事は関西地区のスポーツ新聞に写真入りで報じられており、その才能は早くから注目の的だった。アマチュア通算成績は19戦18勝(18KO・RSC) 1敗。
1989年9月29日、韓国スーパーバンタム級2位の崔相勉を2回2分47秒KO勝ちでプロデビュー。プロデビューしたあと、どうしても靴磨きセットが欲しくて万引きしたことがある。
1990年9月11日、国内最短タイ記録となる4戦目で日本バンタム級王座を獲得。
1991年9月19日、8戦目で世界初挑戦。グレグ・リチャードソン(米国)を10回終了TKOに降し、WBC世界バンタム級王座獲得。8戦目での世界王座奪取は国内選手としての史上最短タイ記録。辰吉の他に8戦目で世界王座奪取を果たしたのは新垣諭(JBC未公認のIBF世界バンタム級)と名城信男(WBA世界スーパーフライ級)しかいない。
しかし、同年12月、無敗のWBC世界バンタム級5位、李勇勲(韓国)との初防衛戦に向けてトレーニング中、左眼網膜裂孔が判明し、長期間の休養を強いられる。
1992年9月17日、王座奪取から丸1年ぶりの初防衛戦。休養中にWBC世界バンタム級暫定王座に就いたビクトル・ラバナレス(メキシコ)と統一戦を戦うが、9回TKOに敗れ、王座陥落。しかし負けたのは、双子の弟「丈二郎」と言い張っていた。
その後、1戦をはさみ、1993年7月22日、WBC世界バンタム級暫定王座決定戦としてラバナレスと再戦。12回判定勝ちを収め、10ヵ月ぶりの世界王座返り咲きを果たす。
ところが、同年9月、今度は左眼網膜剥離が判明し、暫定王座返上。引退の危機に。しかし、1994年7月2日、ハワイで復帰戦を行い、3回KO勝ち。この勝利でWBCから返上していた暫定王座を再び与えられる。
同年12月4日、WBC世界バンタム級正規王者薬師寺保栄との統一戦が実現。この試合は彼のキャリアの中でも最大の注目を集め、圧倒的優位を予想されたが、12回判定負け。暫定王座から陥落。
その後、1996年3月3日と翌1997年4月14日の2度にわたり、WBCスーパーバンタム級王者ダニエル・サラゴサ(メキシコ)に挑むが、いずれも敗戦。「もはや世界王座返り咲きは無理」という声も聞かれるようになった。
同年11月22日、通算5度目の世界挑戦。元のバンタム級に戻し、WBC世界同王者のシリモンコン・ナコントンパークビュー(タイ)に挑戦。圧倒的不利の予想を覆し、7回TKO勝ち。約3年ぶりの世界王座返り咲きを果たす。
1998年3月8日には初防衛、同年8月23日には2度目の防衛に成功。
12月29日、元WBA世界バンタム級王者でもあるウィラポン・ナコンルアンプロモーション(タイ)を相手に3度目の防衛戦を行うも、6回KO負けを喫し、王座陥落。
1999年8月26日、挑戦者として大阪ドーム(現・京セラドーム大阪)でウィラポンと再戦するも、7回TKO負けで雪辱ならず。試合後、「普通のお父っつあんに戻ります」と現役引退を表明した。
しかし、日増しに現役続行への思いが強まり、後に引退表明を撤回。復帰へ向けて始動するも、周囲の反対もあり、再起まで3年以上もの期間を要する。
2002年12月15日、実に3年4ヵ月ぶりの復帰戦。元WBAフライ級王者のセーン・ソー・プルンチット(タイ)を相手に復帰戦を行い、7回TKO勝ちを収める。
2003年9月26日、復帰第2戦を行い10回判定勝ちを収めるも、その後は負傷した左脚の回復が思わしくなく、再び長いブランクに入っている。
2005年4月16日、日本武道館で行われたWBC世界バンタム級の防衛試合でウィラポンが長谷川穂積に判定負けを喫した。新王者長谷川への表彰中、辰吉がリングに上がり、インタビュー中の長谷川を無視してウィラポンの片手をあげ、そしてリングを一周した。リングを一周した後、辰吉はウィラポンと共に立ち去り、チャンピオンベルトを長谷川に渡さずベルトも一緒に控え室へと帰った。この行為にファンからは辰吉への非難の声が大きい。[1]
