佐藤基治
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佐藤 基治(さとう もとはる、永久(元年1113年) - 文治5年(1189年)?)は信夫郡(現在の福島県福島市飯坂町)に勢力を張り大鳥城・(舘の山公園)に居城した武将。奥州藤原氏の郎党。
「信夫庄司」と呼ばれていたが、飯坂温泉の湧く地であるため「湯の庄司」とも呼ばれた。康治元年(1142年)、陸奥守藤原師綱が信夫郡の公田検注を実施しようとして、衝突し、斬首された大庄司季治が父親に当たる可能性が高いが、佐藤氏の家系図には見られない。
妻は藤原清綱(亘理権十郎)の娘、乙和子姫。源義経の郎党、佐藤継信、忠信の父である。さらに、元大阪市立大学教授で、古代学協会名誉会長の角田文衛によると、当時としては珍しい佐藤一族の義経に対する熾烈とも見える忠節は、君臣の関係だけでは説明がつきにくく、義経の平泉時代に迎えた妻は、佐藤基治の娘でなかったかとする説を唱えている。飯坂の佐藤氏系図のひとつに基治女・浪の戸(源義経側室)とある。
義経に従い鎌倉に赴く二人の子どもを見送り、別れる際に「二人の子どもがその忠節を全うするなら根付け。そうでなければ枯れよ」といって地面に杖を挿したが、立派に成長し見事な桜が咲いたといい、「庄司戻しの桜」と呼ばれている(現在は案内板のみ残る)。
文治5年(1189年)8月、源頼朝が奥州討伐のため奥大道(奥州街道)を北上してきた際、一族の伊賀良目七郎らと石那坂(現在の福島市平石)に陣をはり防衛した。鎌倉方の常陸入道念西子息である伊佐為宗らと戦い、合戦に敗れはしたものの、その後赦され本領に戻っている(吾妻鏡では首を打たれたとある)。