河内洋
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河内 洋(かわち ひろし、1955年2月22日 - )は、大阪府堺市出身の日本中央競馬会(JRA)所属の元騎手で現在は調教師。「牝馬の河内」といわれたほど牝馬の騎乗は得意であり、かつて所属していた厩舎が同じであった武邦彦にとって弟弟子存在で、息子の武豊の兄弟子的存在であった。騎手としての成績14940戦2111勝。JRA重賞134勝(JRAのGIおよびGI級勝利は22勝)。騎手時代、「若大将」「栗東の青年団長」「西のエース」「牝馬の河内」の呼び名を持っていた。
2001年にはナインティナインの岡村隆史演じる新人の岡村騎手の先輩役としてJRAのCMに、またトヨタ自動車のカローラのCMにそれぞれ出演したことがある。
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[編集] 来歴
- 父は春木競馬場(現在廃止)の調教師で、幼少の頃から馬に親しみを持ち騎手を志すようになる。
- 1970年 騎手見習いとして武田作十郎調教師に入門。
- 1974年3月3日 武田作十郎厩舎よりデビュー。初騎乗を初勝利で飾る。
- 1979年5月20日 優駿牝馬(オークス)をアグネスレディーで勝利し、クラシック初制覇。当時、デビュー6年目のクラシック制覇はありえなかった時代である。同年、ハシハーミットで菊花賞を制した際には、杉本清が「やったり河内、やったり河内」と実況している。
- 1981年4月29日 カツラノハイセイコで天皇賞(春)制覇
- 1982年12月26日 サラ系のヒカリデユールで有馬記念制覇
- 1984年11月18日 ニホンピロウイナーで第1回マイルチャンピオンシップ制覇
- 1986年11月2日 メジロラモーヌで日本競馬史上初の牝馬三冠達成(桜花賞・優駿牝馬(オークス)・エリザベス女王杯)。このころから牝馬による勝利数が増え「牝馬の河内」と呼ばれるようになる。
- 2000年5月28日 アグネスフライトで念願の東京優駿(日本ダービー)制覇。(ちなみに、祖母アグネスレディー、母アグネスフローラと三代にわたって河内が騎乗し、いずれもクラシック制覇という偉業を果たした)
- 2001年4月15日 アグネスタキオンで皐月賞を制し、五大クラシック競走の完全制覇を達成。
- 2001年7月29日 2000勝達成(増沢末夫、岡部幸雄に次いで3番目。当時の最短スピード記録で現在は武豊が抜く。)
- 2002年11月30日~12月1日 阪神競馬場で行われた第16回ワールドスーパージョッキーズシリーズ(WSJS)に出場。初日の成績はふるわなかったが、2日目のゴールデンスパーT、ゴールデンブーツTを共に勝利し、総合優勝した。
- 2003年2月23日 騎手生活最後の日を迎える。京都競馬場で10鞍に騎乗し、1番人気に支持されること7鞍、その他のレースでも2番人気2鞍、3番人気1鞍と同騎手の人気がうかがえた。 (なお、現役最後の勝利となった際騎乗していたタイムトゥチェンジ号は、第16回WSJSにおけるゴールデンスパーTで勝利をおさめた時の騎乗馬であり、現役最後の騎乗となった際騎乗していたメイショウチェリオ号は、同じくWSJSにおけるゴールデンブーツTで勝利をおさめた時の騎乗馬である。)最終レース終了後は杉本清氏司会で引退式が行われた。
- 2003年2月28日 1000勝達成騎手の調教師第1次試験免除の規定が2002年度の試験をもって廃止になったため、騎手を引退、調教師に転身する。
- 2005年3月1日 厩舎を開設。3月12日初出走で2着。惜しくも騎手時代のような初出走初勝利は飾れなかった。
- 2005年4月10日 厩舎開業から15戦目、ミッドナイトトークで初勝利。鞍上は弟弟子の武豊。
- 2006年5月21日 管理馬ヤマニンファビュル号を第67回優駿牝馬に出走させ、17着。これが厩舎初の中央GI出走。
