福永洋一
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
福永 洋一(ふくなが よういち、1948年12月18日 - )は日本中央競馬会(JRA)の元騎手。高知県高知市出身。JRA騎手の福永祐一は長男。岡部幸雄、柴田政人、伊藤正徳とは騎手として同期生(馬事公苑花の15期生)にあたる。生涯成績5086戦983勝。2004年騎手顕彰者。
目次 |
[編集] 概要
日本の近代競馬の歴史にあって、稀代の天才騎手として燦然とその名を残す人物である。福永洋一こそ中央競馬史上歴代最高の騎手として挙げる中央競馬関係者も数多い。同じレースに騎乗した経験もある1000勝ジョッキーの田原成貴、的場均も著書の中で「どこがどう凄いのか、言葉では表現できない」と述べている。
落馬事故により30歳の若さで騎手からの引退を余儀なくされた[1]上、マスコミなどからは「悲運の名騎手」「偉大な天才騎手」として語られる事が多く、また福永本人も落馬事故の重い後遺症がある為に人前にはほとんど出てこない事もあり、事故から時を経た現在にあっては、もはや伝説めいた存在にさえなっている。また、福永が落馬事故に遭わず、もしも健在であったならば、現在は武豊が数多く持つ中央競馬の騎手関係の記録の多くは福永のもの、若しくは抜かれたとしても一朝一夕にはいかなかったであろうと言われている。
なお、地方競馬でも福永と同時期に佐々木竹見(川崎)、坂本敏美(名古屋)、千島武司(道営)など、驚異的な成績を残して現在「伝説の名騎手」などと呼ばれている者たちが活躍していた。だが、中央競馬と地方競馬ではシステムが大きく異なる為、彼らのどちらが上かという比較は不可能に近い[2]。
[編集] 来歴
- 1968年デビュー。関西の名門として名高い武田文吾厩舎所属。
- 1970年から1978年まで9年連続JRAのリーディングジョッキーとなり、「天才」という名をほしいままにした。さらに1977年には、それまで野平祐二がもっていた年間最多勝記録を19年ぶりに塗り替える126勝を記録する。翌1978年には131勝まで伸ばす。
- 1979年3月4日の毎日杯でマリージョーイに騎乗し落馬、頭部を強打した事による脳挫傷を発症し、舌を噛んだ事による大量出血により、命が危ぶまれる状態となったが、医師や関係者の懸命の治療により、一命は取り留めた。ただ、重い脳障害の後遺症で、人の呼びかけには反応するものの、自分の意思を伝えたり、体を動かす事が難しい状態となった。しかしながら、懸命のリハビリによって徐々に体の機能を回復してゆき、現在は息子の祐一に拍手を送るまでになったという(祐一がデビューした1996年にNHKが製作したドキュメンタリー番組「新日本探訪」でその様子が映像として残っている。また。これより前に1980年代後半に日本テレビが、「Time21」でリハビリで機能を回復する過程を取材していた)。なお、騎手免許は1982年に更新されなかった為、この時点で騎手を引退する事となった。
- 2004年JRA創立50周年顕彰をうけ、騎手顕彰者として殿堂入りを果たした。調教師の顕彰条件が「通算勝利度数が1000勝以上」と明確にされているのに対し、騎手の顕彰条件が「概ね1000勝」とされているのは、通算983勝の福永を顕彰するためであると考えられている。
[編集] 主な家族
- 長兄の甲は中央競馬(関西)の騎手で、現在は調教師。
- 次兄の二三男(故人)は大井競馬場所属の騎手で後に調教師。騎手時代にはハイセイコーに騎乗し、大井時代のイナリワンの管理調教師としても知られる。
- 三兄の尚武は船橋競馬場所属だった元騎手。
