神谷美恵子
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神谷美恵子(かみや みえこ、1914年(大正3年)1月12日 - 1979年(昭和54年)10月22日)はハンセン病患者の治療に生涯を捧げたことで知られる精神科医。「戦時中の東大大学病院精神科を支えた3人の医師の内の一人」、「戦後にGHQと文部省の折衝を一手に引き受けていた」、「美智子皇后の相談役」などの逸話で知られている。語学の素養と文学の愛好に由来する深い教養を身につけており、自身の優しさと相まって接する人々に大きな影響を与えた。著書の『生きがいについて』は出版から40年近くが過ぎた現在でも読者に強い感銘を与えている。
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[編集] 生涯
[編集] 誕生からハンセン病患者との出会いまで
神谷美恵子は1914年に内務省職員である父前田多門とその妻房子の長女として岡山市に生まれた。兄弟には兄の陽一の他、後に一男二女が生まれている。父の多門はその年の4月に長崎県の理事官へと転任し、一家は長崎へと転居した。多門は内務省におけるエリート官僚として、外国との折衝を始めとした役職を歴任したため、一家は頻繁に転居している。両親が外国へ出張している際には、兄弟は離ればなれになって親類の家に預けらることもあった。1920年に多門は東京市助役となり、一家は大久保町などに居住した。美恵子は翌1921年(大正10年)に聖心女子学院小学部へと編入したが、カトリックにより運営され貴族的な雰囲気を有していたこの学校での生活には違和感を覚えている。
1923年(大正12年)になると多門はジュネーヴに新設された国際労働機関の日本政府代表に任命され、一家はスイスへと向かった。美恵子は市内に存在するジャン=ジャック・ルソー教育研究所付属小学校へ編入学した。1年生から6年生までの20人あまりの生徒が一つの教室に集められ、各自の能力に応じた指導を受けていたこの学校で、美恵子は「急に明るくなり、成長した」。この頃両親は二人の結婚式の媒酌人であり当時国際連盟事務次長を務めていた新渡戸稲造と親密に交際しており、彼を尊敬していた両親と同様に美恵子も新渡戸から大きな影響を受けた。しかし、共に貧しい境遇から努力によって身を立ててきた両親の間は不和とは言わないまでも争いが耐えなかったようで、美恵子は長女として幼い頃から家庭に気を配り、父の社交に加わっていたが、後にこのことは大きな負担であったと記している。
小学校卒業後はジュネーヴ・インターナショナル・スクールへと進学した。スイス生活が長引く中で、兄妹はフランス語を日常会話においても用いるようになった。後の時代になっても「読み書きと思考は今でもフランス語が一番楽である」と語っている。
1926年(大正15年)に一家は帰国し、父は東京市制調査会専務理事として勤務した。美恵子は一旦自由学園に編入学したが、そこでの教育が身に合わず数ヶ月の内に成城高等女学校へと転学している。学校の他にアテネ・フランセにおいて語学を、無教会主義に属する伝道師であった叔父の金沢常雄の主催する研究会では聖書を学んでいた。宗教に関しては後にクエーカーへ、さらに晩年には仏教へも興味を示したが、キリスト教一般に対する関心は生涯かわることは無かった。1932年(昭和7年)に成城女学校を卒業すると、津田英学塾本科へと進学し文学を専攻した。
1934年(昭和9年)に[1]美恵子は金沢からオルガンの伴奏役としてハンセン病療養所施設の訪問に同行してくれないかと求められた。叔父とともに多磨全生園を訪れた彼女は、患者の病状に強い衝撃を受けた。後に彼女は、この時に自分が身を捧げる生涯の目的がはっきりとした、と語っている。
美恵子は医師としてハンセン病患者に奉仕しようと決意し、東京女子医学専門学校の受験勉強を開始した。彼女の意志を知った両親や津田英学塾の星野塾長はこれを諌め、1935年(昭和10年)に本科を卒業すると塾長の薦めに従い大学部へと進学した。当時の津田の大学部では、数名の生徒に対して西脇順三郎が英語を、玉川直重がラテン語を教えるなど貴重な教育体制がくまれていたが、美恵子はハンセン病治療に寄与したいという思いを捨てきれなかった。彼女は当時死病であった結核に感染したため軽井沢へと療養に送られたが、組織的な勉強の重要性に気付いた彼女はその訓練をかねて秋には旧制高校の教授資格である英語科高等教員検定試験に受験しこれに合格している。一旦は病状が収まったものの、翌年に再発し再び療養生活へと入った。死ぬまでに古典文学を読んでおきたいとベッドの上で独学に励み、イタリア語でダンテを、ドイツ語でヒルティを、さらに古典ギリシャ語で新約聖書を読み進めていった。その中でもマルクス・アウレリウスの『自省録』は彼女の生涯を通しての座右の書となった。結核は医師の薦めで受けた人工気胸術によって完治している。