現在プロボクサーを目指している長男・寿希也とともに奇跡の王座返り咲きを信じて練習を続けており、2008年5月4日には一部メディアで同年8月にタイで復帰戦が行われる可能性があるという報道がなされた[2]。
亀田興毅についてはパンチもあるし基本もできていてよく練習するので、世界チャンピオンになるべき選手だと思うと語っている。[3]
[編集] エピソード
- ボクシング番組の解説などで明らかなパンチドランカーの症状(呂律が回っていない、発言内容が支離滅裂など)を見せている。
- ダウンタウンの松本人志とは、親友として知られる。その縁で「ダウンタウンDX」などにもゲスト出演している。
- 交友範囲の広いことで知られる彼だが、特に岸本加世子には絶大な信頼をおいており、実の姉のように慕っている。
- 北野武と対談を通じて懇意となる。辰吉が王座から陥落しスランプに陥っていたころ、激励の意味で自筆の絵を送った。そこに書かれていた言葉は、映画「キッズ・リターン」におけるエンディングの台詞になっている。
- 布袋寅泰、イチローとも仲がよい(度々、会場まで試合観戦に訪れている)。
- ボクシング漫画「はじめの一歩」では何度も扉ページに登場し、「勝っても負けても彼ほど人を感動させるボクサーはいない」と評されている。またアニメ全般についても話し出すと止まらないくらい好んでいるという。
- 一人称はボク。俺やワイとは決して言わない。
- 公共広告機構のCMに出演し「いじめはすごかったですよ。親が泣くくらいでしたからね。」などと幼年期に自身がいじめに遭っていた事実を告白しているが、いじめを克服した後、小学生時代から中学生時代までにやった喧嘩では負け知らずで、その間の不良少年としての"武勇伝"は今でも伝説になっているという。喧嘩では拳は使わず(理由は相手が大怪我するから)平手打ち(掌底)を使っていたという。本人いわく、これが効果抜群で、フォローにひじ打ちを併用すれば文句無しだったらしい。
- 中学時代は皆勤賞、3年間一度も欠席がなかったという。これも恩師の影響が大きかったとか。
- 中学生の頃、辰吉は、下校途中にベンツを横付けされ、ヤクザにからまれたことがある。その時、辰吉は「おっちゃん、そんなにすごまんとってぇや」と言いながら、車のウィンドーに近寄っていくと、即座にキーを回転させて抜き取り、道路脇に生い茂っていた草むらに向かってキーを思いっきり放り投げると、笑いながら走って逃げたことがあるという。
- 本格的にボクシングを始めて3回目のスパーリングであったが国体2位の選手を左ボディーブロー一発で倒した事により辰吉はボクサーとして世間の注目を集め始める。しかし、アマチュア時代、試合に敗れた精神的ショックからジムを飛び出し、半年ほどホームレス生活を送る。本人曰く、この間、自動販売機の釣銭返却口を漁ったり、ダンボールハウスで野宿したりと散々な日々を過ごしていたとの事だが、そんな中、偶然立ち寄った喫茶店で現在のるみ夫人(旧姓:徳丸)と出会い、ホームレス生活から立ち直り競技に復帰するきっかけを与えられる事となる。
- 1987年の沖縄国体の会場通路でピューマ渡久地と大喧嘩をしそうだったことがある(理由は沖縄出身で発音に訛りのある渡久地が文句あっかと言ったのを辰吉が儲かってまっか?と聞き間違えたから)。このエピソードはボクシングファンのあいだでは知られた話だが、渡久地は引退後インタビューに答えて、(国体の)大阪代表が騒いでいたので怒鳴っただけで、辰吉と喧嘩になったことはないと証言している。
- 辰吉は非常に練習量の多いボクサーとしても知られている。一時期、他のジムの練習生や若手ボクサーが大阪帝拳ジムに出稽古に行く際、彼等のトレーナーは「辰吉とは絶対一緒に練習させないでくれ」と大阪帝拳のトレーナーに頼み込んでいたという。その理由は、辰吉相手のスパーリングで選手が潰されてしまう事に対する懸念ではなく、辰吉の日々の猛練習を目の当たりにする事で選手が競技を続けていく自信を失いジムを辞めてしまう事に対する懸念であったとの事である[要出典]。
