カツラノハイセイコ
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カツラノハイセイコ | |
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品種: | サラブレッド |
性別: | 牡 |
毛色: | 黒鹿毛 |
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生誕: | 1976年5月13日 |
死没: | 生存中 |
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父: | ハイセイコー |
母: | コウイチスタア |
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生国: | 日本(北海道浦河町) |
生産: | 鮫川三千男 |
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馬主: | 桂土地(株) |
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調教師: | 庄野穂積(栗東) |
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競走成績 | |
生涯成績: | 23戦8勝 |
獲得賞金: | 3億1216万200円 |
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カツラノハイセイコは日本の競走馬。ハイセイコーの代表産駒で、母はコウイチスタアである。父が勝てなかった1979年の東京優駿(日本ダービー)と1981年の天皇賞(春)に優勝した。
なお、馬名の「カツラノ」は馬主の「桂土地株式会社」の冠名で、「ハイセイコー」で無いのは「競走馬名は9文字以内」に抵触するからである。
※現役時にあわせ馬齢は旧表記とする。
目次 |
[編集] 概要
[編集] 誕生
母・コウイチスタアは不受胎が続き、「繁殖牝馬失格」のレッテルを貼られる寸前の馬であった。鮫川は最初、コウイチスタアにはタケホープを配合させようと考えていたが、タケホープの父・インディアナが(血統的に)重すぎると判断。コウイチスタアがあまり馬格のない馬だっただけに、雄大なスピードが出そうな馬と言う事で、ハイセイコーが配合相手に選ばれた。父ハイセイコーは540キロに達する(1974年有馬記念)巨漢馬だったが、結果的に生まれたカツラノハイセイコは最盛期でも450キロ台で、牡馬としては小柄の部類であった。もちろん、鮫川が思い描いたような産駒には程遠かった。カツラノハイセイコに限らず、ハイセイコーの初年度産駒(55頭)は父に似ない小柄な馬が多く誕生し、生産地を大いに落胆させたと言われている[1]。カツラノハイセイコはその中でも「一番マシな方」の仔馬とも評されたが、如何せん馬格の小ささは覆しがたく、カツラノハイセイコ含む産駒が走らなければ、ハイセイコー自身の種牡馬としての評価にも影響が出るのは必至であった。事実、カツラノハイセイコがデビューした年のハイセイコーの種付け頭数は、初年度の約半分(29頭)と言う危機的状況に陥っていた。
[編集] 3歳~4歳
1978年9月1日に札幌競馬場で作田誠二(現・調教師)を背にデビューしたが暫くは勝てず、京都競馬場での4戦目のレースで福永洋一騎乗で初勝利を挙げる。だが、その後は2戦とも敗戦に終わり、3歳時は6戦1勝と言う、危機的状況の父を救うには程遠い結果に終わっている。
年が明け、4歳になると呉竹賞・ジュニアカップ・4歳ステークスと3連勝し[2]、クラシックの有力候補となる。松本善登騎乗で挑んだ東上初戦のスプリングステークスを1番人気で2着に入ったが、調整の為に滞在していた美浦トレーニングセンターの水道水を嫌い、あまり飲まなかったことから体調の維持に難航し、後に挑んだ皐月賞(5番人気)ではピークの出来とは言えず、ビンゴガルーを猛追するも2着に敗れた。
皐月賞後は東京競馬場に移動、府中の水は良く飲み、馬体も回復の兆候を見せる。メジロアサマ産駒のメジロエスパーダに次いで2番人気に推されたNHK杯はまだ回復途上で3着であったが、東京優駿(日本ダービー)には僅差ながら1番人気で出走となった。レースでは中団を進み、4コーナーで先頭に立ち逃げ込みを図ったリキアイオーを交わしにかかった。内ハイセイコ・真中リキアイオー・外テルテンリュウの叩き合いとなったが、直線抜け出しを図ろうとしたテルテンリュウが内にささった為、大外スタートの不利もあったリキアイオーがあえなく脱落。その煽りを受け、かつて父・ハイセイコーをタケホープで下した嶋田功騎乗のリンドプルバンが、抜け出す進路を塞がれてしまった。その後、残り100メートルでテルテンリュウを振り切ったハイセイコは、体勢を立て直したリンドプルバンの猛追をハナ差下し、日本ダービーに優勝すると同時に父の無念を晴らした。鞍上の松本は当時45歳。騎手生活25年目にして初のクラシック制覇となった。かつてはシンザンで有馬記念を制した松本ではあるが、この頃は調教師試験を毎年受験しており、またこの時点では現役最年長の騎手であり、最高齢でのダービー制覇となった[3]。その後は熱発に見舞われたこともあり、秋に中京競馬場での京都新聞杯になんとか出走したがファインドラゴンの10着と敗れ、レース後脚部不安や馬には珍しいとされる肺炎のため長期休養に入った。