[編集] 医学への転向
1937年(昭和12年)に発生した盧溝橋事件をきっかけとして日本は中国大陸に軍を進め日中戦争が開始された。これを侵略であると非難するアメリカ合衆国との外交関係の悪化を懸念した日本政府は、1938年(昭和13年)ニューヨークに日本文化会館を新たに設けて世論の改善を図ろうととした。当時朝日新聞の論説委員を務めていた多門は、二・二六事件の頃から軍部および特高の注意を引くようになり、これを危惧した友人らの斡旋によってこの施設の初代館長に任命された。以前から渡米の話を持ちかけられていた美恵子も含めた一家は揃ってニューヨーク近郊スカースデールに移り住んだ。美恵子はこの頃にも医学への転向を再三父に申し出ている。父はこれを許さず、彼女はコロンビア大学大学院古典文学科で古典ギリシャ文学を学びはじめた。
翌年にはフィラデルフィア郊外に存在したクエーカーの運営するペンドル・ヒル[2]で寄宿生活を送り、生涯の友人となる浦口真左と出会っている。医学部進学に対する父の許しを得た美恵子は40年2月からコロンビア大学医学進学課程に入学した。翌年戦争の勃発を危惧した一家は父を残して帰国し、美恵子は東京女子医学専門学校本科に編入学した。この頃コロンビアにおいて出会った人物と婚約したと見られるが、すぐにこれは解消された。翌1941年(昭和16年)12月には日本海軍のパールハーバー攻撃によって日米は開戦し、多門はエリス島でしばらく抑留生活を送った後に第一次交換船で日本へと帰国した。
[編集] 結婚
1942年(昭和17年)の10月には当時ハンセン病の権威であった太田正雄(木下杢太郎)の研究室を訪問し、さらに卒業前の43年には岡山県の長島愛生園で12日間を過ごして日本のハンセン病治療史における重要人物である光田健輔と知己となるなどハンセン病治療に対する関心はこの頃になっても変わっていない。友人が分裂病を病んでいたことから精神医学にも興味を持つようになり、1944年(昭和19年)秋に女子医専を卒業すると東大精神科医局へ入局して内村祐之教授のもとで精神科医としての教育を開始した。1945年(昭和20年)5月の東京大空襲によって東中野の実家は全焼し、家族がみな疎開するなか一人で精神科病棟に移り住んで患者の治療に当たった。8月に日本政府はポツダム宣言受諾を発表し、同月東京湾に浮かぶ戦艦ミズーリ上で降伏文書が署名された。多門は戦後すぐに成立した東久邇宮内閣において文部大臣に抜擢され、美恵子はその仕事を手伝うために父の秘書としてGHQとの折衝および文書の翻訳作業などに従事することになった。戦時中の新潟県知事としての勤務を大政翼賛会に関係していたとして咎められた多門は翌年1月に辞職したが、美恵子はその後も後任の安倍能成大臣の要請で文部省における仕事を続け、事務嘱託の身分でGHQ教育情報部との折衝にあたった。語学の才が他に代え難かったことから、大臣よりも高額の俸給を受け取っていたともいわれる。5月に東大へと戻り、東京裁判において東条英機の頭を叩くなどして精神科に収容された大川周明の精神鑑定を手伝っている。東大医学部では、ある同僚の若い精神科医から、「ストーカー」的執着を示され、大変困惑していた様である[3]。
7月に当時東京大学理学部の講師を務めていた植物学者神谷宣郎と結婚した。神谷は美恵子と同時期にアメリカ東海岸で研究生活を送っており、同じく植物学を修めていた浦口真左のペンシルヴァニア大学サイフリッツ研究室における同僚でもあった。[4]二人は世田谷に新居を構えた後上北沢へと転居し、ここで長男の律が誕生した。結婚後十年ほどの間の暮らしは戦後の物資不足や次男の栗状結核などもあり、極めて苦しいものであった。栄養失調により律の体調が悪化した際にはララ物資による粉ミルクの支給を受けなんとか小康を取り戻している。
[編集] 文筆生活
1949年(昭和24年)に夫の宣郎は大阪大学教授に招聘され一家は大阪へと移った。12月には次男の徹も生まれ、主婦として多忙な生活を送る一方で、以前愛読したマルクス・アウレリウスの『自省録』の翻訳書を創元社から出版した。1950年(昭和25年)に宣郎はペンシルヴァニア大学に招かれたが美恵子は子供二人とともに大阪にとどまりアテネ・フランセやアメリカン・スクールで語学を教えた。51年に宣郎は帰国し一家は芦屋に移り住んだ。結核に感染した次男の治療薬を闇市で手に入れるために、自宅での私塾やカナディアン・アカデミーでフランス語を、1956年(昭和31年)からは神戸女学院大学で非常勤講師として文学を教えた。1954年に初期のガンが発見されラジウム治療を受けている。