- タイトルマッチでは「王者は赤いトランクスを着用して戦う」という慣例がある中、辰吉は赤いトランクスを着用して臨んだ試合を落とすことが多かったため、1996年の王者返り咲き以後の防衛戦には青いトランクスを着用した王者として臨んだ。
- レフェリーのリチャード・スチールに「オスカー・デ・ラ・ホーヤには若い女性ファンが何人いるか知らないが、あれだけ多くの青少年を夢中にさせるという点では、辰吉が世界一だと確信している。」と言わしめた。
- 現在は、大阪帝拳ジムにて、現役復帰を期して練習に励む傍ら、実子である辰吉寿希也のトレーナーを務めている。辰吉自身は再三に亘ってジムサイドに自分の試合を組むよう懇願したが、その度に、大阪帝拳ジムの吉井清前会長は「お前の体が心配だから試合は組めない」と辰吉を諭していた。
- 昔はシンナー遊びの常習者だったことを公言している。だが、シンナー遊びの集合時間に遅刻したときに、仲間たちの狂態を素面で目の当たりにし、「これではいけない」と悟りシンナーをやめたという。
[編集] 戦績と獲得タイトル
[編集] 戦績
- アマチュアボクシング:19戦18勝18RSC1敗
- プロボクシング:26戦19勝13KO6敗1分
戦目 | 日付 | 勝敗 | 時間 | 内容 | 対戦相手 | 国籍 | 備考 |
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1 | 1989年9月29日 | ☆ | 2R 0:47 | KO | 崔相勉 | 大韓民国 | プロデビュー戦 |
2 | 1989年2月11日 | ☆ | 2R 2:18 | KO | チャーチュード・エウアンサンパン | タイ | |
3 | 1989年6月28日 | ☆ | 7R 2:10 | KO | サミュエル・デュラン | フィリピン | |
4 | 1990年9月11日 | ☆ | 4R 2:51 | KO | 岡部繁 | 日本 | 日本バンタム級タイトルマッチ |
5 | 1990年12月18日 | ☆ | 2R 3:04 | KO | ジュン・カーディナル | フィリピン | |
6 | 1991年2月17日 | 引分 | 10R | 判定 | アブラハム・トーレス | ベネズエラ | |
7 | 1991年5月19日 | ☆ | 10R | 判定3-0 | レイ・パショネス | フィリピン | |
8 | 1991年9月19日 | ☆ | 10R 3:00 | TKO | グレグ・リチャードソン | アメリカ合衆国 | WBC世界バンタム級タイトルマッチ |
9 | 1992年9月17日 | ★ | 9R 1:19 | TKO | ビクトル・ラバナレス | メキシコ | 王座陥落 |
10 | 1993年2月11日 | ☆ | 2R 1:55 | TKO | ホセ・ルイス・ベガヒル | メキシコ | |
11 | 1993年7月22日 | ☆ | 12R | 判定2-1 | ビクトル・ラバナレス | メキシコ | WBC世界バンタム級暫定王者決定戦 |
12 | 1994年7月2日 | ☆ | 3R 2:48 | KO | ホセフィノ・スアレス | メキシコ | |
13 | 1994年12月4日 | ★ | 12R | 判定0-2 | 薬師寺保栄 | 日本 | WBC世界バンタム級王座統一戦 |
14 | 1995年8月26日 | ☆ | 9R 2:59 | TKO | ノエ・サンティヤナ | メキシコ | |
15 | 1995年11月23日 | ☆ | 8R 2:55 | TKO | ヘロニモ・カルドス | メキシコ | |
16 | 1996年3月3日 | ★ | 11R 2:47 | TKO | ダニエル・サラゴサ | メキシコ | WBC世界ジュニアフェザー級タイトルマッチ |
