内村祐之
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内村 祐之(うちむら ゆうし、1897年11月12日~1980年9月17日)は日本の精神医学研究者であり、プロ野球のコミッショナー職も歴任した人物。
[編集] 来歴・人物
東京出身。父はキリスト教思想家として著名な内村鑑三。
獨協中学校から第一高等学校、東京帝大に進む。学生野球界では特に一高時代に、早稲田・慶應義塾を久しぶりに撃破するなど名だたる左腕投手として名を馳せたが、大学卒業後は医学の道に進みつつ、学生野球の指導も行っていた。
ドイツ留学の後、1928年に北大教授に就任。その後東京大学教授(総長も務める)、国立精神衛生研究所長などを務める。偉業を達成した人物の脳の研究や双生児の研究で多くの業績を残した。
その一方1939年から1943年までは東大野球部長、1943年六大学野球連盟理事長として戦時下の学生野球の対応に尽力。戦後は、混乱の続くプロ野球界で最高委員を務めるなど、野球界にも多大な影響を与え、いわゆるV9の巨人黄金時代の川上哲治監督に大きな影響を与えたといわれるアル・キャンパニスの「ドジャースの戦法」を翻訳したのも内村である。
1962年5月、日米の野球に精通した人物として内村は第3代コミッショナーに就任。しかし第1期の任期満了間近の1965年4月、内村は札束競争にまみれてプロ野球界に入ってくる新人選手をうれい、新人研修制度を行おうと提案したが、オーナー陣の激しい抵抗にあい、自らコミッショナーの職を降りた。おおむねコミッショナーはオーナー側寄りであると批判されている中、オーナー側と対立してコミッショナー職を辞したのは内村1人である。このとき、「どんな医者でも完治の見込みがなければ患者を見放すものだよ」とコメントし、自分を推薦しておきながらその提案を飲まないオーナー陣を痛烈に批判した。
コミッショナーとしては思うように手腕を発揮できなかったが、日米の野球に精通した知識人として日本の野球の近代化に貢献した点が評価され、没後3年を経過した1983年、特別表彰として野球殿堂入りした。
妻の内村美代子は、『余は如何にしてキリスト信徒となりしか』の翻訳や、鑑三選集の編纂、また『晩年の父内村鑑三』の著作がある。
[編集] 関連項目
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