1957年(昭和32年)に長島愛生園におけるハンセン病患者の精神医学調査を開始した。この業績をもとに1960年(昭和35年)に大阪大学で学位を取得、神戸女学院大学の教授に任命され、さらに1963年(昭和38年)からは母校の津田塾大学教授に就任した。精神医学およびフランス文学などの講義を担当しており、芦屋の家から岡山県と東京を往復する生活を続けている。愛生園での研究や58年に京都でおこなわれたゴッホ展を見たことがきっかけとなって、後に『生きがいについて』を構成する文章を書き進めていった。1963年にはアメリカで研究生活を送っていた宣郎のもとを訪れ、その帰途に同地におけるハンセン病施設および英仏の精神病施設を見学している。スイスではユネスコの政府代表となっていた兄の陽一からミシェル・フーコーを紹介された。
1965年(昭和40年)からは長島愛生園の精神科医長に就任し、自宅から療養所へと通って治療にあたった。翌66年には大戦中に自殺したヴァージニア・ウルフの病跡を調べるため渡英し、夫のレナード・ウルフと面会した。二人はレナードの死まで文通を続けている。この年にみすず書房から『生きがいについて』が出版された。
[編集] 晩年
その後は愛生園での医療に携わる傍らでフーコー[5]、ジルボーグの翻訳、自身の著書の執筆、ウルフの病跡学研究などをおこなった。1972年(昭和47年)に心臓を悪くして以降は、心身に大きな負担を強いていた愛生園での仕事を辞め家庭と執筆を中心として生活したが、晩年の数年は十数回にわたる入退院を繰り返し、1979年(昭和54年)10月、心不全のため、65歳で死去した。
[編集] 家族と友人
両親は共に、その父の代に家が没落した裕福な商家の出身である。父方の祖父は大阪の心斎橋に居を構えていた人物で、才能を元手に大商いを繰り返していたが、その後事業に失敗し多門の結婚当時には多門が給料の半分を仕送りしなければならないほどになっていた。母の房子は群馬県富岡の生糸商金沢知満太郎の第三女として生まれた。金沢家は「蔵が7つもある」ほどの金持ちであったが、自由民権運動に参加した父が警察に追われ、さらに借金をしていた人物によって家屋に放火されて一家は無一文となっている。二人の結婚を仲立ちしたのは、母が給費生として通ったクエーカーの運営する普連土学園の顧問であった新渡戸である。房子は早くからクエーカーの教えを信じ、多門も房子の死後同様にクエーカーとして生活した。二人の性格については、1940年代に美恵子がエルンスト・クレッチマーの類型論に沿って、父を分裂気質、母を循環気質と分析している。
兄の前田陽一は大学を卒業した後にフランスに長く留学し、後にフランス文学者として東京大学教授に就任した。文学に進むきっかけとなったのはスイスのインターナショナル・スクールでの教育であった。『パンセ』の草稿を詳細に解析した研究により著名である。大江健三郎のフランス語の教師であった。妹の美恵子について、「女性嫌いになりたいのなら、良くできた妹を持つのが一番である」と語っている。
二人の妹はそれぞれソニー創業者井深大、伊藤忠商事の副社長を務めた人物と結婚した。父 多門は後述の野村胡堂と共にソニーの前身である東京通信工業に出資しており、名誉職であるが初代社長を務めている。
美恵子の長男神谷律は父の宣郎と同様に生物学者となった。現在は東大大学院の理学系研究科で教授を務め、藻類がもつ鞭毛の構造および運動機構に関する研究を手掛けている。次男神谷徹は、京都大学理学部で宇宙物理学を修めたのち古楽器演奏家となり、リコーダーとユニークなストロー笛の演奏で人気を博している。
宮原安春著『神谷美恵子 聖なる声』には、美恵子が津田英学塾時代に、結核に感染し死の床にあった野村一彦と婚約したとの記述がある。二人が極めてプラトニックな恋愛関係にあったことは兄の陽一を含めた関係者の証言から裏付けられているが、二人の婚約については疑わしい。一彦は銭形平次の作者として知られる野村胡堂の長男であり、野村家と前田家は一家ぐるみで交際をしていた。
美恵子の友人でもあった一彦の妹である松田瓊子は、後に東大教授となる経済学者松田智雄と結婚したが、23歳の若さで兄と同様に結核によって死去した。死後夫の手によって瓊子が執筆した児童文学に関する研究書が出版されている。
[編集] 文献
[編集] 著作