17 | 1996年12月21日 | ☆ | 10R 1:02 | TKO | フェルナンド・アラニス | メキシコ | |
18 | 1997年4月14日 | ★ | 12R | 判定0-3 | ダニエル・サラゴサ | メキシコ | WBC世界ジュニアフェザー級タイトルマッチ |
19 | 1997年7月26日 | ☆ | 10R | 判定3-0 | リカルド・メディナ | メキシコ | |
20 | 1997年11月22日 | ☆ | 7R 1:54 | TKO | シリモンコン・ナコントンパークビュー | タイ | WBC世界バンタム級タイトルマッチ |
21 | 1998年3月8日 | ☆ | 12R | 判定3-0 | ホセ・ラファエル・ソーサ | アルゼンチン | 防衛1 |
22 | 1998年8月23日 | ☆ | 6R 3:00 | 負傷判定3-0 | ポーリー・アヤラ | アメリカ合衆国 | 防衛2 |
23 | 1998年12月29日 | ★ | 6R 2:52 | KO | ウィラポン・ナコンルアンプロモーション | タイ | 王座陥落 |
24 | 1999年8月26日 | ★ | 7R 0:44 | TKO | ウィラポン・ナコンルアンプロモーション | タイ | WBC世界バンタム級タイトルマッチ |
25 | 2002年12月15日 | ☆ | 6R 1:10 | TKO | セーン・ソー・プロエンチット | タイ | |
26 | 2003年9月26日 | ☆ | 10R | 判定3-0 | フリオ・セサール・アビラ | メキシコ |
[編集] 獲得タイトル
[編集] 定年と現役続行をめぐって
2003年9月以降は全く試合を行っていないが、未だに現役選手扱いである。但し、JBCのボクサーライセンスは更新しておらず、国内での公式試合出場にはJBCにライセンスを申請しなければならない。
2007年5月に37歳の誕生日を迎えたことで、本来はJBCルールに基いて強制引退の対象となる。だが辰吉はWBC世界バンタム級、日本バンタム級の元王者であるため、特例措置として直前の試合から5年以内、つまり2008年9月までに再起すれば厳しい条件付ながら現役続行が可能な立場にある。とはいえ前述した通り、辰吉は網膜剥離の既往者であるために、世界戦またはそれに準ずる試合でしか国内での選手活動は不可能な立場にある上、大阪帝拳ジムを始めとする関係者はそもそも辰吉の現役続行に難色を示しているため、彼の置かれた立場は極めて厳しい。辰吉は状況打破のため2007年4月20日に最低限の生活費だけ持って、タイへ渡り、実戦練習などを積んで2007年5月14日帰国した。その後、同僚の日本ランカーとスパーリングを行ったが、今のところ不本意な内容・結果しか残せず、大阪帝拳ジム側も辰吉の試合を組むことには消極的な姿勢を示している。
今後、JBCライセンスが取得出来ない状況に追い込まれても、かつて網膜剥離でJBCのライセンスを失効していた頃のように、外国のコミッションでライセンスを申請し、試合に出場することは可能である。だが、その際は日本のボクシング界との関係が絶望的に悪化することが予想され、また、所属ジムからのプロモートが期待出来なくなるため、世界王座復帰へ向けて極めて厳しい立場に置かれることは間違いない。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
[編集] 脚注
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前王者 グレグ・リチャードソン |
第18代WBC世界バンタム級王者 1991年9月19日 - 1992年9月17日 |
次王者 |
前王者 辺丁一 |
第21代WBC世界バンタム級暫定王者 1993年7月22日 - 1994年12月4日 |
次王者 |
前王者 |
第25代WBC世界バンタム級王者 1997年11月22日 - 1998年12月29日 |
次王者 |