佐藤忠信
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佐藤 忠信(さとう ただのぶ、応保元年(1161年) - 文治2年9月22日(1186年11月4日))は、平安時代末期の武将で、源義経の家臣。『源平盛衰記』では義経四天王の1人とされる。佐藤継信の弟。父は、奥州藤原氏に仕えた佐藤基治、もしくは藤原忠継。官位は左兵衛尉従六位下。仮名の四郎と合わせ四郎兵衛尉とも。
治承4年(1180年)奥州にいた義経が挙兵した源頼朝の陣に赴く際、藤原秀衡の命により兄・継信と共に義経に随行。義経の郎党として平家追討軍に加わった。兄・継信は屋島の戦いで討死している。
元暦2年(1185年)4月15日壇ノ浦の合戦後、義経が許可を得ずに官職を得て頼朝の怒りを買った際、忠信も共に兵衛尉に任官しており、頼朝から「秀衡の郎党が衛府に任ぜられるなど過去に例が無い。身の程を知ったらよかろう。その気になっているのは猫(もしくは狢、狸?)にも落ちる。」と罵られている。
文治元年(1185年)10月17日 義経と頼朝が対立し、京都の義経の屋敷に頼朝からの刺客である土佐坊昌俊が差し向けられ、義経は屋敷に残った僅かな郎党の中で忠信を伴い、自ら門を飛び出して来て応戦している。
文治元年(1185年)11月3日 都を落ちる義経に同行するが、九州へ向かう船が難破し一行は離散。忠信は宇治の辺りで義経と別れ、都に潜伏する。文治2年(1186年)9月22日、人妻であるかつての恋人に手紙を送った事から、鎌倉の御家人・比企朝宗(糟谷藤太有季)に居所を密告され、潜伏していた中御門東洞院を襲撃される。忠信は奮戦するも、多勢に無勢で郎党2人と共に自害して果てた。(『吾妻鏡』より)
『源平盛衰記』によると享年は26。
[編集] 狐忠信
室町時代初期に書かれた『義経記』での忠信は、義経の囮となって吉野から一人都に戻って奮戦し、壮絶な自害をする主要人物の一人となっている。義経記の名場面から、歌舞伎もしくは人形浄瑠璃の演目として名高い「義経千本桜」の「狐忠信」こと「源九郎狐」のモデルになった。
継信・忠信兄弟の妻たちは、息子2人を失い嘆き悲しむ老母(乙和御前)を慰めんとそれぞれの夫の甲冑を身にまとい、その雄姿を装って見せたという逸話があり、婦女子教育の教材として昭和初期までの国定教科書に掲載された。
首相岸信介、佐藤栄作兄弟の実家佐藤家は忠信の末裔を称している。