神谷の多くの著作を出版したみすず書房から著作集が刊行されている。
- 『生きがいについて』
- 『人間をみつめて』
- 『こころの旅』
- 『ヴァジニア・ウルフ研究』[6]
- 『旅の手帖より』
- 『存在の重み』
- 『精神医学研究』
- 『精神医学研究』
- 『遍歴』
- 『日記・書簡集』
別巻 .『神谷美恵子・人としごと』
補巻 .『若き日の日記』
補巻 .『神谷美恵子・浦口真左往復書簡集』1985年、ISBN 462200643X これらの著作中において神谷自身によって記されている自身の過去のできごとには、記憶違いあるいは故意によるものと思われる間違いが存在する。それらについては下に挙げる評論において触れられている。
2004年からは以下の5冊にまとめられた神谷美恵子コレクションが刊行された。
- 『生きがいについて』ISBN 4622081814
- 『人間をみつめて』ISBN 4622081822
- 『こころの旅』 ISBN 4622081830
- 『遍歴』ISBN 4622081849
- 『本、そして人』ISBN 4622081857
その他の著作は次のとおり。
- 神谷美恵子『極限のひと : 病める人とともに』ルガール社、1973年
- 神谷美恵子『精神医学と人間』ルガール社、1978年
- 神谷美恵子『うつわの歌』みすず書房、1989年、ISBN 4622045354
翻訳としては次のものがある。
- マルクス・アウレーリアス『自省録』神谷美恵子訳、岩波書店、1956年、ISBN 4003361016
- グレゴリ・ジルボーグ『医学的心理学史』神谷美恵子訳、みすず書房、1958年、ISBN 4622022001
- ミシェル・フーコー『臨床医学の誕生』神谷美恵子訳、みすず書房、1969年、ISBN 4622022176
- ミシェル・フーコー『精神疾患と心理学』神谷美恵子訳、みすず書房、1970年、ISBN 4622023407
- ヴァージニア・ウルフ『ある作家の日記』神谷美恵子訳、みすず書房、1999年、ISBN 4622045060
- ハリール・ジブラーン[7]『ハリール・ジブラーンの詩』神谷美恵子訳、角川書店、2003年、ISBN 404361702X
[編集] 評論など
- 江尻美穂子『神谷美恵子』清水書院、1995年、ISBN 4389411365
- 宮原安春『神谷美恵子 聖なる声』講談社、1997年、ISBN 4062087154
- 野村一彦『会うことは目で愛し合うこと、会わずにいることは魂で愛し合うこと。 : 神谷美恵子との日々』住川碧編、港の人/新宿書房、2002年、ISBN 4880082791
[編集] 参照
- ^ 太田雄三『喪失からの出発』p.79によると、これは著作集別巻年譜に示されている1933年ではなく、1934年春のことである。太田はこれが同年1月27日の一彦の死から数ヶ月しかたっていないことに注目している。
- ^ 英語版ウィキペディア Pendle Hill Quaker Center for Study and Contemplation
- ^ 神谷は、「恐ろしいのは知らず知らず人を誘惑してしまう私という人間の、構成である。 男性に対するわなたる自分である。 」と、述懐している。 「どうしたらよいのかわからない。」とも。 「死ぬまで、つきまとってやる。」といわれ、大学を一週間ほど休む事もあったという。 (宮原安春『神谷美恵子 聖なる声』) 。
- ^ ペンドル・ヒル時代に美恵子は、神谷と浦口真左が結婚するのではないかと日記に記している。神谷との結婚に際しては浦口に経緯を手紙で伝え、二人を祝福する返事を受け取った上で婚約している。
- ^ 翻訳後にフーコーと面会した際に著書で理解しがたかった箇所について尋ねたところ、フーコーはあれは若書きであり云々と語り、美恵子はその言葉に驚いている。美恵子と同じく文学の素養を有する精神科医である中井久夫は、フーコーの思想は神谷美恵子が取り組むほどの価値を有していなかったのではないかと記している。
- ^ ウルフを病碩学から取り上げた研究書であるが、内の一章『V・ウルフの自叙伝試作』はウルフの日記および伝記から一人称で書かれた自叙伝を再構築するという極めて異例の作品である。文学および精神医学に通じていた彼女であったから可能であった方法であり、他の者がおこなえば強く批判されるか無視されるような「離れ業」であった。
- ^ 英語版ウィキペディア Khalil Gibran (ハリール・ジブラーン): 詩人。1883年、レバノンのキリスト教徒(マロン派カトリック)の家庭にうまれる。