- 長男の祐一は中央競馬(関西)の騎手。
- 夫人の弟は中央競馬(関西)元騎手の北村卓士。
[編集] 騎乗スタイル
特に引き合いに出されるのが、同じ関西を基盤とし「ターフの魔術師」と称された武邦彦である。
武邦彦は、騎手にしては長身の体で、馬群の中でも何処に居るのかが遠くからも判ったほどの、特徴ある、それでいて、「絹糸一本で馬を操る」と言われた、職人的な騎乗スタイルであったが、福永の場合は、従来の騎手とは違う、独特で荒々しい騎乗スタイルであり、手前の入れ替えが下手な馬には、股をしめて膝を入れるなどの荒技などもこなしていた。しかし単に力任せの粗悪な騎乗と言うわけではなく、天性の研ぎ澄まされた騎乗センスで、馬に余計な力を使わせないようにして三分三厘まで持って行き、勝負どころと見るや、馬を仕掛けて最後の直線では鬼気迫る差しや追い込みを見せた一方で、バテた馬を叱咤激励してもう一伸びさせ、時には逃げ馬で追い込んでみたり、あるいは追い込み馬で逃げてみたりと、誠に変幻自在の騎乗振りであった。馬の能力を全て発揮させた為、福永が追い込んだ馬はレース後に夥しいみみずばれが出来、また暫く休養に入る馬も出た程であった[3]。
福永洋一の代表的な騎乗馬としては、エリモジョージが良く知られている。どろどろの不良馬場で行われた天皇賞では、それまで重馬場下手で知られていたエリモジョージで逃げを打ち、後続馬とは数馬身程度の間をとりつつ逃げ、不良馬場に苦しむライバル達が次第に圏外に去ってゆく中、直線良く追い込んできたで武邦彦の騎乗するロングホークに首差に迫られながらも、勝利した。
息をつかせぬ緊迫感あふれるレースだった故、このレースを実況した杉本清アナウンサーは、ゴールに入る頃には息が続かず、思わず声が裏返る程であった。因みに、離さない逃げというのは、相手との距離感を読む技術と、その距離を制御する繊細な手綱さばきと言う高等技術が必要である。直線での怒号を発しながらまるで他馬を威嚇するようなスタイルの裏には、そういった繊細な技術がある。
[編集] 主な勝ち鞍
- ニホンピロムーテー(1971年菊花賞)
- ヤマニンウエーブ(1972年天皇賞(秋))
- エリモジョージ(1976年天皇賞(春)、1978年宝塚記念)
- ハードバージ(1977年皐月賞)
- インターグロリア(1977年桜花賞、エリザベス女王杯)
- オヤマテスコ(1978年桜花賞)
[編集] エピソード
- 福永から5回買えば2回は当たる(連勝複式馬券において)という実績が手伝い、当時、関西の人で競馬ファンになった人の多くは福永目当てだったとも言われている。そして福永がいなくなったとたん、競馬をやめたという人も少なくなかった。
[編集] 脚注
- ^ 『馬事公苑花の15期生』の中では石井正善、佐藤政男に次ぐ、3人目のレース中の事故による騎手引退者となった(前の2名は死亡)。福永の後も、ずっと後年ではあるが柴田政人が落馬による負傷が直接の原因となって騎手を引退している。
- ^ 坂本敏美は1985年7月19日にレース中の落馬事故で頚椎を損傷し全身不随となり引退(2008年死去)、千島武司は1977年12月16日に調教中の若駒に蹴られる事故に遭い脳挫傷の為に25歳の若さで死去しており、いずれも福永と同様に『悲運の天才騎手』として現在まで語られている。
- ^ 武邦彦の場合、勝負あったと見るや、馬の疲労を考えて無理に追う事をしなかった。
日本中央競馬会・顕彰者 |
---|
調教師 |
尾形藤吉 | 松山吉三郎 | 藤本冨良 | 武田文吾 | 稲葉幸夫 | 二本柳俊夫 | 久保田金造 |
騎手 |
野平祐二 | 保田隆芳 | 福永洋一 |