福島盆地
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福島盆地(ふくしまぼんち)とは、福島県北部に位置する盆地。旧信夫郡と旧伊達郡にまたがる平地であることから、信達(しんたつ)平野とも呼ぶ。
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[編集] 特徴など
東に阿武隈高地、西に奥羽山脈がある。東北新幹線と山形新幹線を中心に、東北本線、奥羽本線、福島交通飯坂線、阿武隈急行が走る。北東から南西にひょうたん型をしており、ひょうたん型の南部は福島市東部、ひょうたん型の北部は伊達郡桑折町と国見町の南部と、伊達市西部が占める。盆地の南部の福島市街地中心部にはモナドノック(monadnock:残丘)の信夫山があり、福島盆地の象徴的な風景となっている。福島県の県庁所在地。
ながらく盆地南部の吾妻山山麓は水の便の悪い不毛の地であったが、江戸時代より水利管理技術の向上が進み、暴れ川と呼ばれた阿武隈川支流の荒川の治水にも成功し、次第に耕地として開墾された。一方、幕末から盆地東部を中心に養蚕が盛んになり、戦前は福島盆地全体に桑畑が広がっていた。戦後の養蚕の斜陽化で果樹への転作が進み、現在では盆地南部の吾妻山麓も含めて全国有数の果樹の一大産地となっている。特にももの生産が盛んで、甲府盆地に次いで日本第二位。
飯坂温泉、高湯温泉、土湯温泉をはじめとして、多数の温泉地がある。
[編集] 気候
典型的な内陸性盆地型気候。山形盆地や甲府盆地と同様、夏の最高気温は35度を超える日がめずらしくなく、毎年、年に数回はその日の全国最高気温をマークする。雪国と言うほどの降雪はなく、平野部では30cmも降れば大雪で、厳冬期の最低気温もマイナス10度を下回ることはまずない。冬期の生活上の問題は、降雪よりもむしろ凍結路である。
盆地の低地は標高50m以下、一方盆地周辺部の高山地帯は標高1,800mに至るため、同じ生活圏であっても地域による気候・天気の差は大きい。桜などの花見では、福島市内だけで低地から高地まで1ヶ月以上楽しむことができる。
[編集] 歴史
律令制で道国郡制が整備され、当初から奈良時代は福島盆地とその周辺区域全体が陸奥国信夫(しのぶ)郡であった。しかし、10世紀前半に、西側が信夫郡、東側と北部が伊達郡と、2郡に分割された。現在の福島市は、旧信夫郡に伊達郡の一部と安達郡の一部を加えた領域になっている。
和歌で枕詞として詠われる「信夫(しのぶ)」は福島盆地、「文知摺(もちずり)」は福島盆地内の地名である。
平安時代末期~鎌倉時代初期には、現在の東北地方ほぼ全域が奥州藤原氏の勢力圏となり、福島盆地は現在の福島県中通り、会津、置賜地方を支配した奥州藤原氏の一族、信夫佐藤氏の本拠地となった。福島盆地北西部の飯坂にある大鳥城が佐藤氏の本城だった。源義経の忠実な家臣として有名な佐藤継信、佐藤忠信兄弟も、信夫佐藤氏の頭領で信夫庄司であった佐藤基治(佐藤元治)の子である。
源頼朝の奥州征伐では、福島盆地北端の厚樫山(あつかしやま:あるいは国見山)山麓に奥州藤原氏勢力は巨大な防塁を築き、この厚樫山山麓が奥州藤原氏と鎌倉の事実上の決戦場となった。
源頼朝の奥州征伐の後、関東武士である常陸入道念西(伊達朝宗)の一族は、佐藤基治を破った功により、福島盆地の信夫郡・伊達郡を拝領して伊達氏を名乗るようになり、以後、安土桃山時代まで伊達氏支配となる。(ただし、信夫佐藤氏は完全に滅びたわけではなく、子孫はその後伊達氏や岩城氏、相馬氏、佐竹氏等に仕えたり、伊勢に転封されたりしている)
豊臣秀吉による伊達政宗の転封により、近江武士の蒲生氏郷の支配となる。蒲生氏滅亡後、越後から上杉景勝が転封されて、江戸時代初期まで上杉氏支配となる。この上杉氏支配下で、福島盆地内の開墾整備が急速に進み(西根堰などが有名)、農業生産高を大きく飛躍させた。上杉氏のお家騒動によって信夫郡、伊達郡が上杉氏から召し上げとなった後は、福島盆地内にはめまぐるしく小藩や幕領が入り乱れて、明治維新を迎えた。
なお、江戸時代前期までは、現在の福島盆地中心部である福島市街域よりも、肥沃な土地が多い福島盆地北部の阿武隈川流域(現在の伊達郡桑折町、伊達市梁川町、伊達市保原町)の方が経済活動が活発であり、政治的経済的中心だった。伊達氏も伝統的に盆地北部を本拠地とし、初期の福島藩(本多氏)も、桑折に築城しようと縄張りした(ただし築城前に転封となった)。現在のように福島盆地南部の経済活動が活発になったのは、板倉氏によって福島城下の整備がすすみ、治水事業によって福島盆地南部の開墾が進んだ江戸時代中期以降である。
[編集] 信達平野湖説
福島県と宮城県の県境近くの猿跳(さるっぱね)岩によって阿武隈川がせき止められて福島盆地全体が湖水だったという、伊達風土記をはじめとする信達(しんたつ)平野湖説という民間説話がある。実際に福島盆地では低地の砂岩質の地層からよく貝殻なども発見されている。しかし、福島盆地東北端の平地や猿跳岩の標高は約40mで、対して信夫山周辺の福島市街地の標高は約70m。信夫山が島になる水位を保つのは地形的に不可能である。また信夫山が島になる水位であれば湖底であるはずの場所からも縄文・弥生時代以降の史跡が発掘されている。南関東広い地域が内海であった約6,000年前の縄文海進までさかのぼって考えても、縄文海進による水位上昇は3m~5mであったため、福島盆地の標高で内海になることもあり得ない。
実際、福島盆地が浅海であった時代は地質調査より確認されているが、化石化した魚介類がよく見つかる梁川層などの浅海時代は新生代第三期の約1500万年~1600万年前の地層であり、人類登場よりはるか以前のものである。現在の福島盆地の地形がほぼできあがったのは第四紀更新世中期の約20万年前、その後、盆地に流れ込む河川により、盆地低地部の堆積や段丘化を経て現在の地形になった。
以上のように、信達平野湖説は地質学的にはあり得ない。信達湖説は、盆地全体の見た目の地形のイメージや貝殻の化石が見つかることなどから生まれた都市伝説的風説と推察される。