- 2007年4月22日 東京競馬場で歴代の日本ダービー、オークスに勝利している引退騎手によるレース第1回ジョッキーマスターズに出場し見事1着でゴールした。
[編集] 代表馬
[編集] 騎手時代
- アグネスレディー(1979年 優駿牝馬)
- ハシハーミット(1979年 菊花賞)
- カツラノハイセイコ(1981年 天皇賞・春)
- ヒカリデユール(1982年 有馬記念)
- ニホンピロウイナー(1984年・1985年 マイルチャンピオンシップ、1985年 安田記念)
- メジロラモーヌ(1986年 桜花賞、優駿牝馬、エリザベス女王杯)
- サッカーボーイ(1988年 マイルチャンピオンシップ)
- アグネスフローラ(1990年 桜花賞)
- ダイイチルビー(1991年 安田記念、スプリンターズステークス)
- ニシノフラワー(1992年 桜花賞、スプリンターズステークス)
- レガシーワールド(1993年 ジャパンカップ)
- メジロブライト(1998年 天皇賞・春)
- ミッドナイトベット(1998年 香港国際カップ)
- アグネスフライト(2000年 東京優駿)
- アグネスタキオン(2001年 皐月賞)
「牝馬の河内」と言われ、ハシハーミットでの菊花賞制覇以降牡馬クラシックとは縁遠かったが、2000年にアグネスフライトによって悲願のダービージョッキーとなった。なお、天皇賞(秋)を勝てば旧八大競走完全制覇だった。
また、オグリキャップがJRAに移籍してきた際、1988年のジャパンカップまで主戦騎手を務めた。オグリキャップの6歳時、陣営が武豊に騎乗を依頼した際、武は河内がオグリキャップから降ろされている経緯もあることから、河内に気を遣い、相談を持ちかけたが、河内は騎乗を勧めたという。河内の物事にこだわらない人柄を示すエピソードと言えよう。
温厚篤実な性格で石橋守、武豊から絶大な信頼を置かれていた。ベテランとなってからは関西の若手騎手の間で「神様」的な存在であり、「河内さんを怒らせるということは余程のことをした時」と言われていたらしい。
寡黙な性格でインタビューにも淡々と応じることから、「職人」とも呼ばれていた。ただしトレセン内では余計なインタビューから逃れるために食堂の厨房内にいることが多かったとも伝わっている。また、不用意、不勉強な質問に声を荒げることも極稀にあったという。
[編集] 調教師時代
2005年3月開業。騎手時代から縁のある西山牧場系列の馬と渡辺孝男所有馬を多く管理しているが、それ以外にも騎手時代から縁がある馬主や牧場の馬を手広く管理している。
厩舎開業初期、解散した清水久雄厩舎から移籍したハートランドヒリュの管理を引継ぎ、サラブレッド・アラブを通じたJRAの平地競走最多出走記録更新も期待されていたが(実際、清水からその事を託されていたという)、管理後3週間目の2006年3月22日、調教中に急死してしまった。翌年には、同様に解散した瀬戸口勉厩舎から重賞馬マルカシェンクを引継いだものの、5月に腸捻転を発症。同年末に復帰している。
騎手の起用については、武豊や藤田伸二など有力騎手に依頼する一方で、「人も育てる」の信念の下、若手騎手にも積極的に依頼している。特に長谷川浩大にはアグネスアークなど厩舎の期待馬の手綱を多く任せている。また、石橋守や小池隆生にも厩舎開業当初からよく騎乗依頼をしている。小池に関しては厩舎の調教も任されており、2007年5月9日にはフリーから河内厩舎所属の騎手へ所属変更され、同年7月1日からは厩舎の調教助手として活動することになった。
2007年4月22日、第2回東京競馬第2日最終レース終了後に行われた「ジョッキーマスターズ」(芝1600m)に出場し、見事に初代優勝を果たす。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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クラシック三冠 | 小西喜蔵 - 栗田勝 - 吉永正人 - 岡部幸雄 - 南井克巳 - 武豊 |
牝馬三冠 | 河内洋 - 幸英明 |
変則三冠 | 前田長吉 |