[編集] 5歳~6歳
復帰は11ヵ月後の1980年9月7日、阪神競馬場でのオープンレース・サファイヤステークスで、8頭立ての6番人気と人気はなかったものの、ニチドウアラシの2着に入り、健在をアピールした。このレースから、癌に倒れた松本騎手に代わって、河内洋(現・調教師)が主戦騎手を務める事となった。その後京都大賞典(シルクスキーの3着)を経て天皇賞(秋)を見据えて東上。1番人気に推された目黒記念(秋)では前走でも対戦したシルクスキーや、古豪カネミノブなどを下し優勝。続く天皇賞(秋)でも1番人気に推され、2番手追走もプリテイキャストの"世紀の大逃げ"に屈し、よもやの6着に敗れた。次走となる年末の総決算・有馬記念にはメジロファントム・カネミノブに続く3番人気で出走したが、勝ったホウヨウボーイにハナ差だけ届かなかった。
6歳の初戦は1981年3月8日、阪神競馬場でのマイラーズカップで、3番人気ながらウエスタンジョージをクビ差押さえて優勝。続く大阪杯は1番人気に推されたものの不良馬場に切れ味をそがれたか、サンシードールの6着に敗れた。しかし、次走の天皇賞(春)ではかつて日本ダービーで下したリンドプルバンに次ぐ2番人気に支持され、カツアールの猛追を振り切って優勝。父が勝てなかったもう一つのビッグタイトルを手中にした。続く宝塚記念ではファン投票1位、当日も1番人気に支持されたものの、先に抜け出したカツアールに雪辱され、ハギノトップレディ・メジロファントムらを何とか押さえる2着に終わった。その後は脚部不安もあり、そのまま引退。1981年11月22日に京都競馬場で引退式が行われた。その1ヵ月後の12月14日、ハイセイコにダービーの栄冠をプレゼントした松本が、46歳という若さで亡くなった。
[編集] 引退後
父・ハイセイコーと比べ馬格が無く、母方の血統が重厚であった事が祟ったのか、種牡馬としてはあまり成功する事は出来なかった。
その産駒には距離をこなし、またタフなレースになるほど自力を見せる馬が多かった。
[編集] 主な産駒
20世紀の名馬Dream Horses2000では、20世紀の100名馬の62位に選ばれた。
[編集] 年度別競走成績
- 1978年(6戦1勝)
- 1979年(8戦4勝) - 優駿賞最優秀4歳牡馬
- 1着 - 東京優駿(日本ダービー)、2着 - 皐月賞、スプリングステークス、3着 - NHK杯
- 1980年(5戦1勝)
- 1981年(4戦2勝)
[編集] 脚注
- ^ 後に、『父親(ハイセイコー)と似ていない馬はよく走る(大川慶次郎・談)』と言われる様になるが、産駒デビュー前では当時の競馬関係者がその事に気付く筈も無かった。
- ^ 呉竹賞までは福永騎乗であったが、以降は落馬事故により重態となった福永に代わり松本善登騎乗となる。
- ^ その後、増沢末夫が1986年のダービーで記録更新している。
[編集] 血統表
カツラノハイセイコの血統 ハイペリオン系/Hyperion4×4=12.50% Nearco4×5=9.38% | |||
父
ハイセイコー 1970 鹿毛 |
*チャイナロック China Rock 1953 栃栗毛 |
Rockefella | Hyperion |
Rockfel | |||
May Wong | Rustom Pasha | ||
Wezzan | |||
ハイユウ 1961 黒鹿毛 |
*カリム Karim |
Nearco | |
Skylarking | |||
*ダルモーガン Dalmogan |
Beau Son | ||
Reticent | |||
母
コウイチスタア 1968 黒鹿毛 |
*ジャヴリン Javelin 1957 黒鹿毛 |
Tulyar | Tehran |
Neocracy | |||
Sun Chariot | Hyperion | ||
Clarence | |||
ミタケ 1960 鹿毛 |
タカクラヤマ | *セフト | |
峰城 | |||
第三スターリングモアノ一 | トビサクラ | ||
第三スターリングモア F-No.3-l |
[編集] 参考文献
- 吉村昭「第46回日本ダービー 馬券を買う」『優駿 1979年7月号』日本中央競馬会、1979年
- 福田喜久男「カツラノハイセイコのふるさと スターリングモアと鮫川三千男牧場」『優駿 1979年8月号』日本中央競馬会、1979年
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